平安の夢の迷い姫























「それは……葵は災難だ」

夜になり、眠りについた事で訪れた夢の世界。そこで再びまみえた惟幸に今日の出来事を話すと、惟幸は憐れむように苦笑した。

「惟幸様は、葵殿の事をご存知なのね」

「うん。たかよしの邸に住んでいる人なら、全員知っているよ」

頷き、惟幸は指折り数え始めた。どうやら、隆善と葵を合わせて五人以上の人間が住んでいるらしい。

「家事とか、防備とか。家の事は全部弟子と式神と結界で間に合わせているからね。下人や端女は一人もいなかったはずだよ」

「お弟子様は、全員住込みなのね?」

「そうだよ。……ここだけの話、たかよしの弟子は全員、みなしごだったり、他に理由があったりして、親と一緒に住めない子ばかりなんだ」

いきなりの話に、加夜は目を見開いた。瓢谷邸に住む隆善以外の人間に会った事自体が今日初めてだったのだから当たり前かもしれないが、初耳だ。

「衣食住の面倒を見る代わりに家事を任せて、それと一緒に陰陽の術を修行させている。そうすれば大人になった時、何とか飢えずには済むだろうからね。……僕みたいに」

駆け落ちして京を出て、現在は山で生活しているという。昔取った杵柄で鬼退治や薬作りができなければ、今頃どうなっていた事か。昔を思い出したのかため息を吐く惟幸に、加夜は首を傾げた。

「そう言えば……惟幸様は、何故わざわざ京を出られたの? 薬を作ったり鬼を退治したり、という事なら、京でも需要はあるでしょう? 山から薬草を採ってきて家で作れば良いし、貴族以外も、京には大勢住んでいるのだし……。京の中の方が、山に住むよりも安全なんじゃないかしら?」

「それが、できないんだよねぇ」

肩をすくめて、苦笑いをして見せた。

「駆け落ちしたものだから、知ってる顔に会っちゃったらまずいし。それより何より、僕、結構色々な鬼に命を狙われてる身なんだよねぇ」

「え」

夕餉の献立を教えるようにあっさりと言う惟幸に、加夜は唖然とした。慣れた反応なのか、惟幸はくすくすと笑っている。

「昔、結構やんちゃな事をしてた時期があってさ。京の中をうろついては、鬼という鬼を片っ端から調伏してたんだよね。お陰で、鬼達から狙われるようになっちゃって」

若気の至りで笑って済む話じゃないよね、と、惟幸は笑いながら言った。だが、加夜は腑に落ちないのか考え込んでいる。

「それでも……やっぱり、京にいた方が良いんじゃないかしら? 京にいれば、隆善様をはじめ、陰陽師も高僧も大勢いらっしゃるし。何かあった時に助けてもらいやすいんじゃ……」

「味方の数だけで言えばそうなんだけど、京の内と外じゃ、内の方が鬼の数が多いし。強くて性質が悪い鬼が多いのも、内なんだよね」

加夜が目を瞠ったのを見て、惟幸は「ほら」と呟いた。

「京って、人が大勢住んでいるでしょ?」

「えぇ」

「人が大勢住んでいると、その分色々な感情が生まれてくるよね?」

「感情?」

頷き、惟幸は米神に手を当てて考え始めた。言葉を選んでいる様子だ。

「例えば、好意を寄せる姫君に振り向いてもらいたい、とか。つれない態度をとる貴公子が恨めしいとか、出世したいとか。そういう、人が大勢いて、集まっている状態だからこそ生まれる感情ってあるじゃない?」

「それは……欲とか、悋気とか……?」

「そう」

惟幸は尚も、言葉を選んでいる。

「欲とか悋気のような陰の気を含む感情というのは、鬼を生み出しやすいんだよね。己の欲する物を手に入れるため、己が恨む者を消し去るために、力が欲しい。己の望みを叶えるための、強い力が。その歪んだ想いはやがて集まり、凝り固まり、邪悪な鬼をこの世に生み出す。時には、人を生きたまま鬼へと変えてしまう」

一度言葉を切り、惟幸は大きく息を吐き、そして吸った。

「だから、京には鬼が多いんだ」

「それが……惟幸様が京の外に居を構えている理由?」

惟幸は、黙ったまま頷いた。やがて、情けなさそうに苦笑う。

「僕一人だけならまだしも、妻がいるからね。折角僕についてきてくれた妻を、極力危ない目に遭わせたくないんだ。それに、毎晩毎晩襲ってこられると、寝不足になるしね」

欠伸をする真似をして、笑って見せた。応じるように笑って、加夜は不思議そうに首を傾げる。

「それにしても……何故、こんなに色々と教えて下さったの?」

「え?」

「隆善様のお弟子様達の事情とか、惟幸様が京に住んでいらっしゃらない理由とか。私だったら、教えるのを躊躇ってしまうような事ばかりだわ。それを、何故そんなにあっさりと教えてくださるの?」

「だって、加夜姫様。教えなかったら勝手に理由を想像して、また何かを生み出すでしょう?」

図星のため、加夜はふいっと目を逸らす。笑いながら、惟幸は手をひらひらと上下させた。

「心配しなくても、葵達の事情を話す事は、ちゃんと事前に言ってあるよ。みんな、加夜姫様を幸せにするためなら構わないって言ってくれたから、大丈夫」

そう言ってから、表情を引き締める。まっすぐに、加夜の目を見た。

「それで……これからが本題だ。想像した化け鼠達が、数日の間、現にならなかった。そしてその化け鼠達は、現になる前に加夜姫様が絵に起こしていた。……そうだね?」

「そうなの」

(ここにその絵があれば、惟幸様にお見せする事もできるのだけど……)

考えた途端に、昼間葵に発見されたあの絵が姿を現した。隆善に式神もどきを飛ばす事ができた時と、同じだ。

「なるほど。……上手いね」

「葵殿も、そう言ってくれたわ」

頷き、惟幸は再び手元の絵に目を落とした。深縹と深紅の狩衣と烏帽子を纏った、茶色い毛並の化け鼠。二足歩行で歩く姿は、人間そのもの。じっと見詰めていると、愛嬌があるようにすら見えてくる。

「……そもそも、何で蘇を貰ったら、こんな化け鼠を思い付いたの……?」

「蘇を頂いて、隆善様をお見送りした直後に、雑舎に鼠が出たって騒ぎになったの。鼠の姿を見たって言う小舎人童に聞いたら、鼠がじっと蘇の容器を見詰めているように見えたって……」

「それで、蘇を手に入れたくて仕方が無いあまりに、人と同じ大きさで二足歩行をする化け鼠になってしまい……という物語を思い付いた?」

「そうなの。それで、蘇を狙う化け鼠に襲われそうになったところに隆善様が颯爽と現れて、退治してくれたら素敵だと……ついつい考えてしまって」

項垂れて呟いているうちに、加夜の手元にもう一枚紙が出現した。これにも、絵が描かれている。

「それで、想像しているうちに実際にその様子を見てみたくなってしまって。けど、化け鼠が襲い掛かってきたりとか、その場に隆善様が居合わせたりとか……そんなに都合の良い話は無いって、流石に私でもわかっていたのよ。それで……」

絵に描けば良いんだと思い付いた。そう言って、加夜は新しく現れた絵を惟幸に差し出した。

描かれているのは、浅蘇芳の直衣を身に纏った貴公子。目元涼しく、立ち姿は優雅にして秀麗。手に呪符を持ち堂々とした姿は、絵だというのに威圧感を与えてくる。

先の化け鼠の絵と対になっているようで、二枚を並べると貴公子が化け鼠を調伏しているように見える。

「……これ、たかよし?」

二枚目に描かれた貴公子を指差して、惟幸は首を傾げた。加夜が頷くと、「くっ」と息を漏らして、そのまま下を向く。体が小刻みに震えていて、どうやら笑いを堪えている様子。想像の全容を聞いた時の葵と全く同じ反応だ。

「これ……この格好良いのがたかよし? なるほどね……普段、加夜姫様の前ではこうなんだ」

くくく……と笑いを噛み殺しながら、苦しそうにしている。ひとしきり腹を抱えて体を震わせてから、惟幸は、はーっ、と大きく息を吐いた。どうやら、落ち着いたようだ。

「ああ、苦しかった……」

目にはまだ、涙が溜まっている。それを馬手の人差し指で拭い取り、惟幸は真顔に戻った。

「推測なんだけど。恐らく化け鼠達が現になるのに数日の間が空いたのは、現になる前に絵に起こされたからだろうね」

「絵に?」

思わず、手元の二枚を覗き込む。特に変わった様子は無い。

「さっき、説明したよね? 鬼というものは、人間の陰の気を含む感情が集まり、凝り固まって生まれ出るもの。多分、加夜姫様の力も、似たようなものなんだ」

「私の力が……鬼……!?」

「……に、似たようなもの、ね」

言い含めるように、惟幸は言った。

「加夜姫様は恐らく、こうあらんと願う力が人よりも強いんだろうね。これで加夜姫様のご気性が陰気で嫉妬深く恨みがましいものであれば、即座に鬼になってしまうんだろうけど……幸い、明るくて楽しい事を考えるのが大好きなご気性だからね。鬼を生み出してしまう代わりに、想像した様々な物が現のものとなるんじゃないかと思うんだ」

加夜は、目をぱちぱちと瞬いている。惟幸が、優しく微笑んだ。

「いつもは、加夜姫様は瞬時に細部に至るまではっきりと想像してしまい、それが即座に現のものとなる。けど、今回は違う。この化け鼠達は、こうしてはっきりと、加夜姫様の目に見える形となる事で、初めて加夜姫様の中でも完成した姿となった」

たしたしと、絵の描かれた紙を平手で軽く叩く。叩かれた振動で、鼠達が少々及び腰になったように見えた。

「想像主である加夜姫様でさえ、はっきりとした姿を掴むのには手間と時間がかかったんだ。だから、想像の力が凝り固まり、現のものとなるのにも時がかかった。……僕は、こう考えているんだ」

「じゃあ……これから先、何か思い付いたとしても、絵には描かない方が良いのかしら? 描かなければ、私がはっきりとした姿を掴めず、現にならないかもしれないんでしょう? それに……忘れた頃に出てきたのでは、皆が混乱してしまうだろうし……」

「今の状況でも、充分混乱するに値すると思うけどなぁ。……加夜姫様の家人達、相当肝が据わっているね」

「慣れちゃったのよ」

申し訳なさそうに、加夜は肩をすくめた。その様子に、惟幸は苦笑する。

「それはさておき。加夜姫様は今後絵を描かない方が良いかどうかと言うと……僕は逆だと思うな」

「逆?」

頷き、惟幸はまたも化け鼠達の絵に目を遣った。化け鼠達は生き生きと動いており、実によく描かれている。

「恐らく、描かなければ描かないで……加夜姫様の内で膨れ上がった想像の産物がいずれは現になってしまうと思うよ。それも、今一つはっきりとした姿を持たない、混沌とした姿でね。それなら、はっきりとした形がわかって対処法を考えやすい、絵に起こしたものの方がずっと良いよ。それに、絵に描いた物をたかよしに見せれば、そのうちこういうものが出るんだ、って伝わって、たかよしがその場にいなくても何とかする方法を考えてくれるかもしれないよ?」

「……」

加夜が黙り込んだのを見て、惟幸はくすりと笑った。

「たかよしがいなくても何とかなる方法よりも、たかよしが飛んできて何とかしてくれる方が良い?」

「そ、そんな事は……」

言い掛けて、加夜は少しだけ考えた。

「……あるかもしれないわ……」

肩をすくめる加夜に、惟幸は隠さずに笑う。少しだけ意地悪く見えて、彼が隆善と古い友人なのだという事を実感させられた。

「加夜姫様の場合、内に溜まっていく物に陰の気は無いんだ。だから、とりあえず現にしてしまう事は、小出しする分にはさほど問題ではないよ。それよりも出さないようにしてため込んでいくうちに想像が膨らんで、それが現になってしまう方がよっぽどまずい」

加夜が頷き、惟幸も頷く。

「思い付いたものは我慢しないこと。むしろ、些細な想像であっても絵に起こす事。絵に起こす時は、現になるまでの時が長くなるよう、できるだけ細かく複雑なものを想像し、詳細に描くこと。そして、絵を描き終えたら間を置かず、たかよしに相談する事。……良いね?」

「……わかったわ」

少しだけ不服そうで、それでいて不安気な声を発する。そんな加夜をじっと見詰めていたかと思うと、惟幸はおもむろに、馬手を加夜の前に差し出した。

「……え?」

甲を上に向けて差し出された手に、加夜はどう反応すべきかと迷う。惟幸は、にこりと笑った。

「見てて」

そう言って手を返すと、そこにはどこに持っていたのか、貝合わせの蛤が一組、載っている。

「まぁ!」

加夜が目を丸くしている間に、今度は弓手が差し出された。ひいな人形がちょこんと座っている。

「惟幸様……こんな物、一体どこに隠し持っていらっしゃったの?」

「加夜姫様と同じ事をしただけだよ」

言いながら、蛤とひいな人形を足元に置く。

「ここは夢の世界だからね。夢の世界だと理解していれば……少し練習してこつを掴めば、加夜姫様でなくても、思い描いた物を現にする事ができるんだ。実際僕も、前に加夜姫様と会ってから数日練習しただけで、ここまでできるようになったしね」

勿論、本当の現の世界に出す事はできないが。そう言い置いて、再び両の手を差し出し、返す。唐菓子と、白酒が現れた。

菓子と酒を加夜に勧めると、自らも索餅を齧って飲み込む。夢の中だというのに味がわかるのか、満足そうに頷いた。

「この通り。思い描いた物を現にしてしまうのは、夢の世界だけで言えば加夜姫様だけじゃないよ。誰だって覚えていないだけで、一度は経験した事があると思う。けど、夢の世界で問題が起こって目覚めなくなってしまった人の話なんて聞いた事がないでしょ? 夢の中で、襲われて傷付けられて心が死んでしまったりしていない証拠だよ。だから、大丈夫。加夜姫様の心が穏やかである限り、加夜姫様の力が生み出したもの達は加夜姫様も、他の誰も、傷付けたりはしないよ」

そう言うや否や、惟幸の体がびくりと震えた。

「……惟幸様?」

不安そうな顔をする加夜に、惟幸は「ごめん」と申し訳なさそうな顔をする。

「妻が、僕を起こしているみたいだ。こんな刻限に起こすって事は、鬼が近くに出たのかもしれないな」

迷惑そうな顔で、ため息をついた。

「そういう訳だから、僕はこれからすぐに起きるよ。今日話した事は、僕の方からもたかよしに文を送っておくけど……できれば、加夜姫様からも自分の口で言うようにね」

加夜が頷くと、惟幸は「よし」と呟いて一歩下がった。前の時と同じように、姿が次第に消えていく。

惟幸の姿が完全に消え去ってから、加夜は、ほう、と切なげにため息をついた。隆善を描いた二枚目の絵に目を落とし、寂しそうな顔をする。

「夢の世界なら誰でも思い描いた物を現にできるのだとしたら……何で私は、夢の中で隆善様とお会いできないのかしら……?」

その問いに答える者は、誰もいない。加夜はもう一度、ため息を吐いた。











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