平安の夢の迷い姫
6
それから一刻もせぬうちに、隆善が到着した。手には加夜の放った式神もどき。後に童を一人連れて、門をくぐってくる。
童の年の頃は十四か五といったところで、背丈は加夜と同じぐらいある。そろそろ元服してもおかしくなさそうな風貌で、瑠璃色の水干を身に纏った姿は童と言うにはやや違和感があるかもしれない。
(隆善様が童を連れているのなんて、初めて見たわ。ひょっとしてこの子、隆善様の式神だったりして。実態は紙でできた形代なのかもしれないわ……)
考えるや否や、童の周りに多くの形代が現れ、ふわふわと舞い飛び始めた。異様な光景に、童は目を丸くする。
「師匠、これが……?」
どうやら、童は隆善の弟子の一人であるらしい。場馴れしているのだろう。驚いてはいるが、動揺はしていない。加夜の力についても、ある程度は聞き及んでいるようだ。
「加夜……消す物を増やすな……」
「ごめんなさい、つい……」
首をすくめる加夜にため息をついてから、隆善は弟子に顔を向けた。童は四苦八苦しながらも、己の周りを飛び回る形代を消している。全ての形代が消えたのを確認してから、隆善は口を開いた。
「即座に消してやりてぇところだが、あいつらが加夜の蘇を持ってるってーのが問題だ。消したら地面に落ちて砂だらけ……なんて事になったら面白くねぇ。だからまずは、あいつらを捕まえて、蘇を取り上げたところで消す」
「はい」
童は頷いた。
「捕まえるのは、葵、お前に任せる。お前の野駆の術を使えば、あの程度のすばしっこさ、問題にならねぇだろう」
「わかりました」
再び頷いて、童――葵は辺りを見渡した。その目が、逃げ惑う二匹の化け鼠を捉えて険しくなる。ぐっぐっと、関節をほぐすように体を動かし始めた。
「一応言っておくが、勢い余って邸を壊す、なんて事が無ぇようにな。一箇所壊したら、今日の夕餉の羹から具が消える。二箇所壊したら羹自体が消える。三箇所で強飯の量が半分になり、四箇所で飯抜きになると思え」
「……わかりました」
葵の顔に、必死さが増した。
「それと、加夜の部屋への立ち入りは禁止だ。一歩でも踏み込んだら、邸を壊していなくても飯抜きな」
「……心得ました」
必死を通り越して、悲愴な顔になっている。
「あの、隆善様……? そこまで厳しくなさらずとも良いのではないかしら? 私のせいなのだもの。邸が少し壊れたり、部屋に入ってしまうぐらいは……」
「良いんだよ。意識する事で周囲への注意力が増すし、力を制御する訓練にもなる。これも良い修行だ。なぁ、葵?」
「……はい。頑張ります……!」
既に顔からは、悲愴さが消えている。葵は大きく息を吸い、吐くと、何事かを囁くように唱え始めた。そして、唱え終わったかと思うと、即座に化け鼠達目掛けて走り出す。
「速い……!」
下人達が思わず動きを止め、息を呑んだ。葵は化け鼠達との距離を一息に詰めると、地を蹴り、宙を舞い、化け鼠達の前方へと躍り出る。
「隆善様、あの子は一体……」
「葵っつって、馬鹿弟子の一人だ。元々身体能力的に、俺の邸じゃ一番速ぇんだがな。ああやって術を使うと、野を駆ける馬同然の速さになる。俺達はあれを野駆の術と呼んでいるんだが、割と便利だぞ。特に、急ぎの文を届けたい時にはな」
凄まじい術を便利の一言で済ます隆善に、邸の者達はぽかんと口を開けた。
そうこうしているうちに、葵はまず深縹の鼠の首元に手をかける。鼠の動きが止まり、取り落とした蘇の容器を軽やかな動きで地に落ちる前に弓手で掴み取る。
「師匠!」
「でかした。その鼠をそのまま、こっちにぶん投げろ!」
葵は頷き、蘇を持っていない馬手だけで、人と変わらぬ大きさの鼠を振り上げ、隆善の元へと投げ飛ばした。術の効果なのか、腕力も尋常ではなくなっているようだ。
「臨める兵、闘う者。皆陣破れて前に在り」
隆善は、以前夢の中で友である惟幸が唱えたのと同じように九字を切った。強烈な風が吹き荒れ、投げ飛ばされた鼠は宙でそのまま消えてしまう。
ほっと安堵の息を吐いてから葵に再び目を遣れば、彼は既に二匹目の深紅の鼠を捕まえていた。弓手には蘇の容器を二つ重ね持ち、目が隆善の指示を仰いでいる。
「ご苦労。そのまま調伏しちまえ」
頷き、葵は化け鼠に向かって何事かを唱えた。やや距離が離れていて、声は聞こえない。ただ、化け鼠が消える時に、布の塊に倒れ込んだ時のような、ばふり、という音がしたのは聞こえた。
「師匠、終わりました」
蘇の容器を持ち直した葵が、少し疲れた顔をして隆善の元へと駆け寄ってくる。隆善は「おう」と応じながら容器を受け取り、しばらくそれを見詰めていたかと思うと、加夜に手渡した。
「見たとこ、あいつらが持ち歩いた事で変な呪力がかかっちまったりはしてねぇな。食っても、問題は無ぇだろう」
そして、少しだけいじわるそうな笑みを浮かべる。
「……で? 今回はまた何で、あんな化け鼠なんか思い付いたんだ?」
「それが……思い付いたのは、今日じゃないの」
戸惑う加夜の様子に、隆善は顔を顰めた。葵も、訝しげに師匠と加夜の顔色を窺っている。
「たしかに、この蘇を頂いた時に……蘇を狙う化け鼠達と、それを優雅に調伏なさる隆善様、みたいな事を考えたりはしたわ」
「おい、勝手にお前の想像世界に俺を登場させるな」
想像したのだろう。葵が、ぶはっ、と空気を吐いた。笑いを必死に堪えようとして、堪えきれていない様子だ。
隆善がじろりと睨み付け、途端に葵はひくっと息を呑んだ。こほんと咳をし、「あー、あー……」と言葉にならぬ声を発している。
「し、師匠。俺、他にも何か変なのが出てきたりしていないか、邸内を見廻ってきますね。あとはごゆっくり……!」
言うや否や、葵は隆善達から距離を取り、西対屋の方へと駆けだした。術を使っていないからだろう。今の彼は、たしかに速いが、人間の速度の範疇だ。
「逃げやがった、あの馬鹿弟子……」
ため息をついてから、隆善は加夜に向き直った。
「……で、どこまで聞いたんだったか?」
「蘇を頂いた時に、化け鼠が蘇を狙う様子を考えてしまったって事しか、まだ話していないわ。……それでね。考えてしまった時はまずいと思ったのだけど……その時は、出てこなかったの」
「出てこなかった?」
隆善の顔が、険しくなった。
「今までは、そんな事は無かっただろう? 現に有り得ない物を考えたら、ほぼ即座に想像した物が現になっていた筈だぞ。一度の例外も無く、だ」
「そうなの。だから私、ついにこの力を何とかする方法を身に付けたのかと思って喜んでいたんだけど……すっかり忘れた今になって、ああやって出てきちゃって……」
「……どういう事だ……?」
腕を組み、隆善は考え込んだ。
「加夜の力が弱まっているという事か? それなら良いんだが……いや、さっき調伏した感じじゃあ、弱くなっているようには思えなかった。だとすると、想像してから現になるまでに、時の差が生まれるようになっているのか? だとしたら、厄介だな……」
一通りぶつぶつと呟いたから、「あーっ!」と叫んで後頭部を掻き毟る。烏帽子が落ちたりしないか、髷が乱れたりしないか。少しだけ心配しながらも、加夜にはその様子を見守るしかない。
「わかんねぇ……が、警戒はするべきだな」
そう言って、嫌そうに息を吐いた。
「つきっきりで見ていてやりてぇところだが、人間の体力には限界ってもんがある。それに、寝てる時には俺じゃどうしようもねぇ。もう一度惟幸に、夢の中に行くように依頼しておく。今の話をもう一度してやってくれ」
「……はい」
加夜が頷くと、隆善は苛立ちながらかぶりを振った。己を情けなく思い責めているようにも見え、それが加夜には、見ていて辛い。
「師匠!」
葵の声が聞こえ、二人ははっと振り向いた。西対屋から、葵が駆け寄ってくる。
「どうした? 何か見付けたのか?」
「あの、これ……!」
肩で息をしながら、葵は一枚の紙を差し出してきた。書き損じた反古だ。だが、よく見てみると墨の色以外に、赤や青のにじみが見える。
「あ、それ……!」
「師匠、裏側です。その紙を裏返して、見てください」
「裏だと?」
言われるまま、隆善は紙を裏返した。裏にも、何か書かれている。そして、それを見た途端に彼は息を呑んだ。
「加夜、これは……」
書かれていたのは、二匹の鼠の絵。どちらも二足で立ち、狩衣と烏帽子を纏って、手となる前足には容器を持っている。そして、その衣服は赤と青で鮮やかに塗られていた。
「……思い付いたら、色も付けたくなっちゃって……。草花の汁を使って、塗ってみたの……」
「それは良いんだが……」
「加夜姫様、絵がお上手なんですね」
隆善が唸り、葵が絵を覗き込んで感心したように言う。描かれていた鼠は、先ほど二人が調伏した化け鼠そのものだった。
「……加夜。今までに、想像した化け物を絵に描いた事は?」
「……あったかもしれないけど、色まで塗って真剣に描いたのは、それが初めてだわ」
そう言いながらも、記憶の糸を慎重に手繰り寄せてみる。だが、やはり今までに気合を入れて絵を描いた覚えは無い。隆善は「そうか」と言うと、再び考え込んだ。
「今回、あの化け鼠どもが現になるのに時がかかったのは、この絵が関係しているのか? だが、だとしたら何で……」
だが、結局答は出なかったのだろう。「わかんねぇな……」と呟きながら、再び後頭部を掻き毟った。よくよく観察してみれば、髷が乱れたり烏帽子が落ちたりしないよう、器用な掻き方をしている。
頭を掻いたのが刺激になったのかはわからないが、隆善はふと何事かに気付き、葵の方を見た。
「ところで、葵。お前この絵を、どこで見付けたんだ?」
「え? あ、はい。西対屋の中ごろにある部屋です。風で紙が散ってしまったみたいで、その中に……」
そこまで言って、葵ははっと顔を強張らせた。加夜の描いた絵がある場所など、この邸の中に一箇所しか有り得ない。隆善の目が、据わった。
「葵。お前今晩、飯抜きな」
「そんなぁっ!」
悲鳴をあげた葵を尻目に、隆善は「また来る」とだけ言ってすたすたと歩きだしてしまった。加夜はどうしようかと戸惑いつつも、見送るために隆善を追う。
追おうとして、一度足を止め、不破に声をかけた。葵を引き留め、菓子や干した水菓子を持たせてやるように指示を出す。苦笑しながら、不破は頷いた。
あれだけの事をやったのに飯抜きでは、流石に可哀想だ。