平安の夢の迷い姫
18
「惟幸様、白湯をお持ちしました」
時を同じくして、所は山中、惟幸の庵。
白湯を運んできたりつに、惟幸は「ありがとう」と微笑んだ。顔に少しだけ、疲労の色が見える。
惟幸の眼前には、京の地図。その上で、親指の爪ほどの大きさの紙片が二枚、ひらひらふわふわと浮かんでいる。一枚は先ほどからあちらこちらと動き回っているが、もう一枚は一箇所に留まったまま動かない。これは、二枚派遣している形代の片方が隆善に付き添い、もう一枚が加夜の邸に留まっている事を示している。二枚の紙片はそれぞれ、形代を作る際に生じた切れ端だ。
りつから受け取った白湯を一口飲み、惟幸は「うーん……」と唸る。
「思った以上に、妖の質が高い上に数が多いな……。仕方ないとはいえ、京まで出向かなかったのは間違いだったかも……」
唸り続ける惟幸の後では、りつが心配そうに眉を寄せている。その視線に気付いて、惟幸は苦笑した。
「大丈夫だよ、りつ。体を壊すような無理も、こんな夜中に京へ出向くような無茶もしないから」
少しだけ安堵した様子のりつに微笑み、惟幸は再び地図上へと視線を戻す。
難しい顔のまま黙って地図を見詰めていたかと思えば、加夜の邸で留まっている紙片の上で印を結び、時には隆善に付き添っている紙片の上で手刀を切りながら何事かを唱える。その都度、紙片の周辺で小さな風が巻き起こり、時にはばちばちと音を立てるごく小さな雷まで発生した。
それらが落ち着くと、惟幸は大きく息を吐き、また難しそうな顔をする。
「やっぱり、二箇所同時は煩わしいな。それに、形代だと体格差があり過ぎて力の加減が難しい……。いっそ、たかよしと葵は見捨てて、加夜姫様の方だけに全力を注ぐか……けど、それだと後でたかよしが煩そうだな……」
難しい顔に、難しい局面。だが、そんな場だというのに、後に控えるりつはくすりと笑った。
「? どうしたの、りつ?」
毒気を抜かれた不思議そうな顔で、惟幸はりつを振り返った。りつは苦笑しながら、「いえ……」と呟く。
「こんな時でも、惟幸様は瓢谷様や葵さんのお力を信じていらっしゃるんですね。見捨てるなんて仰っておきながら、あとで瓢谷様から文句を言われると決めつけていらっしゃるんですから……」
惟幸が力を貸さずとも、隆善と葵は相手を調伏する事ができると言わんばかりの言いようだ。りつがそう言うと惟幸は、事も無げに「そりゃそうだよ」と頷いた。
「調伏の実力だけで言えば、二人ともあの鎌鼬程度なら問題にならないくらいの力を持っているからね。ただ、あの鎌鼬は随分と逃げ隠れが上手いから手古摺っているに過ぎないよ。まぁ……それも時が解決してくれるだろうし」
「時……ですか?」
首を傾げるりつに、惟幸は「うん」と頷いた。
「短気な発言ばかりしている割に、たかよしは意外と粘り強いところがあるからね。今のところ、加夜姫様の絵から現になった妖は人を傷付けるところまでいっていないみたいだし……根気良く相手をしていれば、勝機を見出す事も可能だと思うよ。葵は窮地に陥ったその場その場で工夫を凝らして、その場を何とか乗り切る知恵を持っているし。だから、僕が付いていなくても大丈夫な筈なんだよねぇ……」
しかし、惟幸がさっさと戦線離脱でもしようものなら、後ほど
「てめぇ、面倒になったからってとんずらこきやがったな。絶対にそのうち呪い殺してやる」
ぐらいの文句は言われそうである。そうなったらそうなったで、いつも通りの返答をして更に隆善を憤慨させるまでの話だが。
その様子がありありと浮かび、惟幸は思わず苦笑した。それで気が緩んだのか、くわぁ、と大きな欠伸が一つ出る。「あー……」と気の抜けた声を発した。
「二枚の形代に同時に術を使わせるのは、やっぱり疲れるよねぇ……。おまけに、刻限が刻限だし。……りつ? これが終わったらすぐ寝るから、床の用意だけしておいてくれる?」
「わかりました」
りつは頷き、空になった椀を惟幸から受け取ると、そのまま部屋を出て行った。遠ざかる足音を聞きながら、惟幸は再び地図を睨み付ける。そして腕を組み、またもや「うーん……」と唸った。眉間に皺が寄っている。
「加夜姫様の邸には、もっと戦力が必要。たかよしと葵のところも、鎌鼬の動きに慣れるまでの間、もう少し援護が必要。どちらも、急に消えるわけにはいかないか……」
そう言って、深いため息を吐く。
「何で、元服せずに山中で好き勝手過ごしてる、而立越え童の駄目人間が一番働いてるんだろ……」