平安の夢の迷い姫
19
『ふあぁぁぁ……』
「おい、こんな時に良い度胸だな。……と言うか、形代が欠伸すんな」
鎌鼬からの風の刃を躱しつつ苦情を言うと、惟幸の形代はひらりと揺れた。
『だってさぁ、こんな刻限だよ? 普段なら、とっくに寝ている頃だし、それでなくても最近あんまり眠れてなかったしさぁ……。それに、形代と言っても、動かしてるのは生身の僕なんだよ。欠伸ぐらいするよ』
「気付いてねぇとでも思ってんのか。生身のお前が口にした事を、直接この形代が喋るわけじゃねぇんだろ。でなきゃお前、加夜の邸で一言も喋らずに動いてんのか?」
『……そういう点だけは鋭いんだから……』
「うるせぇ。余裕ぶっこいて形代に欠伸させているぐらいだ。当然、この場を何とかする算段ぐらいついてんだろうな?」
『臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!』
形代がそっぽを向きながら九字を唱え、巻き起こった風と襲い来る風の刃が相殺された。尚、隆善の問いに答える気配は無い。
「ついてねぇのかよ、この野郎!」
『ほら、こういう時こそ心に余裕を持たないと』
「お前は、たまには焦った方が良い」
『こう見えて、生身の方は結構焦ってるよ。……あ、ごめん。鬼が来たみたいだから、ちょっと待って』
言うや、形代は隆善の肩に留まると、くたりとなってしまった。……が、十度ほど呼吸をする間に、またもむくりと起き上がる。
『ごめんごめん、お待たせ。……で、何だっけ?』
「……もう良い。馬鹿らしくなってきた……」
ため息を吐くのと同時に、傍らの木の枝が折れる。はっとした隆善が跳び退ると、直後に幹があっさりと切れ、みしみしと音を立てながら木は倒れた。
「師匠! 面白おかしく言い争いしてる場合じゃないですよ!」
『太刀が通じぬ風を相手にしている以上、私一人で油断したお二人をお守りする事はできませぬ! 今は鎌鼬のみに集中して頂きたい!』
葵と宵鶴から非難され、隆善は不機嫌そうに黙り込んだ。惟幸は、どこ吹く風といった具合で宙をひらひらと舞っている。
砕け散る木や築地を横目に、葵が懐に手を差し込み、一枚の符を抜き出した。それを見て、隆善が顔を顰める。
「おい、葵。そりゃ、お前のとっておきじゃねぇのか?」
「はい。さっき、惟幸様の九字が鎌鼬の刃を相殺したのを見て、思い付いた事があるんですよ。とっておきは、こういう時に使いませんと!」
そう言って葵が構える符には「発火」という文字が見える。それを地に置き、馬手で印を切った。
「疾く燃えよ、急急如律令!」
唱えた途端に符は激しく燃え上がり、勢い付いた牛の如く一気に地を駆け巡る。地を駆け巡った炎はあっという間に人の三倍ほどの丈がある火柱となり、組み合さって炎の壁となる。自然、一同は炎の壁に囲まれた形となった。
『わぁ……葵、腕を上げたねぇ』
すすす……と炎の壁から距離を取りつつ、惟幸の形代が感心した声で葵を褒めた。率直な褒め言葉に、葵は思わず頭を掻き掻き照れる。そしてその頭に、隆善の拳が振り落とされた。
「あ痛っ!?」
悲鳴をあげ、涙目になりながら葵は隆善を仰ぎ見る。
「何するんですか、師匠!?」
「馬鹿! こんだけ派手に炎燃やして、何がやりてぇんだ、お前は!」
「何って……」
頭をさすりながら、葵は炎の壁をぐるりと見渡す。壁は、一部の隙も無く燃え盛っている。
「惟幸様が九字を切った時、発生した風と鎌鼬の風の刃、混ざり合って相殺されたじゃないですか。それで思ったんですけど、鎌鼬の刃って、勢いがあるだけで本当にただの風なんですよね。だから、炎で壁を作って俺達ごと囲ってしまえば……」
『なるほどね。炎から発生する空気はどんどん上に昇っていくから、鎌鼬の刃はそれに威力を削られる。それだけじゃなく、風を纏った鎌鼬が壁の近くを通れば炎が揺らぐから、鎌鼬の居場所が目でわかる、と』
惟幸が言えば、葵は頭を押さえながらこくこくと頷く。隆善が、ため息を吐いた。
「理由はわかった。だがなぁ……やる前に言え。一歩間違えたら、俺達の誰かが丸焼けになるところだ。大体、炎が辺りの建物に飛び火したりしたら、事だぞ。応天門の変の再来か、とか言われて騒ぎになったらどうする」
『ここ、大内裏じゃないし、そこまで大変な騒ぎにはならないんじゃないの?』
「京のどこかで大火ってだけで大問題なんだよ、馬鹿。やっぱお前、とっとと京に戻ってこい。烏帽子親適当に探してやるから元服して、出仕して社会の常識と責任感って奴を身に付けろ。この而立越え童が」
『気が向いたらね』
その気はまるで無さそうだ。隆善は再びため息をつき、己も懐から符を取り出した。
「師匠?」
「鎌鼬の場所がわかる前に丸焼けになったりしたら、話にならねぇからな。……ったく、湧水符を持っていなけりゃどうなっていたか……疾く湧き起これ。急急如律令!」
唱え、息を吹きかけた符を叩き付けるように地に放つ。符は紙とは思えぬ勢いで地に突き刺さり、そこから間欠泉のように水が噴き出る。水は立烏帽子を被った隆善より笏二つ分ほどの高さまで伸びあがると、そこで勢いが途切れて宙に散じ、隆善達に降り注ぐ。
「冷たっ……」
着物を切り刻まれあちらこちらを露出している上に水を被り、葵が小さく悲鳴をあげた。
「丸焼けになるよりゃましだろ。我慢しろ」
『あとで風邪をひかないようにね。ところで、たかよし? これって、僕はどうすれば良いと思う?』
紙であるため、火にも水にも弱い。そんな形代の惟幸に、隆善は「あー……」と面倒そうな声を発した。
「悪い。お前の事まで考えてなかったから、自分で何とかしろ」
『だと思ったよ……』
呆れた声で、惟幸の形代は両腕を上げた。「やれやれ」という言葉が聞こえてきそうな動きである。その動きに、隆善が「あとで絶対こいつぶん殴る」と考えた時だ。
『たかよし様、後を!』
宵鶴の声に、隆善は素早く振り向いた。炎の壁に一箇所だけ、違う揺らぎ方をしている場所がある。そこがひと際大きく揺らぐと、強烈な風が吹いて隆善達の周囲にある石や木の枝が切られ、砕けた。
「なるほどな。たしかに、鎌鼬の場所を掴むには良い手だ。残る問題は、どうやって調伏するかだが……」
『顔が見えている時なら、太刀でも倒せるかもしれないね。そうでない時は、九字や真言じゃなきゃ効かないと思うよ』
隆善は頷き、現在の戦力を考えた。
形代である惟幸は、術しか使えない。しかも紙であるため炎の壁に近付く事はできず、おまけに体の大きさが普段と違うためにいつもほどの威力を出す事ができない。
逆に、式神の宵鶴は太刀を使った直接の攻撃しかできぬようだ。
葵は術もできるし、小刀を用いて戦う事も出来る。だが、何分まだまだ修行中の身。決定打に欠ける。
かく言う隆善自身は、そもそも武器を何一つ持っていない。あれば使えなくはないが、無い物の話をしていたところで意味が無い。術しか使えぬという点では惟幸と同じだ。
「俺と惟幸が術で追い込んで、葵と宵鶴に直接叩かせるか……おい葵、野駆の術を常に使えるようにしておけ」
緊張した面持ちで、葵が頷いた。そして、何事かを囁くように唱えかけた時、その顔がさっと青褪めた。
「師匠、横!」
葵が指差した先の壁で、炎が大きく揺らいでいる。攻撃を仕掛けてくる前触れだ。
舌打ちをして、隆善は鎌鼬のいる方角へと向き直った。するとその間に、惟幸の形代がするりと割り込んでくる。炎の壁から、風の刃が吐き出された。
『臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!』
弱めの風が巻き起こり、風の刃とぶつかり合って相殺される。その余波で、惟幸の形代が空に舞い上げられた。
『うわっ!?』
流石に驚いた様子だが、その声にはまだ余裕がある。隆善と葵は、密かに安堵の息を吐いた。だが、視線を鎌鼬のいた場所へと戻した時、その顔はぎくりと強張る。
炎の壁が、またも大きく揺らいでいる。薄らと、鼬の顔が見える。その目は隆善達ではなく、宙に舞う形代を狙っている。
「宵鶴!」
『言われずとも!』
「疾く伸びよ! 急急如律令!」
隆善の声を受けた宵鶴が太刀を構えて飛び出し、葵も土蜘蛛と戦った時と同じ符を小刀に巻くように貼り付け走り出す。隆善も援護をしようと、印を組みかけた。
だが、それよりも早く炎の壁から風の刃が吐き出される。刃は、炎から生み出される、上へと昇る風に乗り、今までにない鋭い音を立てた。
『あっ』
惟幸が何かを言うよりも早く、風の刃は形代を切り裂いた。
「あぁっ!」
「惟幸っ!」
葵が叫び、隆善が名を呼ぶが、形代は応える事無く宙を舞い、やがて炎の壁に吸い込まれてあっさりと燃え尽きた。