平安の夢の迷い姫











22











「惟幸……!」

隆善の顔が、険しくなった。そして、その険しい顔をそのまま九尾へと向ける。

「唐土の妖、九尾の狐か。まさか加夜が、こいつを知っているとはな……」

隆善の独り言に、加夜は俯いた。顔が、暗くなっている。

「そんな顔をするな、加夜。別にお前を責めているわけじゃねぇ」

早口で言うと、隆善は数珠を構えて九尾と対峙した。その横に、明藤と暮亀も並び立つ。

「形代とは言え、目の前で主を斃された屈辱を晴らさぬわけにはいかない……鎌鼬を調伏した時に、宵鶴はこう言っていたが……お前らも同様か?」

明藤達の顔も見ないままに隆善が問えば、式神達はそれぞれ力強く頷く。隆善は「よし」と呟いた。

「遅れて、宵鶴と葵も来るはずだ。まずはそれまで持ち堪える。あの九尾に、てめぇが何をやらかしちまったのか、骨の髄まで叩き込んでわからせてやる。……で、あとから惟幸も一発ぶん殴る」

『……それは、賛同致しかねますが』

明藤が淡々と言えば、隆善は「けっ」と拗ねたように言う。

「お前らが賛同しなくても、やると言ったら、やる。あいつはたしかに強ぇが、調伏に慣れ過ぎて慢心してんだよ。一発ぶん殴って、二度とこんな事が無いようにしようと思わせてやる」

『左様でございますか。それでしたら、まぁ……お止め致しません。どうぞ、ご随意に』

暮亀の言葉に頷くと、隆善は懐から新たな符を取り出した。息を吹きかけ、ぴしりと伸ばすと、九尾に向かって投げつける。

「切り裂け!」

急急如律令と唱えるまでもなく、符は刃のように鋭くなり、滑降する隼の如く鋭く九尾へと突き進んだ。だが。

九尾は一声けぇんと鳴くと、宙でぐるりと回って見せる。途端に霧が立ち込め、呪符は霧の中に吸い込まれる。

霧が晴れれば、そこに九尾の姿は無い。代わりに、金色に輝く鳳凰の姿があった。鳳凰は夜空を光で彩りながら舞い飛んだかと思えば、邸の庭へと降りてくる。そして、くるりと回ったかと思えば、九尾の姿となった。

「流石は狐……どんな物にでも化けるのはお手の物って事か」

舌打ちをする隆善の横から、明藤と暮亀が飛び出す。だが、九尾は二人の式神をあざ笑うようにけぇんと鳴き、赤ら顔の天狗に化けると再び宙へと舞い上がる。

攻撃を当てるに至らなかった明藤と暮亀は、悔しそうに宙を睨む。それを馬鹿にしての事なのか、九尾は宙に浮きながら次々と鷹、龍、天女へと姿を変えた。どれもこれも、文句のつけようが無いほど美しい。

「気取りやがって。何にでも化けれるなら、いっそ椿餅にでも化けやがれ」

『喰らう気でございますか、たかよし様。喰えぬ狐めが化けた物など、喰らわぬ方がよろしいかと存じますが』

『それに、あの九尾は元々加夜姫様の絵が現になったもの……食べても墨の味しかしないのではございませんか?』

式神達の言葉に、隆善は不機嫌そうに黙り込んだ。どうやら、化けたら即座に食べて調伏してやろうと半ば本気で考えていたようである。

そのやり取りが聞こえていたのか、九尾が地上に降りてきた。そして、皿に盛られた美味そうな椿餅に化ける。表面はつやつやとしていて、柔らかそうで、見ただけで唾が湧いてくるようだ。

完全に馬鹿にされている。

青筋を立てながら隆善が近寄り、椿餅を鷲掴みにしようとすれば、椿餅はするりと手から逃れ、鼠に化け、鹿に化け、庭を駆けたかと思えば跳び上がって巨大な蛙となり、屋根の上でぐけけぇんと鳴いた。蛙と狐の鳴き声が混ざっている。

「完全に遊んでやがる……」

『これでは、捕らえようがありませんな……』

苦々しげに隆善が言えば、暮亀が悔しそうに頷く。口元に手を当てて、明藤が静かに唸った。

『せめて、あの九尾が化けられない物があれば……それがわかれば……』

「あぁ。それを利用して追い込む手もあるかもしれねぇな。ただ、どうやったらそれがわかるのか……」

『加夜姫様の描いた絵が現になった物なんだし、加夜姫様が知らない物になら化けられないんじゃないの?』

「なるほどな。言われてみれば……」

言い掛けて、隆善は口を噤み振り返った。加夜も、不破も、式神達も揃って後を向く。そして、全員が唖然とした。

『ん? どうしたの?』

そこには、何事も無かったかのような顔をする惟幸が立っていた。しかも、今度は形代ではない。ちゃんと人の姿をした惟幸だ。

『惟幸様!』

『ご無事で何よりでございます!』

安心した顔をする式神達に、惟幸はにこやかに頷く。その頭を、隆善は思い切り殴り付けた。

『あ痛っ……くないけど、何するのさ、たかよし』

「この感触……今度も、生身じゃねぇな? 惟幸の姿をした式神か」

『うん。形代よりも疲れるけど、その分体の大きさとかが生身と変わらないからね。手強い相手に、いつまでも形代ではいられないよ』

「……まさか、それに姿を替えるために、わざと鎌鼬や九尾に斃されたんじゃねぇだろうな?」

惟幸はふいと目を逸らした。そして、青筋を立てた隆善や顔を険しくした明藤、暮亀に『冗談だよ』と笑って見せる。

『あれは本当に、慢心による僕の手落ちだよ。流石に、三度目は無いようにする。それよりも、今は九尾だ』

言いながら、何故か惟幸は九尾を見ずに加夜の部屋へと入っていった。式神達は、得たりと言わんばかりに頷いて屋根の九尾の動向を見張り始める。

「こ……惟幸様?」

「おい、惟幸。てめぇ何考えて……」

言い掛けて、隆善は言葉を止めた。惟幸の視線の先には、文机の横に山と積まれた草子。五冊、六冊という数ではない。二十は積み上がっているだろうか。部屋の隅にも、両の手では数え切れぬ草子が積まれている。

『加夜姫様は勉強家なんだね。僕はこれだけの草子、とてもじゃないけど読む気になれないや』

「お前は無理してでも読め。特に、儀礼とかそういう事が書かれた物を徹底的に」

『まぁ、堂々巡りになる話はあとでするとして……』

「堂々巡りになる事前提か」

不機嫌そうな顔をする隆善を無視して、惟幸はぱらぱらと草子の表紙を確認していく。

『和歌も物語も、手に入る物は隈なく読んでいるという感じだね。……あ、枕草子。これ、りつがちょっと興味持ってたんだよね。たかよし、写し、手に入らないかな?』

「自分で調達しに来い。この引き籠りが」

「あの……私の物で良ければ、今度貸しましょうか?」

「おい、加夜。こいつを甘やかすな!」

隆善が眦を吊り上げるが、惟幸はどこ吹く風だ。童子のように無邪気な笑顔を浮かべている。

『良いの? ありがとう、加夜姫様! お礼に今度、たかよしの童時代の武勇伝をいくつか教えるよ』

「対価に人の昔話を語るんじゃねぇ! 自分のにしろ、自分のに!」

『えー? だって、僕の童時代の話なんて面白くないよ?』

「絶賛童時代継続中だろうが、この而立越え童」

はいはい、と流しながら、尚も草子の表紙を眺めていく。そして、『うわっ』と驚いた顔をした。

『古事記、日本書紀に、霊異記……易経に礼記に論語、春秋左氏伝。史記に山海経、老子道徳経まで……。これだけの量を読もうと思ったら、少しなら男手もわかる、なんて知識量じゃないよね……?』

素直に驚いている顔に、加夜は恥ずかしそうに頬を染めた。それとは逆に、隆善は困ったような顔をしている。

「参ったな……加夜がここまで草子を読んでいるとなると……」

加夜の知識は豊富。その加夜の想像から生まれた九尾は、本当に何にでも化ける事ができる……という事になってしまう。

「おい、加夜。何か無いのか? お前が知らねぇ事は……」

『たかよし。知らない事は知らないから知らない事なのであって、これを知らないと知っていたら、それはもう知らない事じゃないんじゃないの?』

説法のような惟幸の呆れ声に、隆善はむぐ、と黙り込んだ。ややこしい話だが、一理ある。

「知らない事……」

加夜は、眉を顰めて考えた。外が騒がしい。どうやら、膠着状態に飽きた九尾が、明藤達と一戦を交え始めたらしい。

しかし、考える事に集中しているのだろうか。どれほど外が騒がしくなっても、加夜は表情をぴくりとも動かさずに考えている。

やがて加夜は、「あっ」と小さく声をあげた。

「……あったわ。知らない事を知っているんだけど、本当に知らない事」

「何?」

『本当に?』

目を瞠る隆善と惟幸に、加夜は小さく頷いた。そして、恐る恐る、呟くように言う。

「隆善様の、お仕事の事……。普段、どんな事をなさっているのか、とか……。それに、さっき惟幸様が仰っていた、童の頃のお話とか……」

言葉が進むにつれ、隆善の顔が強張っていく。終いには、絶句、という言葉がこれ以上無いほど合いそうな顔となった。

『……うん。たしかに、知らないという事を知っている、知らない事だね』

「けどな……それをどうやって、九尾を追いこむのに利用しろってんだ?」

笑いを必死で堪えている様子の惟幸を睨み付け、隆善はため息を漏らす。惟幸は笑いを収めて『そうだねぇ……』と腕を組んだ。

『……まぁ、まずは地に降りてきてもらわないと、どうしようも無いよね。流石に、空は飛べないし……』

難しい顔をして考え込む隆善や惟幸の耳に、いつしか、たたた……という音が聞こえ始めた。人が、地を駆ける音だ。重くも軽くもない音から、足音の主が酷く小さくも、驚くほど大きくもない事が推察できる。

「師匠! 梓弓、持ってきましたっ!」

跳ねるような声がしたかと思うと、対屋から近い築地を跳び越え、葵が姿を現した。連戦の凄まじさからか、早くも「築地を跳び越えるな」という言いつけを忘れてしまっているようである。隆善が少しだけ、顔を顰めた。

葵は綺麗な姿勢で着地したかと思うと、そのまま凄まじい速さで隆善達の元へと駆け寄ってくる。手には、五色の糸で彩られた、白木の弓を持っていた。後には、抜身の太刀を握った宵鶴が続く。

弓を探したら、そのまますぐに邸を出たのだろう。葵の着物は鎌鼬に切り刻まれてぼろぼろの水干を纏ったままだ。野駆の術を使って全速力で走ってきたのか、肩で息をしている姿に加夜は「まぁ……」と悲しそうに眉を顰めた。

「葵殿、そのお姿は……」

「え? ……あ」

また一つ、加夜に罪悪感を背負わせてしまった。葵の顔が青褪め、隆善がため息を漏らしながら葵の頭を掴んだ。

「葵。今回は鎌鼬が、手加減してお前を傷付けないよう絶妙な手心を加えてくれたから良かったが、お前がまだまだ未熟だって事はよくわかったな? それを教えてくれた鎌鼬と、鎌鼬を生み出した加夜に感謝しつつ、明日からまた精進しろ」

「……はい。あの……ありがとうございます、加夜姫様!」

「え? その……えっと……」

頭を下げた葵に加夜が戸惑っている間に、隆善は素早く、葵の持ってきた弓に視線を走らせた。見たところ、損傷はしていない。弦も切れていないし、緩んでもいない。今すぐにでも使える状態だろう。

隆善は頷き、葵の背をどん、と叩いた。

「よし。葵、名誉挽回させてやる。その弓を使って、あそこで俺達を馬鹿にし続けている九尾を射ち落とせ!」

そう言われて、葵は戸惑う顔をした。そして、恐る恐る「あの……」と声を出す。

「師匠、俺……弓の射法、まともに習った事無いです……」

「……何?」

隆善の顔が、引き攣った。そして、「そう言えば……」と呟く。

「教えた覚え、無ぇな。そもそも、俺が弓も太刀も、得手じゃねぇ」

「前にいらっしゃったお客様の中に検非違使庁の方がいて、お待たせしている間に戯れでさわりだけ教えて頂いたんですけど……前のめりに体を持っていかれてしまって、まともに引けるようになるにはかなりの時を要するだろうと言われてしまいまして……。俺、弓の素質は無いみたいです……」

しゅんと項垂れる葵に、隆善は「あー……」と言葉を探すように間の抜けた声を発した。

「……まぁ、なんだ。引けるようになるのは無理とは言われてねぇんだろ?」

『そうそう。引けるようになるのに時を要するっていう事は、時をかけて鍛錬すればまともに引けるようになるって事でしょ?』

いつにない慰めの言葉に、葵はますます情けなくなってしまったらしい。どんよりと、落ち込んでしまった。その肩を、隆善がぽん、と叩く。慰めるような憐れむような、表情を決めかねているという顔をしている。

「葵。……明日から、弓の修練も追加な」

「……精進します」

消え入りそうな葵の言葉に「よし」と頷いてから、隆善は惟幸に視線を向けた。惟幸は『ん?』と首を傾げている。

「……というわけで、葵は弓を使えねぇそうだ。よって……惟幸」

葵から受け取った白木の弓を「ん」と言って惟幸に渡そうとする。生身は山中にあるが、そこは惟幸が全力で作った式神の事。物を持つ事ができるのは、先ほど加夜の部屋で草子を見ていた事からも瞭然だ。

……が、惟幸は『あはは』と乾いた笑いを発しながら、恥ずかしそうに頭を掻いた。

『ごめん、僕、葵以下。弓は全く使った事が無いって言うか、触った事も無いや』

調伏だけなら陰陽寮の陰陽師達よりも高位であろう術者の衝撃の告白に、隆善はあんぐりと口を開けた。暫し呆けてから、不機嫌そうに目を細める。

「……この、役に立たねぇ最強野郎……」

『何、その悪口。新しい……』

呆れた顔をする惟幸に、隆善は不機嫌そうに頭を振った。諦めたように、肩をすくめる。

「ただ射るだけで、あの九尾を射ち落とせるとは思えねぇな。……となると、術は使えねぇ式神達や、加夜の邸の家人達にゃ頼めねぇ。……仕方無ぇ。俺がやるしかねぇか……」

そう言うと狩衣の袖を脱ぎ、弓手に弓を持つ。葵から矢を二本受け取ると、階を降りて外に出た。

外では相変わらず、式神達と九尾が渡り合っている。式神達には新たに宵鶴の姿が加わり、九尾は蛙の化けていたのが狐の姿に戻っていた。

隆善が梓弓を持って外に出てきたのを見ると、九尾は再び、屋根の上へと躍り上った。当てれるものなら当ててみろ、と言わんばかりに、けぇん、と鳴く。

「いつまでも、そうやって余裕を見せ付けていられると思うなよ……!」











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