光と陰と蜃気楼―Tales of Mirage―
02
空が暗い。海沿いの町シャンカイは、今日も闇に包まれている。
ランプの光がチリチリと肌を焼いているような感覚を覚えながら、ウィスは本のページを捲った。
何十回、何百回と読み、手擦れで表紙がほとんど読めなくなってしまったほど気に入っている本だ。
そこに記されているのは神話の世界。彼らのようで彼らとは違う人々が暮らす世界の物語だ。
その異界に想いを馳せて呆けているうちに入ってきたのか……いつの間にか、彼の傍らに人の気配があった。
気配に気付いたウィスは、ゆったりとした動作で顔を上げる。そこには、彼が気配から察した通りの人物が立っていた。
「あれ。もう時間なの、リアン?」
ウィスが問うと、名を呼ばれた少年――リアンはこくりと頷き、彼らの待機場所であるこの小屋の外を指差した。
窓から外を見れば、すぐ眼前に広がる海が明るく輝いている。ランプの光よりも暖かそうだな、とぼんやり考えるウィスに、リアンは急かすように言った。
「予言にあった、ミラージュが現れる時間まで間が無い。ただならぬ気配を察したのか、モンスター達が集まり始めている。このままだと、旅に出る前にモンスターに食い殺される事になるぞ、ウィス」
「要約すると、もたもたしないでとっとと準備しろ、って事だね。それにしても、一部の人間以外には全てを隠したまま先遣隊を派遣しようなんて……いつにも増して気合いが入っているね、神殿は」
「無理もない。伝説に過ぎないと言われていたミラージュが実在する上に、この世界に現れると言うんだ。おまけに、予言が本当であれば、ミラージュの出現はこの世界にとって恐るべき事象だ。上手く利用できれば、またとない神殿の復権のチャンスとなるからな」
苦虫を噛み潰したような顔で言うリアンを宥めるように、ウィスは言った。
「まあ、仕方無いよね。予言の内容が内容だし」
言いながら、ウィスは荷物をまとめて立ち上がった。
リアンと二人して外に出てみれば、海の光は更にその輝きを増している。
やがて光の中に、小さな町が姿を現した。
恐らく、この町の住人だろう。小さな人影がいくつか見える。
それに向かって、興奮したモンスター達が駆け出し始める。ウルフ系のそれらは何の苦も無く光の中へ落ちていくと、赤い牙を剥き出しにして住人と思われる人々に襲い掛かる。
その様子に興奮を煽られた他のウルフ達が、血を求めてウィス達の方へと鼻先を向けた。
「気付かれていたか……」
リアンが舌打ちをしながら、腰の剣を抜いた。それに倣って、ウィスも剣を抜く。
リアンは剣を閃かせ、白い神官の衣を翻しながらモンスターの群れに突っ込むと、器用にも剣を振るいながら詠唱を始めた。
「天にまします我らが神に、かしこみ願い奉る! 庇護無き雨をこの地に降らし、悪の力を削ぎ給え!」
ウィスはリアンの背後に回り、リアンの死角から彼に襲いかかろうとするモンスターを片端から切り捨てていく。
やがて、詠唱が済んだのだろう。リアンはウィスに向かって叫んだ。
「ウィス! 巻き添えを食らいたくなければ一歩退け!」
その言葉に弾かれたように、ウィスはバックステップで一歩だけ後ろへ飛んだ。勿論、剣の構えは崩さないままだ。
それをチラと視認したリアンは同じように後ろへ飛び下がると、モンスター達の群れに向かって揃えた右手の人差し指と中指を振り下ろし、鋭く言い放った。
「ブラッディ・レイン!」
血のように赤い雨が降り注ぎ、モンスター達の動きが鈍っていく。どうやら、相手の力を奪い弱らせる魔法であったようだ。
モンスター達が弱ったのを見てとったウィスは間髪いれずに前へと踏み出し、剣を振るった。ブラッディ・レインによって防御する力を奪われたモンスター達は呆気ないほどあっさりと倒れ伏していく。
ウィスは、無我夢中で剣を振るった。リアンも再び剣を構え、モンスター達に突進していく。
間もなくモンスター達は全て動かなくなり、ウィス達は安堵のため息をついて剣を納めた。
「こんなところだろう」
リアンの言葉に、ウィスは頷く。そして、少しだけ苦笑しながら言った。
「それにしても、相変わらず凶悪だよね。リアンのブラッディ・レイン。普通神官が、赤い雨なんか降らすかなぁ?」
「凶悪で結構。元々、なりたくて神官になったわけじゃない」
「……そうだよね」
青筋を立てながら言うリアンに哀しそうに頷き、ウィスは辺りを確認した。自分達は無傷だし、元々人は彼ら以外にはいなかった為、負傷者は無し。
旅を始める前からリアンに回復系の魔法を使ってもらう必要は無さそうだ。
突如、辺りを見渡すウィスの肩を、リアンが叩いた。振り向けば、リアンは視線だけで「アレを見ろ」と言っている。
促されて、ウィスは海の方を見た。
先ほどから少しずつ大きくなっていた光は今や町の全景を望めるほどとなり、中の住人達がはっきりと見えるようになっていた。
どうやら、先走って駆けていったモンスター達は、向うの住人によって倒されたようだ。
「フン……やはり、向こうもモンスターと戦うすべは身に付けているようだな」
「そうだね。けど、本当にこの町が神話にある通りのミラージュなのかどうかは、向うへ行ってもう少し様子を見ないと。もし相違点が多いようなら、僕達にとって最悪の任務を避ける事ができるわけだし」
「まぁな。だが……少なくとも完全に平和ボケしたおめでたい世界ではないらしい」
少しだけ嬉しそうに顔を歪め、リアンが呟いた。リアンの視線の先には、町の住人達。その中の一人が、じっとこちらを見据えてきているようだ。その気配に、ウィスは意識を奪われた。
向うの世界をジッと凝視しているウィスの肩を、リアンが再び叩いた。
「行くぞ」
その言葉に、ウィスは頷いてリアンと共に足を踏み出した。
彼らが向かうのは、ウィスが今まで本でしか知らなかった世界だ。
その世界は、紛れもなく今まで彼らが暮らしてきた世界とは違うであろう異界。
異界、ミラージュ。
それが、彼らが滅ぼそうとしている世界の通称だった。