光と陰と蜃気楼―Tales of Mirage―





01





空が青い。海辺の町、トーハイは今日も快晴だ。家の窓からすぐに見える海のすぐ上を、カモメがクークーと鳴きながら飛んでいる。

シンは吹き込んでくる潮風を浴びながら、本を読んでいる。彼女が子どもの頃から何十回、何百回と読んでいて、すでに手ずれや日焼けで表紙が真っ白になってしまっているお気に入りの本だ。

本に記されているのは、神話の世界。彼女の世界の周りにあると信じられていた、彼女達に似ていて彼女達とは違う人達が住んでいるという世界。

その異界に想いを馳せて呆けているうちに入ってきたのか……いつの間にか、彼女の傍らに人の気配があった。

「……呆れた。今日は仕事は休みだって言ってなかったかしら? それなのに神話の本を読み耽るなんて……毎日毎日フィールドワークで史跡を調べるだけじゃ物足りないのかしらね、学者先生は?」

「……いつの間に入ってきたの、リノ?」

シンは本から目を離し、声の主に声をかけた。すると、彼女――リノは益々呆れた顔をしてシンに言う。

「いつの間に、じゃないわよ。本当にシンってば、神話の事となると人が来た事にも気付かずに没頭しちゃうんだから。そんなんで、野外の仕事は大丈夫なの? モンスターとかが襲ってくる事もあるんでしょ?」

「それは大丈夫。流石に一人で行ったりはしないし、没頭してても殺気くらいは気付けるから」

「なら良いんだけど……はい、これ」

言いながら、リノはシンにバスケットを手渡してきた。覆いとして被さっているナフキンをどければ、そこには野菜とチーズのサンドイッチ、それにウサギ型にカッティングされて小さな陶器に収まっているリンゴが入っているのが見えた。

「どうせ朝から本の虫になってて、何も食べてないんでしょ? いくら好きな事でも、食事もしないで没頭してたら倒れるわよ」

「ありがとう」

礼を言いながら、シンはバスケットを受け取った。サンドイッチを齧るとマスタードの刺激がして、次いで野菜の歯触りとチーズの旨みが口の中に広がっていく。

「うん、美味しい。町の男共がこぞってリノを嫁にもらいたがるのもわかる気がする」

「無理無理。だってあの人達、理想のお嫁さんを貰いたいだけで、私自身が好きなわけじゃないでしょ? 私があちらを好きなわけでもないのに、そんな人の処へ嫁に行くなんてできないわ」

「それは言えてる。けど、リノも案外形とか理想から入るタイプだよね? その格好を見ても……」

言いながら、シンはリノの全身を改めて見た。多少青味がかかってはいるものの、上から下まで白尽くめな衣服。僧侶でもないのに白で統一された服装だと、逆に奇抜に見えると思う。更にその上には、真っ白なエプロン。白い服の上に白いエプロンって意味があるのだろうか。

「けど、この方が患者さんの受けも良いのよ。治療院で真っ白な服を着た人に診てもらうと、医者と僧侶の両方に診てもらっている気がして、どんな病気でも治りそうな気がする、って」

成程、患者の自己治癒能力の上昇効果を狙っているわけか、と、シンは一応の納得をした。それにしても、その為にある意味奇抜な格好をして、更にいつも笑顔で治療に当たらなきゃいけないなんて……考えただけでも大変なことこの上ない。

「大変だね、治療院ってのも」

サンドイッチ最後の一欠片を飲み下しながら言うと、リノはシンの前に人差し指を突き付けて言った。

「そう思うなら、この不健康な生活を改めて頂戴。フィールドワークで食事と睡眠は不規則、休みの日には朝から本の虫で食事すらまともに取ろうとしない。こんな生活をしていたら、いつか倒れるわよ。これ以上治療院の仕事を増やさないで欲しいんだけど」

「けど、いつもそうなる前にこうやってリノが来て、生活指導をしてくれるじゃない」

「幼馴染の誼よ。感謝なさい」

「はい。感謝します」

そう言って、シンとリノは笑い合った。

その時だ。海辺の方から、衣を裂くような悲鳴が聞こえてきた。

「! 何!?」

慌ててリノが窓辺に駆け寄った。シンも立ち上がり、ワンテンポ遅れて窓へ寄る。見れば、海辺で人々が右往左往する中に大きくて毛むくじゃらな何かが走りまわっている。

「モンスターだわ! モンスターが、人を襲ってる!」

リノが叫んだ。……そう。恐らくは、ウルフ系の一種であろうモンスターが、人々を追いまわしていた。

「けど、何でこんな町中にモンスターが……!?」

リノが不安と疑問を綯い交ぜにしたような声で呟く傍で、シンは窓辺に立てかけてあった剣を掴むと戸口目指して駆け出した。

「シン!?」

「ちょっと手伝ってくる。リノは治療院の先生たちに、患者の受け入れ態勢を作るように言っておいて!」

そう言い残して、家を出る。家から一段低い場所にある区画、更にそれより一段低い海辺へ出る為の階段を一気に駆け下りる。

風を切って走るうちに、海辺で戦うモンスターの群れと町の人達が見え始めた。そこでシンは、走りながら魔法の詠唱を始める。時間のかかる詠唱は、可能なら敵に見付かる前に始めた方が良いからだ。

「英傑の祈りが呼びし風……乱れ吹き交い敵を押せ!」

詠唱の殆どが終わった頃、何匹かのモンスターがシンに気付いて襲い掛かってきた。シンは一旦足を止め、ショートソードを鞘から抜き放ちながら詠唱を完成させた。

「ブラストウェーブ!」

瞬時に、辺りに強烈な風が吹き渡った。風はシンに向かってくるモンスターを元来た場所へと押しやり、逆に彼女には追い風となって更なるスピードを与えてくれる。シンは風の勢いを乗せた剣を薙いだ。すると、剣を急所に受けたモンスターはその場に倒れ伏し、致命傷を避けたモンスターは一旦飛び退いて彼女の出方を窺い始めた。

その隙にシンは、更に別の詠唱を始める。すると、今までモンスター達と戦っていた町の人達がシンの存在に気付いたようだ。武器を振り回してモンスターを追いやり、彼女の目の前で一か所に固まるようにし向け始めた。これなら、一回の魔法で一度に倒す事ができるかもしれない。

「古の大地に眠りし聖なる炎……障壁となりて敵を討て!」

そこでシンは町の人達に目配せをした。瞬時に何が起こるか理解した人々は、あっという間にその場を放棄し、跳び退る。彼らを巻き込む恐れが無くなったところで、シンは詠唱を完成させた。

「フレイムウォール!」

大地から激しい炎が噴き出し、モンスター達を包みこむ。その様はまるで、モンスター達の攻撃や退却を阻む炎の壁が出現したかのようだ。

「シン!」

治療院の方角から、リノが走ってきた。その後には治療院の医師達の姿も見える。あのヒラヒラの衣装でよく走れるな、と思いながらシンは辺りを見渡した。どうやら、狙い通りモンスターは全て今の魔法で倒れてくれたらしい。危険は無いと判断してから、シンはリノに声をかけた。

「大丈夫。終わったよ」

言うや否や、リノは医師達と共に海辺まで降りてきた。そして、怪我人を一か所に集めると、各々怪我人とマンツーマンで詠唱を始める。

「癒しの雨よ、降り注げ……ヒールレイン」

呟くように唱えると同時に、空からサァァ……という優しい音を立てながら雨が降ってきた。雨は怪我人の頭上に降り注ぎ、傷は見る間に治っていく。彼がリノに対して僅かに頬を染めたように見えたが、シンはとりあえず見なかった事にしておいた。

シンは人々から離れると、倒れ伏したモンスター達を調べ始めた。生物学者ではない為はっきりとした事は言えないが、やはりこの近辺では見た事の無いモンスターだな、とシンは思う。

だが、毛皮や牙の色を除けば、姿形は近くの森に住んでいるウルフ系のモンスターに似ているような気もする。

首を傾げながら、シンは海を見た。

このモンスター達は、何の前触れも無く突然この海岸に現れた。町の人達が手にしていた武器の殆どが辺りに落ちていた物であると思われる事、町の中が大騒ぎになっていなかった事から考えれば、モンスター達が入口から町の中を突っ切り海岸までやってきたわけではないという事は容易に想像がつく。

そして、この海岸は町と、切り立った崖に三方を囲まれている。いくらモンスターと言えども五十メートルはあると思われる崖から飛び降りて何ともないとは思えない。よって、この海岸に入る為にはどうしてもトーハイの町を突っ切る必要がある。

それらを併せて考えると、このモンスター達は海からやってきたのではないか、と思えて仕方が無かったからだ。

だが、海の方に頭を巡らせた時、シンの頭からその疑問は一時的に追いやられてしまう事となる。

シンは彼女にしては珍しく、少しだけ目を見開いた。他の者なら、素っ頓狂な叫び声をあげたかもしれない。……と言うか、シンに遅れて気付いた者が数名、素っ頓狂な叫び声をあげている。

「なっ……何だありゃあ!?」

「いつの間に、こんなに暗くなっちまったんだ!?」

そう。いつの間にか、辺りがとても暗くなっている。

それもその筈。海の上に、空を埋め尽くすほど広くて黒い空間が出来上がっていたからだ。

空間はどんどん広がっていき、それに比例して辺りもどんどん暗くなっていく。リノや医師達もそれに気付いたのだろう。

皆一様にざわめき、黒い空間を指差したり憶測を飛び交わしたりし始めている

そのうちに黒い空間は徐々に形を作り始め、いつしかそれは町のように見え始めた。街のような物は次第に姿がはっきりとしていき、遂には完全に海の上に一つの街ができてしまった。

「な……何よ、アレ……」

呆然として、リノが呟いた。その横で、シンも呆然としながら街を見る。ただし、シンの場合はリノとは少し違った点で呆然としていたのだが。

「……ミラージュだ……」

ぽつりと、シンは呟いた。

それとほぼ同時刻。シンの家では、強くなり始めた海風によって出しっ放しの本のページがパラパラと捲られていた。風が一時的に止むと、それと同時にページが捲られるのもストップされる。

そして、偶然かはたまた必然か……。開かれたページには、シンが口にした言葉ミラージュに関しての簡単な説明文が記載されていた。

ミラージュ……それは、神話の中で異界を表す言葉であると、本には太く大きな文字で記されていた。








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