平安の夢の迷い姫
20
「し、師匠……」
「……大丈夫だ。あれは形代、生身の惟幸は京の外、山の中にいる。今ので多少痛い目は見たかもしれねぇが、命に関わるほどでも無ぇはずだ」
そう言う隆善の顔は、苦々しげに歪んでいる。微かに揺らいでいる炎に、刺すような視線を向けた。
「葵」
「……はい」
葵の顔も、蒼から赤へと変わっている。隆善と同じように、険しい視線を炎へと向けていた。
「……もう、良いか?」
「……えぇ」
隆善は「そうか」と言うと、勢い良く炎を指差した。
「強い奴に甘えられるのも、戯れんのも、ここまでだ。一気に片付けて、加夜の邸に戻る。良いな?」
「はい。……先駆けは、俺が」
「任せる」
『お手伝いいたします、葵様。形代とは言え、我が主を目の前で斃された屈辱、晴らさぬわけには参りませぬ』
宵鶴の申し出に、葵が静かに頷いた。式神を含む三人の男の怒りに満ちた視線に射竦められたのか、鎌鼬は先ほどから動いていないようだ。同じ場所が、相変わらず周りと違う揺らぎ方をしている。それでなくとも、散々攻撃され続け、既に隆善も、宵鶴も、勿論最も早くから追われ続けている葵も、その動きには目が慣れてきている。
「疾く伸びよ! 急急如律令!」
葵が、先は間に合わなかった符に、もう一度息を吹きかける。小刀の刃は急激に伸び、揺らぐ炎に突っ込んだ。
「ぎゅいいいぃぃぃぃっ!」
耳を覆いたくなるような叫び声が聞こえ、壁から炎の塊が飛び出してくる。鎌鼬だ。
飛び出してきた炎が消える前に、今度は宵鶴が素早く駆け寄り、太刀を突き刺した。炎が消え、太刀に貫かれた鼬の顔が露わになる。
惟幸の通力で生まれた式神の太刀に貫かれているからだろうか。鎌鼬は、姿を消したくとも消せぬようだ。
宵鶴の横に、隆善が並び立つ。大きな掌が、鼬の頭を鷲掴みにした。数珠を巻きつけたもう片方の手を、鷲掴んでいる掌に重ねる。
「さんざん時を食わせやがって。お前に、これ以上かかずらっているわけにゃいかねぇんだよ。……臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」
ぼん、という音がして、鼬の頭が弾けた。纏っていた風が次第に弱まり、止む。
隆善は懐から、もう一枚湧水符を取り出した。息を吹きかけ、念に念を込める。
「疾く湧き起これ、急急如律令!」
符を、既に湧き上がっている水の中へと投じた。すると水は勢いを増し、音に聞く布引の滝とはこのような姿であろうかと思わせるほどに高くまで昇る。そして、勢いを失った後は散じて辺りに降り注ぎ、炎の壁を隈なく消し去った。
炎が完全に消え、更に水が降り注いで、辺りの空気は急速に冷えていく。着物がぼろぼろになってしまっている葵が一つくしゃみをし、隆善は手巾を投げて渡した。
「本格的に風邪をひく前に、よく拭いておけ。俺は先に加夜の邸へ戻るから、お前は……」
言い掛けて、元々険しくなっていた顔を更に険しくした。
おぉぉぉぉん……と、獣の遠吠えのような音が聞こえる。……いや、獣であればまだ良い。それよりもずっと低く、腹に響くような音だ。
音の中に、殺気が感じられる。色で表すならば、どす黒い、しかし赤の混ざった古い血のような色。粘度の高い泥のように、耳に、心に、纏わりついてくる。
「師匠……これ、まさか……」
『こんな時に……いや、こんな時だからこそ、でございましょうな。京中に、鬼が生まれ出ております。しかも、何匹かはこちらへ向かってきている』
足の速いものは既に近くまで来ているようだ。地響きのような足音が聞こえてくる。
「察するに、加夜の絵から生まれた鬼じゃねぇな。元々生まれそうになっていた奴らが、加夜の絵、現になった妖をたまたま見ちまった者の恐怖、それらが呼び水になって、一気に生まれちまったんだろう。……元を作り出した奴が責任持って片付けやがれ」
「師匠……師匠自身が鬼になりそうな顔してますよ……」
少しだけ呆れたような顔をして、葵は懐の中を確かめた。符は、少しであればまだ残っている。頷き、そして宵鶴と視線を交わして頷き合った。
「師匠。とりあえずこの場は、俺と宵鶴が引き受けます。片付き次第すぐに行きますので、師匠は早く、加夜姫様のところへ行ってください!」
その言葉に、隆善は「ほぉう」と目を瞠った。
「言うようになったじゃねぇか。葵のくせに」
「そりゃ、何とかなりそうな気がしますから! 鬼達の気配……たしかに多少強そうではありますけど、気配がわかるって事は、この鬼達には力を隠すほどの知能も無ければ、危機感を抱かせるほどの強さも持っていないという事です。例えこちらを傷付ける気満々だったとしても、加夜姫様の絵から生まれた妖達に比べたら楽勝ですよ!」
はっきりと言い切った葵に、隆善は苦笑した。くしゃりと、葵の頭を撫でる。
「自信を持つのは良い事だが、油断するなよ。お前が今、その加夜の絵から生まれた妖達と連戦した後でぼろぼろの状態なんだって事を忘れるな」
「はい!」
力強く葵が頷き、隆善も頷き返した。そして、加夜の邸へ戻ろうと足を踏み出し掛けて、ふと思い出したように振り向いた。
「……そうだ、葵」
「はい?」
葵は訝しげに視線を隆善に戻す。そんな葵に、隆善は己の邸がある方角を指差した。
「片が付いたら、加夜の邸へ来る前に、俺の邸へ一旦戻れ。でもって、塗籠の中から梓弓を探して持って来い」
「梓弓……ですか?」
「前に何かで使った魔除け用の奴が、転がってるはずだ。使えるかどうかはわからねぇが、あるに越した事はねぇ」
「わかりました!」
葵の返事を聞くや否や、隆善は駆けだした。不幸中の幸い、ここから加夜の邸はそれほど遠くない。
途中幾度か、新しく生まれたらしい鬼の姿を見掛けた。だが、鬼達は皆、鎌鼬やさとり等、あの妖達の残滓に引き寄せられているのか、隆善には見向きもせずに葵達がいる方へと去っていく。
それらを横目に見ながら、隆善はただ懸命に、加夜の邸へと向かって足を動かし続けた。