平安陰陽騒龍記 第三章









29









葵が目を覚ました時、陽は既に天高く昇っていた。半蔀は既に上げられていて、強めの日差しが辺りを照らしている。

「っ寝坊っ!」

いつもの習慣に急きたてられて、跳ね起きる。そして、簀子縁の向こうに見える景色が見慣れないものである事に気付き、葵はきょとんとして目を瞬いた。

混乱した様子で辺りを見渡せば、横で弓弦が胸を撫で下ろしている。それを見た瞬間に、自分は寝坊をしたのではなく体調を崩していたのだという事を悟り、そのまま意識を失う前の事を思い出す。

「……おはよう……?」

幾日経っているのかも、今がどんな状況なのかもわからず。とりあえず、首を傾げながら弓弦に声をかける。

「おはようございます、葵様。お目覚めになられて、本当にようございました……」

嬉しそうに言いながら、弓弦は立ち上がると、一旦房から姿を消す。そして、すぐにどこからか冷たい水を汲んできてくれた。たしかに、初夏の季節にずっと寝ていたからか、喉はからからに乾いている。

口をつけてみれば、あの井戸の水なのだろうか。神気を取り込み、体に力が湧いてくるように感じた。今までに飲んだどの水よりも、身に染みわたり、美味く感じる。

葵が水を一息に飲み乾したのを見届けてから、弓弦は今の状況を語り始めた。

まず、ここは女木邸である。言われてみれば、辺りの丁度に見覚えがあるような気もする。今までは夕方以降に滞在していたので、印象が違うように見える。

そして、葵が鳥辺野で眠ってしまってから、まだ一日と経っていない。夜明け頃に眠りにつき、今が真昼だとすると、眠っていた時間は長くも短くもない、といったところか。

野駆比古は、葵が眠っている間に顕現できる限界を超えてしまったらしく、既に魂魄は葵の内へと戻っている。

同じように明け方まで起きて動き回っていた紫苑、惟幸、盛朝に虎目も、今は一房を借りて仮眠を取っているという。

弓弦はと言えば、昨夜京に子ども達を送り届けた後、すぐに鳥辺野へと戻ったのだが、既に事は済んでいた。そこで葵達を背に載せ京――女木邸まで戻って、隆善達と合流したのだそうだ。

瓢谷邸に戻っても良かったが、女木が泊まっていくように提案してくれたため、全員が数日厄介になる事になったらしい。

何せ、全員が徹夜で疲労困憊状態。今、下働きをしてくれる者が誰一人としていない瓢谷邸に戻っても、何もできそうにない。一人で邸に戻るのも面倒臭いと感じたのか、隆善もそのまま留まる事にしたようだ。

これを決定した時、紫苑が

「一人で帰りたくないとか、師匠って案外寂しがり屋ですよね」

などと寝惚け眼で軽口を叩いて額を指で弾かれたのだが、それをわざわざ口にする弓弦ではない。

そして、隆善と栗麿、そして女木は直衣に着替えて欠伸を噛み殺しつつ出仕し、残った者は揃って惰眠を貪り……もとい、昨夜の分の睡眠を取り戻すべく仮眠を取っている、というわけである。

「え……隆善師匠達、一晩中起きてたのに出仕したの……?」

「えぇ。……庚申会をやるようなものだとは仰っていましたが、あの様子ではあまり長持ちしそうにもございませんでしたし……そろそろ帰っていらっしゃる頃でございましょうか……」

二人揃って困惑気な顔をした、まさにその時。門の方から主人の帰邸を告げる声が聞こえてきた。

『お、弓弦の読み通りだねぇ』

『女木少輔だけではなく、他の二人も一緒のようだな。流石に、気を揉みながらの徹夜は堪えたか』

『りゅーおじしゃんとくりしゃん、おつかれなの?』

体内住民達の声を聞きながら、葵は思わず立ち上がる。そして、少々ふらつく足取りで簀子縁へと足を踏み出した。

すると、ちょうど渡殿から隆善が歩いてくるところで。暑さを堪えるのも億劫になったのか、直衣の首元を早くも緩めながら、隆善は葵に「おう」と声をかけた。

「目ぇ、覚めたか」

「はい。……あの、隆善師匠……」

続ける言葉を探して、葵はしばし迷う。そんな葵に、隆善は「あー、あー」と軽く手を振った。

「今回のは、全部不可抗力だ。謝る必要は無ぇ。っつーか、眠いから寝かせろ。話したい事があるなら、起きてから聴いてやる」

そう言って、すれ違いざまに葵の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。葵が、どこか嬉しそうな顔をしながらも、悲鳴をあげた。

隆善は、ふと足を止めたかと思うと、振り返る事無く、葵に問う。

「葵。……まだ、母親という存在に未練はあるか?」

問われ、葵はしばし考える。そして、こくりと頷いた。

「あります。……と言うよりも、今回の事で未練になってしまった……んだと思います。今までは気にしていなかったのに、稚日女尊とのやり取りで、母親がいる感覚、という物を知ってしまいましたから……」

「……そうか」

背を向けたまま、隆善は顔を険しくした。未練ができてしまったとなると、これが今後、葵の弱点となるか否か……。

だが、そんな隆善の背に、葵は「けど」と言葉を続ける。

「それと同時に、紫苑姉さんや虎目、師匠達が今までずっと気にかけてくださっていた事もわかって。……紫苑姉さんに、甘えても良いんだって言って頂けて……なんだか、すごくほっとしている気もするんです」

だからきっと、今後母がいないという事で心を揺さぶられる事は無い。親がいなくても、己には家族がいる。気にかけてくれる人がいる。甘えられる存在がいる。それを実感する事ができたのだ、と。

そう言う葵に、隆善は短く「そうか」と返した。そして、再び歩き出しながら言う。

「とにかく、俺は寝るから夕刻まで起こすんじゃねぇぞ。お前も、もっと寝とけ。寝れねぇんなら、女木か、この邸の女房に頼んで双六でも碁盤でも出して貰え」

それだけ言うと、彼は今度こそ女木から借りている一房に入ってしまう。その後ろ姿に、葵は一人静かに、頭を下げた。

頭には、まだ先ほど撫でられた時の感覚が残っている。その部分を、己でも撫でてみて。気恥ずかしいような、嬉しいような、そんな顔でくすりと笑った。そんな葵に、少し離れた場所から見ていた弓弦もまた、嬉しそうに笑ったのだった。










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