平安の夢の迷い姫
23
矢を番え、ぼそぼそと呪文を唱えながら体を開いて目一杯引き分ける。弦がぎちぎちと音を立て、矢を持つ馬手は前方へ引っ張られそうだ。
九尾がひと鳴きし、跳び上がる。その瞬間、隆善は馬手から矢を離した。
腕は真っ直ぐに後へ逸れ、矢は弦から放たれる。風を切る音を立てながら飛んだ矢はしかし、九尾に軽く躱された。舌打ちをして、隆善は第二の矢を弓に番える。
だが、引き分け切る前に、九尾が屋根の上で跳躍し、隆善に向かって踊りかかってきた。
「師匠!」
『臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!』
葵が野駆の術で九尾の横っ腹に突っ込み、軌道の逸れた九尾の攻撃を、隆善の前に割り込んだ惟幸の術が防ぐ。
九字による暴風の壁に九尾が弾かれたところで、隆善は改めて弓を引き分け、矢を放った。
しかし、矢が当たる寸前に、またもや九尾は宙を舞う。くるりと一回転したかと思うと、地に降り立つ頃には轟々と燃え盛る赤ん坊の姿へと転じていた。赤ん坊を包む炎に、矢は一瞬で燃え尽きてしまう。
『強力な炎に、赤ん坊の姿……となると、あれは……』
「火之迦具土神だろうな。生まれ出でる時に、母親である伊弉冉尊のほとを焼いて、命を落とす程の火傷を負わせた炎だ。あんな……何の変哲も無い矢じゃ、そりゃあっさり焼かれちまうだろうな」
「けっ……けど師匠! 火之迦具土神の姿をしていると言っても、あれは九尾が化けた姿なんですよ? そんな、神様と同程度の炎を出す事ができるなんて……」
よく考えろ、と言いながら、隆善は葵の頭をはたいた。肩をすくめる葵に、隆善はため息を漏らす。
「あれは、加夜が考えて現に生み出した存在だ。加夜の中では、火之迦具土神は何も考えなくても常にあの程度の炎は発し続けている炎の神。……そうだな?」
問う隆善に、加夜は黙ったまま頷いた。隆善はそれに頷き返す。
「だから、だ。加夜が知っている物になら何でも化ける事ができるあの九尾は、当然、加夜の頭ん中にいる火之迦具土神と同じような事ができるっつーわけだ」
葵の顔が、情けなく歪んだ。目にはうっすらと、涙が浮かんでいる。
術で攻めても、太刀で攻めても、加夜が〝強い妖〟であると認識している九尾の狐はそれらをあっさりと躱してしまう。
何にでも化ける事ができ、こちらが新たな手を繰り出しても、あっさりとそれに対応されてしまう。
急いでいたため、矢は二本しか持ってきていない。それも片方は遠くへと飛び去り、もう片方は九尾の発した炎で燃え尽きてしまった。
気力が抜け落ちたかのようにへなへなと座り込んでしまった葵や難しそうな顔をする惟幸の姿に、加夜は胸を締め付けられるような感覚を覚えた。苦々しげな表情で九尾を睨む隆善を見れば、その痛みは更に増す。
己のせいなのだ。
葵の着物がぼろぼろで、疲れ果てて泣きそうな顔で座り込んでしまっているのも。惟幸の形代が妖達の攻撃を受け、少なくとも二度、痛い思いをしているのも。
隆善が妖達に振り回され、不機嫌そうに宙を睨んでいるのも。
加夜の、思い描いた事を現にしてしまう力。それが無ければ、妖が出てきて人々を騒がせるなどという事は無かった。
妖の絵ばかりを描かなければ、恐ろしい妖が山のように現になるような事も無かった。葵や惟幸が痛い思いをする事も無かった。
絵に描かなければ、絵が風に乗って京中に散り、隆善達を回収に走り回らせる事も無かった。
加夜が知識を持っていなければ、九尾がこれほどまでに手強くなる事も無く、隆善が苦戦する事も無かった。そもそも、知識が無ければ妖達を思い描く事も無かったかもしれない。
だが、この力が無ければ……。妖ばかり描いてしまったのは、絵を描きたいと思ったのは、知識を蓄えたいと思ったのは……。
(せめて、私にできる何かがあれば良いのに……)
寂しそうに眉を顰め、加夜は地で燃え盛る九尾を見遣る。加夜の力は、既に世にある物に影響を与える事は無い。それは、思い描いた隆善が加夜の前に現れなかった事からも明白だ。既に現の物となってしまった九尾を消したり、元の狐の姿に戻すような事は、加夜にはできない。
走る事もできず、武器を振るうような事など当然できない。術も使えない。できるのは、思い描いた物を現にする事だけだ。それも、必ずというわけにはいかない。
(けど……そうだわ。必ずじゃなくても、出す事ならできる……!)
はっと目を上げ、加夜はぎゅっと胸元で手を握った。何を出せば良いだろう、と、視線と思考を巡らせる。まず視界に飛び込んでくるのは、疲れが溜まっているだろう隆善達の姿だ。
(私のせいとはいえ、お労しい……。ここに極楽の蓮の花が咲いて、その香りに満たされれば……少しは隆善様達を癒してくださるのかしら……?)
途端、庭の池に美しい蓮が数え切れぬほど咲き乱れた。蓮が咲く池の辺りはきらきらと金色に輝きだし、芳しい香りが辺りに立ち込める。
「これは……加夜……?」
『凄い……綺麗だねぇ……』
「はい。それに、この香り……何と言うか、この香りを嗅ぐだけで疲れが取れていくような気がします」
「まぁ……何と、美しい光景なのでございましょう……」
隆善は目を瞠り、惟幸は楽しそうに目を細め、葵と不破は目をとろんとさせてその香りに酔い痴れている。
そんな中、火之迦具土神に化けている九尾だけが、煩わしそうに顔を顰めた。その様を、隆善と惟幸は見逃さない。
『たかよし。今の、見た?』
「あぁ。妖だからな。極楽に繋がる、清らかな物に不快を感じるらしい」
そう言うと、隆善は加夜にまっすぐ目を向けた。目と目が合い、加夜の胸がどきりと高鳴る。
隆善はしばらくの間、思案していたかと思うと、口にする言葉が決まったのか「よし」と頷いた。
「加夜、これは知っているか? 遠い、唐土。そこには桃源郷と呼ばれる、不思議な里があるんだそうだ」
「桃源郷……」
一言呟き、加夜は少しだけ考えた。記憶を探っている顔付きだ。
「何かで読んだ事が、ある気がするわ。たしか、行こうと思っても行く事ができない、神々が住む幻の地……なのよね?」
「そうだ。そしてその地には、桃の花がたくさん咲いている。想像してみろ。里一帯を埋め尽くすほどの、桃の花。そして花の盛りを過ぎた木には、不老長寿をもたらしてくれる仙桃が、たわわに実っている」
「桃の花が、里一帯に……」
(里を埋め尽くすほどの桃の花……きっと、穏やかで素敵な場所なんだわ。そんな場所で、隆善様と二人、語らいながらゆっくりと過ごす事ができたら……)
加夜の考えは、すぐさま現へと転ずる。夜の庭、月明かりの元に桃の木がにわかに生え出で、次々に花を咲かせ始める。淡い色をした花は月の光と蓮が発する黄金色の光に照らされて、その美しい姿を闇の中に際立たせる。
葵と不破が、更にとろんと酔い痴れた。逆に九尾は「ぎぎぎ……」と歯ぎしりをするような音を立て始める。桃には破邪の力があるからだろうか。大量の桃の花に囲まれて、かなり不快そうだ。
「よし、今だ!」
『明藤、暮亀、宵鶴!』
突然、隆善と惟幸が大きな声を発した。その声に葵ははっと我に返り、その瞬間には明藤達三人の式神が九尾に飛び掛かっていく。
九尾は辛うじて式神達の攻撃を躱し、後に跳び退る。その瞬間に気が散じたのか、火之迦具土神の姿から、元の狐の姿へと戻る。隆善が「よし」と呟いて拳を掌に打ち付けた。
「とりあえずこれで、厄介な炎は消えたな。……葵、お前さっき、野駆の術で九尾の横っ腹にぶつかったな? ……捕らえられそうか?」
その問いに、葵はにこりと笑って見せた。
「はい……できます!」
そうは言うが、肩で息をしている。極楽の蓮や桃の花の香で心の疲れは取れても、体の疲れはそれほど取れていないのかもしれない。隆善や惟幸だって、顔に出さないだけで疲れているはずだ。これ以上、九尾の調伏に時を費やすわけにはいかない。
(隆善様達の調伏を一刻も早く終わらせるためには、きっと強い武器が必要だわ。武器……どんな武器なら、隆善様のお役に立てるのかしら……?)
己に問うてみるが、答は、加夜の中で既に出ている。視線の先には、隆善の姿。彼の手の内には、五色の糸で彩られた弓がある。弓だけがある。
きらきらとした金色の光が、池の蓮から、桃の花弁から溢れ出た。光は風に乗ったかのように、隆善の手元へと集まってくる。
隆善は思わず、光に手を差し出した。光は彼の手の上で、細長い形へと変わっていく。彼の腕よりもやや長い。
「新しい矢か。助かる!」
加夜を振り返って力強く微笑むと、隆善は躊躇う事無く、矢の形をした光を馬手で掴み取った。その瞬間から光は消えていき、彼の手には一本の矢が残る。弓と揃いの、白木の矢。本矧の辺りが五色の糸で彩られている。矢尻に小さな鈴が結び付けられていた。
『何か……これでもか! ってぐらい魔除けになりそうな要素を加えた矢だね』
苦笑する惟幸を横目に、隆善は新しい矢を弓に番えた。打ち起こし、大三を取り、引き分ける。視線を、葵へと向けた。
「よし、葵! 行けっ!」
「はいっ!」
葵が駆ける。野駆の術で、目にも留まらぬ速さで九尾に接近し、その尾を掴む。九尾の動きが、止まった。
ぐぎぇぇぇええん!
耳を劈くような雄叫びが、辺りに響く。その頭上で、ちろりと鬼火が燃えた。すかさず惟幸が前に出て、素早い動きで九字を切る。
『臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!』
ばしっと鈍い音がして、九尾の纏っていた鬼火達が弾けとんだ。九尾を抑える葵を傷付けるものは、もう無い。押さえつけられた九尾は、これまでのようには躱せない。
気を集中させ、隆善は慎重に狙いを九尾に定めた。これ以上は無理であろう程に引き分けられた弓の弦はぎちぎちと音を立てている。
口元で呪文を唱える。矢に、先ほど現れた時のような光が宿った。
「葵! また上手い事避けろよ!」
叫ぶや、弓から矢が放れる。ぱぁんという乾いた音が響いた。
矢尻の鈴が、風を切って飛びながらちりりんと軽やかな音を放つ。空気が、一気に清浄になったように思われた。
矢が突き刺さる寸前に葵は九尾から手を離し、飛び退る。そして矢は、九尾の胸を貫いた。
魂を絞め殺されるのではないかと思えるような絶叫が響く。加夜と不破は思わず、両手で耳を塞いだ。慣れているのか、隆善、惟幸に葵、式神達は平然として叫ぶ九尾を見遣っている。
九尾が地に倒れ伏し、息も絶え絶えにもがいているその前に、隆善が無言のまま立った。木靴で地を踏む、ざり……という音が妙に強く耳に響いた。