平安の夢の迷い姫
２４
九尾が首を持ち上げ、隆善を見たかと思うと微かに震えた。すると瞬く間に九尾の姿が消え、そこには一人の女童が泣き顔を作りながら倒れている。その顔に、加夜と不破は「あっ！」と声をあげた。
「あの女童……」
「えぇ……姫様の幼い頃にそっくりでございます！」
その声に、葵が「えっ」と振り向いた。惟幸や式神達は、特に反応らしい反応を示さない。そして、隆善は……苦りきった顔をしていた。
「さとりに続いて、お前もか……。俺に攻撃を躊躇わせるには加夜の姿を取れっつー暗黙の了解でもあるのか？」
『だって実際、たかよしって加夜姫様の事をもの凄く大切にしてるじゃない？ さとりや九尾でなくても、たかよしの弱点を突きたいと思ったら加夜姫様を利用するよ。大切なんでしょ？』
「うるせぇ。わかりきった事を二度も訊くな」
はぁぁ……と、これまでで最も大きなため息をついた。そして、眼前で泣いている幼い加夜に化けた九尾の頭を、その大きな馬手でがしりと掴む。何かを握りつぶすかのように、ぎりぎりと力を籠めた。痛みに、九尾が悲鳴をあげる。惟幸が、『うわ……』と顔を顰めた。葵も、痛そうに頭を両手で押さえている。
『痛そ……たかよしのあれ、大人でも痛いんだよねぇ』
「師匠、見た目や生活態度からは想像できないぐらい、握る力が強いんですよね……。あれをやられるぐらいなら、俺、自分が悪くなくてもその場で謝ります」
『自分が悪くない時は頑張ろうよ』
苦笑する惟幸に、葵も照れるように苦笑した。先ほどまでとは打って変わった、どこか平和な光景だ。ただし、この二人及び式神達のみの話である。
九尾を睨めつける隆善の表情は、地獄の閻魔とはこのような顔であろうかと思わせるほど恐ろしく歪んでいる。その顔を時折葵がちらちらと窺っている様子から察するに、彼が平和な発言をしているのは恐怖を紛らわし現実逃避をするためなのだろう。
恐ろしい顔をしたまま、隆善は再び深いため息をついた。九尾の頭を掴む手に力が入る。
「似てねぇ」
第一声に、その場にいる全員が首を傾げた。
『似てないって……幼い頃の加夜姫様に似てないって事？ けど、当人や、幼い頃から傍にいた不破殿も、その姿は幼い頃の加夜姫様だって言ってるけど……』
「俺だって、加夜の幼い頃は知ってる。六つの時からだ」
鼻息が、やや荒い。ちらりと、目付きを和らげて加夜達に視線を向けた。
「加夜が自分の顔をしっかりと覚えてねぇのは、仕方がねぇ。鏡や水面に映さねぇと、自分の顔は見れねぇからな。記憶がおぼろげなんだろう。不破はそれこそ、加夜が生まれた時から一日たりとも傍を離れずにいた。毎日の少しずつの変化や成長も見続けている。だからこそ、変化に気付き難く、ちょっとした違和感を抱く事がねぇんだろう」
隆善は九尾の頭から手を離したかと思うと、その手で胸倉を掴んだ。何も知らぬ者が見れば、而立を越えているであろう目付きの悪い男が、幼い女童の胸倉を掴んで怖がらせているという、とんでもない光景にしか見えないだろう。
「こちとら二十年前から、会っては数日離れ……を繰り返してんだよ。三日ぶりに会えば挙止が綺麗になった事に気付かされ、七日ぶりにでもなれば顔付きがどことなく女っぽくなっている事に気付かされ……だ。その一つ一つに驚かされて、余す事無く記憶に残ってんだ。そんな俺から見りゃ、お前が化けたこの加夜は、違和感だらけでちっとも似てねぇんだよ！」
一気にまくし立てた隆善に、惟幸が面白そうに『おー……』と声を伸ばしながら手を叩いた。葵は、顔がほんのりと赤く染まっている。
そして、加夜の顔は熟れた鬼灯のように赤くなっている。不破の目は、喜ばしいと言わんばかりに輝いていた。
『ついに言った、って感じだね。これで状況がもう少し落ち着いていれば良かったんだけど』
顔を赤らめる加夜にも、苦笑する惟幸にも、隆善は気付いていない。胸倉を掴んだまま、女童姿の九尾に顔を近付け、凄んだ。
「良いか？ お前がこれから悔いるべき事、嘆くべき事は、次の通りだ。俺達を散々こけにした事、加夜を危険な目に遭わせた事、幼い加夜の姿になって俺を惑わそうとした事。これが、悔いるべき事。そして嘆くべき事は、加夜が昔の自分の姿をはっきりと覚えていなかった事、俺が加夜の事を何ものにも代えがたく思っている事、それを加夜が知らなかった事、だ」
凄んだ声は低く小さく、誰にも聞き取れない。それでも、長年の付き合いからか……今、隆善が何を考え、これから何をしようとしているのかがわかったのだろう。
「葵」
ただ名前だけを呼ばれて、惟幸にも背中を押されて促されて。葵は頷き、隆善に歩み寄った。
ぼろぼろになった水干の懐から、短刀を取り出した。柄には符が巻かれている。それを隆善は、黙ったまま受け取った。
九尾を、胸倉を掴んだまま振り上げ、力任せに投げ飛ばす。恐怖で変化を保てなくなったのか、九尾が元の狐の姿に戻る。
「疾く伸びよ。急急如律令！」
弧を描きながら宙を飛び、そして落ちていく九尾に向かって短刀を突き出す。刀身は放たれた矢の如き勢いで伸び、九尾の頭を貫いた。
再び、魂が絞められるような雄叫びを発し、そして九尾はがくりと力尽きた。刀身に貫かれた体がだらりと垂れ、やがてその毛皮と同じ金色の光と化したかと思うと、宙に散じていく。光が消えた時、そこには何も残っていなかった。ただ、符の力で刀身の伸びた短刀があるばかりである。
「……片付いたか」
符を剥がし、刀身が短く戻った短刀を葵に返しながら隆善が呟けば、葵はへなへなとその場に座り込む。惟幸は疲れたような笑みを浮かべながら、左肩を馬手で揉んでいる。
「隆善様……」
まだ不安げな表情を隠せないままに加夜がおずおずと声をかけると、隆善は「おう」と笑って見せた。
「終わったぞ。とりあえず、この邸はもう大丈夫だ。……他にまだ絵が残っているなら、話は別だが……」
「いいえ。手元に残ったのは、この三枚組の絵だけよ。あとは全部外に飛んでいってしまって……」
『なら、あとは陰陽寮に任せておけば良いかな？ 危なそうなのだけ調伏して、大人しいのはとりあえず放っておいても大丈夫でしょ』
惟幸の言葉に、隆善は頷いた。そして視線を、葵に向ける。
「とりあえず、しばらくはここで休むとして……だ。葵、お前は少し休んだら、明るくならないうちに俺の邸に帰れ。その姿で京をうろついたら、要らねぇ面倒が起きそうだ」
「はい」
苦笑しながら葵が頷くと、加夜が「なら……」と呟く。
「葵殿の着物……今から繕うわ。葵殿は、繕っている間、菓子でも食べて待っていて」
言いながら、加夜は既に裁縫道具を取りに部屋まで向かおうとしている。
「かっ……加夜姫様手ずからですか？」
「姫様、縫い物でしたら、姫様自らなされずとも……」
慌てる葵と不破に、加夜はにこやかに首を振った。
「良いのよ、私にやらせて。葵殿にはとても頑張って頂いたんだもの。お礼として、私がやりたいの」
そう言って、加夜は葵を自らの部屋に手招きする。どうすべきかと狼狽えて、葵は隆善の顔を見た。そして、凍り付いた。
非常に不機嫌な顔をしている。さとりや鎌鼬、九尾に翻弄されていた時の顔がまだ穏やかに見えるほどに、歪んでいる。
「し、師匠……？」
「葵……」
じとりと、隆善は葵を見た。そして、がしりと葵の右腕を掴む。
「今すぐ帰るぞ」
「え……え？」
「隆善様？」
目を白黒とさせている葵を、隆善はずるずると引っ張っていく。そして、門の手前で振り向いた。
「悪い、加夜。また来るから、今度は花の絵でも描き溜めておいてくれ」
「え？ えぇ……」
加夜が曖昧に頷いたところで、今まで様子を見ていた惟幸がくくっと笑い出した。三人の式神達も、惟幸の後に控えて笑っている。
『たかよしってば……葵に嫉妬してどうするのさ』
「うるせぇ。引き籠りは引き籠りらしく早く山に帰れ」
それだけ言うと、隆善は再び葵を引っ張って門の外に出てしまう。
「しっ、師匠！ 痛い！ 腕が痛いですって！ ……って、何でそんな不動明王みたいな表情してるんですか！ 怖いですよ！ ……いえ、何でもないです、すみませんすみませんすみませんすみませんすみませ……」
葵の悲鳴が次第に遠のいていくのを聞きながら、惟幸が苦笑する。
『本当に、たかよしと葵、仲の良い師弟だよね。何か妬けちゃうよ』
「あの……惟幸様？ えっと……」
戸惑う加夜に、惟幸は『あはは』と軽い声音で笑う。
『大丈夫大丈夫。たかよしってば、自分もしてもらった事の無い着物の繕いを葵が先に加夜姫様にやってもらうのが嫌だったんだよ。彼、要領が良いし危ない事に積極的に首を突っ込んだりしないから、色々と物持ちが良いんだよね。それに、身だしなみに気を使う性格だし。たかよしの着物が汚れたり綻んだりしてるところ、見た事無いでしょ？ それよりも、加夜姫様の部屋にある書物。どんな物があるかもう一度じっくり見させてもらって良いかな？』
「え？ えぇ……」
頷けば、惟幸は嬉しそうな顔をして書物の山の前に座り込んでしまう。式神達はいつの間にか姿を消していた。
『あ、枕草子の他に古今和歌集と伊勢物語も、今度たかよし伝手で貸してもらっても良いかな？ どれも妻が興味を持っててさ』
「勿論、構わないわ。……伊勢物語は手習いで写して一冊余分にあるから、ご迷惑でなければお世話になっているお礼に差し上げたいのだけれど……」
『え、良いの？ なら、是非お願いしたいな。妻が喜ぶよ！』
満面の笑みを浮かべ、ご機嫌な様子で惟幸は更に書物の山を眺める。その一冊一冊の書名や内容を確認しながら、惟幸は一々顔に笑みを浮かべる。それは、幼い童子を見守るような、とても優しい笑みだった。
