夢と魔法と現実と
8
「……とは言え、僕もOB訪問を受けるなんて初めてなんだよね。自分でした事も実は無いし……OB訪問って、どういう事を訊かれるものなのかな?」
ビルの斜向いにある「ヴィクトリア」という喫茶店に入り、席に落ち着いたところで宇津木が苦笑した。店内には、落ち着いたピアノの調べが流れている。
静かで落ち着いた雰囲気のこの店は、ひょっとしたらよく作家と編集者の打ち合わせに利用されるのかもしれない。大手出版社の斜向いにある店だ。その可能性は高いだろう。
「実は……俺も勢いだけで来てしまったので、OB訪問なんて何をするのか……」
亮介が正直に言うと、宇津木は再び苦笑した。
「それ、実際のOB訪問で言ったら多分、物凄く怒られると思うよ」
「ですよね……」
申し訳無い気持ちでいっぱいになりながら亮介が項垂れたところで、ウェイターが注文を取りに来た。
「あ、僕はカフェラテで。……えっと」
「……あ。土宮亮介です。俺はエスプレッソで」
「かしこまりました」
ウェイターが席から離れていくのとほぼ同時に、二人の人間が新たに店内へと入ってきた。それぞれ三十代、四十代と思われる男性だ。二人は最奥の席に座ると慣れた様子で注文を済ませると、鞄から紙の束を取り出し何やら熱心に話し合いを始めた。
「あれが、編集者と作家の打ち合わせってヤツなのかな?」
トイフェルが呟き、亮介はしばしその様子に目を奪われた。そして、ハッとすると慌てて宇津木の方に向き直る。
「あ、済みません。俺、余所見して……」
「……」
だが、宇津木は返事をしない。それどころか、亮介以上に熱心に打ち合わせらしき様子を凝視している。それも、どことなく羨ましそうな表情で。
「……宇津木さん?」
「え!? あ、ごめん! ボーッとしちゃって……」
慌ててあたふたとし始めた宇津木は、袖を引っ掛けてお冷のグラスを倒してしまった。急いで店員に台拭きを持ってきて貰い、何とか事なきを得る。
場が落ち着き、コーヒーが運ばれてきたところで宇津木は申し訳なさそうに項垂れた。
「……ごめん。情けないね、年上で社会人なのに……こんなにそそっかしくて……」
「いえ……」
首を横に振り、亮介はふと、思い付いた言葉を口にした。
「あの、間違っていたら済みません。宇津木さんはひょっとして……編集者になりたかったんですか?」
「……」
図星だったようだ。まぁ、出版社に入る人間で編集者になりたくない人間はそんなにいないような気もするが。
「……うん。確かに、僕は編集者になりたかったよ。だからこそ、天成堂出版に入社したんだ。入社するために、何紙も経済新聞を読んで会社情報を集めたし、入社試験を受ける出版社の出している本なら興味の無いジャンルでも片っ端から読んだ」
「……やっぱり、それくらいやらないと、行きたい会社には入れないものなんですか?」
亮介の問いに、宇津木は「かもね」と言った。
「何が良ければ採用されて、何が悪ければ落とされるなんて……正解は無いと思うよ。全部の会社が似たような人材を欲しがってるってわけでもないだろうし。けど、僕の場合は……会社の情報を「ここまで!?」って人事に思わせるほど調べたのが大きかったんじゃないかって思ってる」
「まぁ、一概には言えないだろうけどね。有名でたくさんの志望者がいるだろう大手企業なら、それぐらいする必要はあるんじゃないかな?」
「……」
コーヒーと一緒に運ばれてきたピスタチオを、宇津木に気付かれないようこっそりトイフェルに与える。トイフェルはそれをぽりぽりと齧り始めた。とりあえず黙らせる事には成功したようだ。
「あの……宇津木さんは、何で出版社に……というか、編集者になりたいと思ったんですか?」
当たり障りのない……というか、OB訪問などで実際に訊きそうな内容を想像して質問してみる。すると、宇津木はしばらく考え、そして少しだけ照れた様子を見せると口を開いた。
「ありきたりかもしれないけど、面白い本をたくさん作って、世に出して……たくさんの人を楽しませたかったから、かな? 僕は昔から、本を読む事が好きでさ。本を読む事でたくさんの知識を得る事もできたし、物語の世界に浸ってどこにも行かないまま長い時間楽しくて幸せな気分になる事もできた」
それは、何となくわかる気がする。亮介だって、本はそれなりに読む。自分の趣味に合う本に当たった時は楽しい気持ちが何時間でも続くし、漫画や小説で覚えた漢字も少なくない。
「けど、僕は本を読む事は大好きでも、自分で物語を書く能力には恵まれなかったみたいでね……。だから、編集者になりたいと思った。編集者になって、作家と組んで……面白い本を生み出す手助けをしたいと思ったんだ」
「……何か、凄いですね。自分のやりたい事がはっきりしてるって感じで」
素直にそう思い、亮介は感嘆の眼差しを宇津木に向けた。そして同時に、自分は何がやりたいのか、という疑問がちらりと頭を過ぎる。
「……凄くなんかないよ。一年の研修を経て、配属されたのは営業部……。今は毎日本屋を巡って、文芸書コーナーの担当者と言い合いをする毎日さ。この本は弊社の一押しだから二十冊仕入れてくれ。いや、この表紙と内容じゃうちでは売れないから番線は押せない。……ってね」
「……」
黙り込んだ亮介に、宇津木は慌てて言葉を発した。
「あ、ごめんね。何だか僕の愚痴みたいになっちゃって……」
「……いえ。やっぱり、大変なんですね。社会人って……」
取繕うように言う亮介に、宇津木は一瞬顔を凍らせた。だが、すぐに笑顔になって言う。
「……うん、大変だよ。自分がやりたい事と全く違う事をやらなきゃいけなくなった時は、特にね。けど、それは今まで全く興味が無かった事に挑戦する事だし、ひょっとしたら思いもしなかった自分の能力が見付かるかもしれない。そう思えば、学生時代よりも色々な意味で遣り甲斐はあるかもね」
そう言ったところで、宇津木の携帯が鳴った。宇津木は一瞬ビクリとしたかと思うと、慌てて電話に出る。
「はい、宇津木です! は、はい……はい。……はい。済みません! あと少しで戻ります!」
一しきり宙に向かってぺこぺこした後、宇津木は申し訳無さそうな顔で亮介に言った。
「たはは……部長がいい加減に戻って来いってさ。そんなわけで、悪いけど……」
「あ、いえ! 俺の方こそ、お仕事の邪魔をしてしまって済みませんでした!」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。宇津木は「良いって良いって」と言いながら、伝票を持ってレジへと向かう。
支払いを済ませ、店を出てから宇津木は亮介に問うた。
「土宮君は……これから就活が本格化するんだっけ?」
「……はい」
少々緊張した面持ちになった亮介に、宇津木は「そんなに緊張する事は無いよー」と苦笑した。
「そりゃ確かに、志望する会社の情報を集めたりとか、筆記試験とか……努力しなきゃいけない事はたくさんあるけどさ。例えば面接になったら、自分と相性の良い面接官が担当してくれるかどうかっていう運も関わってくるわけだし」
宇津木の言葉に、亮介は「なるほど」と頷いた。そんな亮介に、宇津木は更に言う。
「それよりも問題は、入ってからだよね。ただ大手だからって理由で入社して、例えば僕みたいに興味の無い、相性の悪い部署に回されたりしたら……それから定年までの約四十年間、辛い想いをする事になるかもしれないよ?」
「……」
今のは、つい漏らしてしまった本音……なのだろうか?
「そんな事にならない為にも、就活が本格化する前に自分が何をやりたいのか、何が向いているのか、をしっかり考えておいた方が良いよ。それを考えるのはきっと凄く辛い事だろうけど……」
「……はい」
亮介が頷くと、宇津木はそのまま「じゃあ、就活頑張って!」とだけ言い、会社へと慌てて走っていった。
「……とりあえず、家に戻るかい?」
宇津木の後ろ姿を見送る亮介に、トイフェルが問う。亮介は頷き、駅への道を歩き始めた。