平安の夢の迷い姫
5
「蘇が消えたんでございますよ、姫様?」
夏の暑さが少しだけ和らいだある日、加夜の部屋へ来るなり、不破が言った。
「蘇と言うと、あれ? 先日隆善様から頂いた……」
古今和歌集から顔を上げ、加夜は怪訝な顔をした。
蘇とは、牛の乳を加熱する事によって形成される膜を集めた物の事を言う。淡白な味だが、甘い水菓子と共に食すと美味い。乳の濃厚な香りがするのは、人によって好き好きだろう。
尚、これを更に熟成、加工すると、醍醐という食品になる。こちらは甘みがあって、牛の乳を使って作った食品の中では最も美味い。
この蘇を、つい先日、依頼主からのもらい物だと言って、隆善が持参した。かなりの量があったらしく、住込みで食べ盛りの弟子達が食べ過ぎて腹を下したらしい。
「姫様。まさか、つまみ食いなどとはしたない真似はなさっていませんでしょうね?」
「したくてもできないわよ。私、雑舎のどこに何があるか、全く知らないんだもの」
疑われた事に、加夜は少しだけ頬を膨らませて見せた。
「そうでございますよねぇ。けど、童達の手が届くような場所にはしまっていませんでしたし、端女達に聞いても皆、蘇の香りが苦手であったり、牛の乳は腹に合わぬという者ばかりでして……」
「それで、誰が食べたのかわからないって事なのね?」
「えぇ。姫様が最後の容疑者だったのでございますが……」
「だから、私は違うわよ」
頬を再び膨らませ、それから頬の空気を抜きつつ、はぁ、とため息をついた。
「姫様?」
「隆善様から頂いた蘇……少しずつ食べるのを楽しみにしていたのに……」
一口食べれば、その時は近くに彼の気配がある気がした。蘇を食べ、隆善の気配を感じている時には、余計な事を考えずに済み、化け物騒ぎを起こさずに済んだ。だから、一度には食べず、小さく切って少しずつ出すよう、不破に頼んでおいたのだ。
はぁ、ともう一度、ため息を吐いた。その様を、不破が痛ましげに見詰めている。
「姫様……元気をお出しくださいませ。今、皆で消えた蘇の行方を探しております。きっともうまもなく、元の場所に戻って参りますわ!」
「不破……」
力を籠めて言う不破に、加夜はくすりと笑った。こうして力強く言われると、本当にすぐにでも見付かりそうな気がしてくる。
……と、その時だ。庭の方がなにやら、わぁわぁと騒がしくなった。
「待てーっ!」
「そっちへ逃げたぞ! 追えっ!」
見れば、牛飼い童と小舎人童、それに何人かの下人達が走り回っている。
「何事ですか、騒々しい!」
簀子縁まで出た不破が声を張り上げると、童や下人達は一瞬だけ足を止めた。……が、全員で目配せをすると、一人の下人を残してまた走り出す。
「不破様! ほれ、あそこ! 鼠の化け物達が、姫様の蘇を!」
指差して、彼もまた走り出す。つられたように不破と、遅れて簀子縁まで出てきた加夜は下人達が走る先を見た。
「……あら!」
「まぁ……何と言う……」
加夜は口元に手を当てて目を見開き、不破は呆れ果てた顔で言葉を失った。
人と変わらぬ大きさの、二足歩行の鼠が二匹。一方は深縹の狩衣と烏帽子を身に纏い、もう一方は深紅の狩衣と烏帽子を身に付けている。滑稽な格好をした茶色い毛並の鼠達は前足に蘇の入った容器を持ち、下人達から逃げ惑っている。
これらを物怖じする事無く追いかけ回しているあたり、邸の者達は既に加夜の力が引き起こす珍事に慣れきっていると言える。
「……姫様?」
何とか言葉を取り戻した不破が、半目で加夜の方を見る。すい、と視線を逸らし、加夜は考える素振りをした。
「あの鼠……とっても速いわ。このまま追い続けても、誰も追い付けないんじゃないかしら……」
「たしかに、そうでございますね。ならば、姫様……」
加夜は、こくりと頷いた。
「えぇ。隆善様をお呼びする他、無いと思うわ。けど、今から文を書いていたら、お越しいただけるまでにどれほどかかるのかしら……?」
「瓢谷様も、文を見て即座に邸を出るとは参らないでしょうし……一刻は覚悟せねばならないかと。それに、もしも瓢谷様がご在宅でなければ……」
不破の言葉に顔を曇らせ、加夜は困ったように首を傾げた。
「そうね……。隆善様のように式神を使う事ができれば良いのだけど。そうすれば空を飛べるから文使いを行かせるよりも早いし、隆善様がどこにいらしてもすぐに文を見て頂けるわ」
そう言った途端に、白い紙で折った鳥が目の前に現れた。見覚えがある。先日、隆善の元へ飛んできた、隆善の弟子が飛ばした式神だ。
「まぁ!」
両手を合わせて、加夜は顔を輝かせた。目を丸くする不破の前で、加夜は式神に顔を近付ける。
「今、お邸が大変な事になっている事……隆善様に伝えて頂けるかしら?」
囁くように言うと、式神は「委細承知」と言うように揺れ、ふわりと宙へ舞い上がった。ふわふわとした動きで、瓢谷邸の方角へと飛んでいく。
「この力も、時々は役に立つのね」
にこにことしながら言う加夜に、不破は深いため息をついた。
「そもそも。姫様のそのお力が無ければ、このような騒ぎにはなっていないのではございませんか……?」
疲れたようなその言葉に、加夜は間が悪そうに苦笑した。