アフレコ倶楽部大宇宙ボイスドラマノベライズ
平安陰陽彷徨記



























「坊ちゃん。坊ちゃま。惟幸様!」

京の小路。陽が落ち、薄暗くなりかけたその場所で、盛朝は己の若き主人の名を呼んだ。主人の名は、賀茂惟幸。歳は十五になるが、まだ元服はしておらず、烏帽子は被っていない。

やや幼く見える主人の姿に小さくため息を吐き、盛朝は惟幸を軽く睨み付けた。

「これまでに、何回同じ事を訊いたかわからねぇけどな」

「う、うん……」

盛朝の前で小さくなっていた惟幸が、やっと声を発した。だが、その声も非常にか細く、今にも消え入りそうだ。

「一体、いつになったらお邸に戻るつもりなんだ?」

「……いつって、言われても……」

要領を得ない惟幸の言葉に盛朝は、はー……と盛大なため息をついた。

「お邸を出てから、かれこれ三年。元服して、朝廷に参内してもおかしくねぇ齢だってのに。……先日ばったり会った、ご友人のたかよし様。見たか? 烏帽子被って、参内して。もうすっかり立派な大人に成長なさっていただろうが。本来なら、惟幸。お前もああいう風になってなきゃおかしいんだぞ?」

「し、仕方無いじゃないか。帰りたくても、帰れないんだから……」

またも、語尾が消え入りそうな程小さくなった。その様子に少々苛立ちを覚えた盛朝は「どうだか」と意地悪そうに言ってみる。

「俺にはお前が、お邸に帰りたがっているようには見えねぇけどね。……あの方位神や百鬼夜行も、実はお前が配備してるんじゃないのか?」

すると、今まで所在なさげにしていた惟幸が、キッと眦を上げた。抗議すべきところでは、ちゃんと抗議できるらしい。

「そんなわけないじゃないか! いくら盛朝でも、怒るよ!」

「悪い悪い。……けどな、俺はお前が心配なんだよ。陰陽師の名門、賀茂家の子息と言っても、お前は跡継ぎってわけじゃない。早いトコ参内して、仕事を覚えるなり実績を残すなりしねぇと、将来どうなるかわかったもんじゃねぇぞ?」

惟幸を想っての盛朝の発言に、惟幸は項垂れる。

「それは……わかってるけど……」

「煮え切らねぇなぁ……」

呆れた声を出す盛朝に、惟幸はどこか悲しそうな顔をした。そして、本当に申し訳なさそうに言う。

「……ごめんね、盛朝。僕なんかの従者にならなければ、きっと今頃父上や兄上に付き従って、ひょっとしたら出世の糸口が掴めたりとかしていたかもしれないのに……」

すると、盛朝は「おいおい」と言って笑った。

「気にすんなよ。そもそも、お袋がお前の乳母にならなきゃ、俺はあのお邸に入る事すら無かったかもしれねぇんだ。それと比べりゃ、お前と幼馴染になって、今は従者をやってるなんて出世以外の何者でもねぇじゃねぇか。な?」

「う、うん……!」

盛朝の言葉に、惟幸はやや元気になる。そこで、盛朝は元々の話を蒸し返した。

「で、話を元に戻すんだけどな? お前はいつになったらお邸に戻るつもりなんだ?」

「それは……」

惟幸の声が、またも消えそうになった。その時だ。

「あ、いたいた! 惟幸様、盛朝様!」

「あ……」

聞こえてきた声に、惟幸の頬がほんの少しだけ紅潮した。声のした方へ視線を向ければ、惟幸と歳の変わらない少女が一人、大きな包みを抱えて立っている。

「りつ。……そうか、もうそんな時間か」

盛朝が赤くなった空を見上げると、少女――りつは「はい」と頷いた。そして、手に持った包みを盛朝に手渡してくる。

「今日の分の握り飯と、破籠には焼き魚や野菜の煮物が入っています。あとは、糒と梨も入れておきましたので、お腹が空いた時につまんでください」

「梨か。もう、そんな季節なんだな」

盛朝の言葉を受けて、惟幸も頷く。

「そうだね。……いつもありがとう、りつ」

惟幸が礼を言うと、りつは怒ったような、呆れたような……そんな顔をして、少しだけ惟幸に詰め寄った。

「そう思うなら、早くお邸に戻ってきてくださいよ。惟幸様にご飯や着物を届けるの、何でか、いつも私なんですから」

「……ごめん……」

りつの言葉に、惟幸はまたも俯いた。その様子に、りつは小さくため息をつく。

「そもそも……惟幸様達は、何でお邸に戻ってこないんですか? 別に、旦那様と喧嘩をなさった風でもないですし……」

すると、惟幸は困った顔をして、盛朝に視線をやった。必死に、言葉を探している。

「えっと……何て言えば良いのか……」

「……りつ。方違え、ってのは知ってるか?」

「方違え?」

助け舟を出した盛朝の言葉に、りつは少しだけ考えた。そして「たしか……」と呟く。

「道に悪いものがいたら避けて、別の道を歩く事、でしたよね?」

「うん。簡単に言うと、そんな感じかな」

「悪いものってのは、具体的には方位神とか、百鬼夜行のことだな」

惟幸が頷き、盛朝は補足を始めた。

「全部が全部、一概に悪いものとは言えねぇんだけど……例えばお邸に帰る途中にそいつらがいたら、そのままその道を歩いたりしたら駄目なんだ。そのまま行ったりしたら、祟られたり、呪われたりしちまうんだと」

「それでね……何故かはわからないんだけど……僕が行く先には、必ずこの方位神とか、百鬼夜行とかが姿を現すんだ。それを避けるために道を変えていると、何でか、いつも邸からどんどん遠く離れた方向へ向かって行っちゃって……」

それが、三年前に最後に邸を出て以来、ずっと続いているのだという。帰りたいのに、帰れないのだ。そう言うと、りつは不思議そうに首を傾げた。

「けど……祟りとか呪いとか、そんなに気にする必要は無いんじゃないですか? だって、賀茂家と言えば、あの安倍晴明様と肩を並べる、陰陽師の名門なんですから……」

惟幸から数えて三代前の当主、賀茂忠行はあの大陰陽師、安倍晴明の師匠だ。その子である保憲、孫の光栄も、陰陽師として大いに活躍をしている。そんな賀茂家を陰陽師の名門であると言って、異を唱える者はそうそういないだろう。

だからこそ、りつは不思議がっている。

「だから、何かあっても、旦那様に何とかしてもらえば……」

「だっ……駄目だよ!」

それ以上は言わせまいと言わんばかりに、惟幸が大きな声を張り上げた。その様に、りつと盛朝は少々驚いた顔をする。

「賀茂家の人間が祟られた、なんて噂になったら、それだけで賀茂家の名前に瑕が付いちゃって、父上や兄上の迷惑になるし……それに……」

早口にまくし立て、そして惟幸の声がまた消え入りそうな程に小さくなった。

「何とかなると言っても、やっぱり百鬼夜行は怖いし……」

怖いから、遭遇したくない。だけど、遭遇してしまう。遭遇してしまったら、とりあえず逃げる。逃げると、邸から遠ざかってしまう。本当はまっすぐ戻りたい。けど、方違えをせずに戻って祟られたら、それはそれでやっぱり怖い。

惟幸の言いたい事は、つまりはそういう事だ。あまりに情けないその言い分に、盛朝が盛大なため息をついた。

「……こんな具合だ。悪いけど、まだしばらくは戻れそうにない。明日も京のどこかをうろつく事になると思うから、また飯を頼むよ、りつ」

「わかりました。……あ、空になった破籠は持って帰りますね」

頷きながら、りつは盛朝から新たな荷を受け取った。そして、「それじゃあ……」と言って去ろうとする。

「あ、待って、りつ!」

それを、惟幸が慌てて呼び止めた。りつは足を止め、首を傾げる。

「何ですか?」

「明藤」

りつの問いには答えずに、惟幸は宙に向かって呼び掛けた。すると、それまで何者もいなかった場所に、突如美しい女官が一人、現れる。

「お呼びでございますか、惟幸様?」

その姿に、りつは「わ……」と呟き、しばし呆然とする。

「綺麗な人……。惟幸様、盛朝様、この人は?」

どこかムッとした表情で問うりつに、傍で見ていた盛朝が苦笑する。

「明藤。惟幸の作り出した、式神だ。人じゃねぇから、妬くなよ、りつ」

「そうなんですか」

後半の言葉は聞かなかった事にしたのか、表情を和らげてりつは明藤を見上げた。女性にしては高い背、すっと鼻梁の通った顔立ちは人でないという事を納得させる美しさだ。少しだけ戸惑いながら、りつは明藤に頭を下げる。

「……あの。初めまして、明藤様」

「はい。こうしてお話しをするのは初めてでございますね、りつ様」

輝く白露を思わせる声で言い、明藤は微笑んだ。すると、りつはまたも戸惑った顔をする。

「……え? 明藤様、私、どこかでお会いしましたっけ……?」

「あ、あのさ! 明藤!」

突如、惟幸が二人の会話に割って入ってきた。慌てた様子で手を振りながら、明藤に言う。

「今日はもう遅いからさ、りつを邸まで送ってあげてよ! ……ほら、ここからだと、邸に戻るまでに、暗くてひと気の無い道とかあるし! 明藤が一緒なら、りつも心細くないと思うしさ。ね!?」

「かしこまりました。惟幸様の、仰せのままに」

明藤が、優雅に頭を下げる。すると、今度はりつが慌てだした。

「あ、あの……惟幸様? そんなに気を使って頂かなくても、私なら平気で……」

「駄目だよ! りつは女の子なんだから、暗い道を歩く時は万全の注意をしないと!」

強い口調で言ってから、惟幸は少しだけ表情を和らげ、どこか誇らしげに言葉を続けた。

「こう見えても、明藤は結構強いんだ。夜盗とか、弱い鬼ぐらいなら倒せるから! ……ね?」

「あ、その……」

惟幸の笑みに、りつは少しだけ逡巡した。だがやがて、微かに頬を紅く染める。

「……はい。ありがとう、ございます……」

「では、参りましょう。りつ様」

横に立ち、明藤がりつを促す。りつは、少しだけ笑って頷いた。

「はい。お願いします、明藤様」

そして、りつは明藤と連れ立って邸へ戻っていく。その後ろ姿を、惟幸は少しだけ、眩しそうな目をして見詰めていた。









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