平安の夢の迷い姫
21
『よし……何とか数が減ってきたね』
加夜の邸では、相変わらず惟幸の形代と明藤、暮亀が奮戦していた。形代だと体の大きさが違い過ぎて感覚を掴むのが難しいとこぼしていた惟幸だが、先ほどから急に術の効果が増している。
当人曰く、隆善の方へ派遣していた一枚目の形代が不覚を取って戦線離脱したため、こちらの形代に全力を注げるようになったという事である。
鬼の大半は姿を消し、付喪神達も手足が消えてただの器物となってしまっている。今のところ鬼も妖達も、まだ人を襲いはするものの傷付けるには至っていない。家人達も含め、皆疲れてはいるが傷は追っていないという状況だ。
『残りは一箇所に追い詰めて、一気に調伏しちゃおうか。明藤、暮亀。邸の人達の避難と、鬼達の囲い込みを頼めるかな?』
『かしこまりましてございます、惟幸様』
『仰せの通りにいたします』
明藤と暮亀が頷き、家人達に邸の奥へ避難するようにと促す。大方の者が逃げたところで、明藤は柱の陰から様子を伺っていた加夜と不破の元へと歩み寄った。
『加夜姫様、不破様、お早く。ほとんどの鬼、妖は討ち果たしましたので、今なら危なげなく奥へ向かう事ができましょう』
「は……はい! 姫様、ここは惟幸様と明藤殿に任せて、お早く……」
不破が加夜の肩を包むように抱き寄せ、奥へと誘おうとした。その時だ。
けぇん、と、声が聞こえた。
あの声だ。鬼達が凶暴化する少し前に聞こえた、あの獣のような声。
「この声は、先ほどの……」
『加夜姫様達の避難が終わってから、本腰入れて調伏しようと思ってたのに……いつ、どんな時に鳴けばこちらが嫌がるかわかっててやってるのかな? ……流石に、賢いね……』
やや不機嫌そうなその言葉が終わらぬうちに、屋根の上から金色の塊がふわりと舞い降りる。
ふさふさとした毛並、すらりとした体躯の、美しい狐だ。そしてその尾は、並みの狐とは違い九つもある。
『唐土の妖、九尾の狐……加夜姫様の絵の通り、あいつがこの邸で現になった鬼や妖達の親玉みたいだね』
美しい九尾の狐は、周囲に青白い鬼火をいくつも侍らせている。また、口からも鬼火のような炎を吐いており、恐ろしくも美しい。まるで、冷たい炎から生まれ出でたかのような光景だ。
『……加夜姫様? 何、あれ? 九尾があんな事までできるなんて、聞いた事無いんだけど……』
「……ごめんなさい。唐土で天子を誑かしたと言われるほどに美しい九尾の狐が鬼火を纏っていたりしたら、きっともの凄く綺麗なんだろうな、って考えてしまって……」
『あー……うん。気持ちはわかるよ? たしかに、すごく綺麗だよね』
少し脱力したように、惟幸の形代は頷いた。小さな声でこっそりと、『燃やされないようにしないと……』と呟いている。
『惟幸様。九尾の様子が……!』
明藤の声に、惟幸も、加夜と不破も視線を九尾へと向けた。九尾はまるで笑ったかのように顔を歪めると、けぇん、と鳴いて身を震わせる。
突然、辺りが霧に満ちた。視界が白一色に染まり、九尾の姿が消えてしまう。
『しまった……!』
霧の中から、あのけぇん、という声が聞こえてくる。それとほぼ時を同じくして、霧を切り裂き、何かが飛び出してきた。飛び出してきた何かは、まっすぐに惟幸の形代へと突っ込んでくる
『臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!』
気付いた惟幸が即座に防ぐための九字を唱えるが、飛び出してきたそれは巻き起こる風を物ともせずに、形代の胸へと突き刺さった。
『惟幸様!』
『何たる事!』
明藤と暮亀が悲鳴のような声をあげ、霧を掻き分ける。柱に縫いとめられた、形代が見えた。
既にただの紙に戻ってしまっているらしく、式神達の呼びかけには応えない。その胸には、一本の矢が突き刺さっていた。
『矢?』
「姫様? 矢の事を考えたりなどは……」
「していないわ。こんな風に惟幸様を傷付けようだなんて、欠片も……」
加夜の顔は青褪め、体はかたかたと小刻みに震えている。手の先から順に、体が冷え切っていくようだ。
霧が晴れる。九尾のいた場所に、人影が見えた。
家人ではない。隆善や葵、宵鶴でもない。
麗しい顔立ちをした武人が一人、そこにいた。手に弓を持っている。背に負った平胡簶に盛られた矢は、惟幸の形代を射抜いた物と同じであるように思える。
『あの矢……どうやら、あ奴が惟幸様の形代を射抜いた者であるようですな』
静かな怒りを湛えた顔で、暮亀が武人を睨め付ける。しかし武人は暮亀の視線など物ともしない様子で、涼しげな目を細めたかと思うと、にやりと笑った。
武人がすました顔で、けぇん、と鳴く。みるみるうちに顔が獣と化していき、体中が金色の体毛に覆われる。腰から、九つの大きく美しい尾が生えた。九尾だ。
「狐が化けるところを、見てみたいと思った事はあるけど……まさか、こんな時に、こんな事で見る事になるなんて……」
途切れ途切れの言葉は、消えそうな程に小さい。半分狐、半分人の姿となった九尾が、再びけぇん、と鳴いた。辺りにまたもや、霧が立ち込める。
霧の向こうで、何かがぎらりと光った。光は宙に昇り、近付いてくるのか次第に大きくなる。
光が、霧を突き破る。光だと思っていたのは、轟々と紅蓮の炎を吐き、身に纏う九尾の狐。紅蓮の炎と青白い鬼火、ふた色の火を纏う姿は、恐ろしくも美しい。
誰もが思わず見惚れたその狐は、邸に向かって炎を吐いた。火の玉となった紅蓮の炎が、霰のように降り注ぐ。
「ひっ……姫様!」
不破が、加夜を抱き締めた。加夜はぎゅっと目を瞑り、小さな声で「隆善様……!」と呟く。明藤と暮亀が加夜達の前に立ち、火の玉と対峙した。
「臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り」
火の玉が明藤達を飲み込もうとした刹那、静かに淡々と唱える声が聞こえた。強烈な風が巻き起こり、火の玉を全て九尾へと押し返す。
「あ……!」
目に涙を浮かべながら、加夜はほっと安堵の息を吐いた。そして、嬉しそうな顔で前を見る。浅蘇芳の狩衣を纏った人物が、そこにいた。
「隆善様!」
「おう、待たせたな。……疾く湧き起これ、急急如律令!」
加夜の顔を確認すると、隆善は今宵三枚目となる湧水符を取り出し、放った。勢い良く水が噴き出し、あちらこちらに散った火の粉を消しとめる。
「……おい、加夜。惟幸はどうした? 二枚目の形代がこっちにいるはずなんだが……」
消火を確認してすぐに、隆善は友の名を出した。馬手の親指と中指が円を作っており、心配をさせた上に加夜を守れていない形代を指で弾く気満々だ。
「そ、それが……」
恐る恐る、加夜は柱を指差した。九尾の放った矢によって貫かれた形代が、そこにある。