平安陰陽騒龍記 第三章
28
薄らと明るくなり始めた空の下。人骨の壁に囲まれた地に、紫苑と、魂魄が完全に分かれた稚日女尊と野駆比古の母。そして、葵と野駆比古。
紫苑は一歩退いて様子を見守り、稚日女尊と葵、野駆比古とその母がそれぞれ向き合う形となっている。
「それでは……やはり、こちらに残るのね? ……その方と、様々な物を見聞きするために」
寂しそうな、しかしとても優しい声で、野駆比古の母は言った。その優しい声に、野駆比古はやはり寂しそうな顔をし、そして項垂れる。
「申し訳ありません、母上。せっかくお会いできたというのに、母上を拒絶するような事を言ってしまったりして……」
「構いませんよ。あなたが、あなたの意思で決めた事なのですから。あなたが己で考え、己の意思を主張できるように成長した事を、喜ばずにはいられましょうか」
そう言って、彼女は野駆比古の頭を撫でた。これが、恐らくこれが永久の別れになるであろう息子への餞別であると言わんばかりに、優しく、丁寧に。
親子の別れの横では、今宵ばかりの仮初の親子もまた、別れの時を過ごしていた。
「私は……心のどこかで憧れていたのでしょうね。母という、子を産み育て、慈しむ存在に。いつかは素敵な男神と出会い、母となる事を夢想した日もあったやもしれません。ですが、命を落としてそれが叶わなくなり……悔しいと思った。その気持ちが……此度、このような事になってしまいました……」
項垂れる稚日女尊に、葵はふるふると首を横に振って見せた。
「仕方のない事……じゃないかもしれないけど、でも。それでも俺は、嬉しかったから。母さんがいたら、こんな感じなのかなって。頭を撫でてもらった事、びしょ濡れになったのを拭ってもらった事、優しく呼んでもらった事。すごく……すごく嬉しかったから」
だから、あまり己を責めないで欲しい。関係の無い子ども達を親から引き離してしまったのは反省すべきだが、憧れの姿を手に入れたかったというその想いまで恥じないで欲しい、と。そう、葵は伝えた。
その言葉に、稚日女尊はふわりと微笑むと、少しだけ腰をかがめ、両の腕を優しく葵の背に回した。明け方だというのに、昼の陽向のようなかおりが葵の鼻腔をくすぐる。
稚日女尊は葵を抱きしめ、そして後頭部を優しく撫でた。
「いつか……あなたが本当に母親に再会する事ができるのか。それは、私にもわかりません。ですが……あなたなら、きっと大丈夫。あなたはどんな困難にぶつかっても乗り越えていける、私の自慢の子……ですから……」
だから、自信を持って。元気で暮らしてくださいね……。
そう言う傍から、稚日女尊の姿が次第に薄くなっていく。野駆比古の母親もだ。未練が無くなり、この世から離れる時が来たのだろう。
二人の目の前で、魂魄はどんどん色を失っていく。そして、最期は何も言わず。二人揃って、微笑み、消えた。
二人が消えたところで、人骨の壁はがらがらと崩れ落ち、土に還る。そして、辺りには朝の陽ざしが満ち満ちた。
陽の光が、あまりに眩しかったのだろうか。葵と野駆比古は、二人揃って手の甲で目元を拭った。
拭いながら、葵は先ほどまで稚日女尊の姿があった宙へと呟く。
「ありがとう……母さん……」
その言葉が宙に消えるか消えないかのうちに、葵は酷いめまいを覚えた。足下がふらつき、思わず座り込む。
そう言えば、結局今回も無茶を重ねてしまったのだった。不可抗力であったとは言え、そんな言い訳は体には通用しない。
だがまぁ、今回はすぐに気絶しなかっただけましと言えようか。そう思ってため息を吐いたところに、紫苑が駆け寄ってきた。
「ちょっと葵、大丈夫? 立てる? 歩けそうにないなら、父様達を呼んでこようか? それとも、弓弦ちゃんに早く戻ってきてくれるよう連絡する?」
連絡されずとも弓弦は急いでこちらに向かっているのだろうから、連絡しても焦らせるだけではないだろうか。
矢継ぎ早に問う紫苑に葵は苦笑し、それと同時に、紫苑に言われた事を思い出す。
少しだけ、頑張ってみようか。
ふと、そう思った葵は視線を紫苑に向けた。
「あの、紫苑姉さん……」
「何!?」
勢いよく肩を揺さぶってきそうな紫苑に、葵は再び苦笑した。そして、少し眠そうな顔をして、言う。
「眠くて、仕方がないので……惟幸師匠達か弓弦が来るまで、肩を貸して頂けませんか……?」
彼にしては珍しい、ほんの少しだけ甘えた発言に、紫苑は一瞬きょとんとしたが、すぐににっこりと笑って見せる。
「お安い御用! 何なら、膝でも良いよ! ほら!」
そう言って即座に胡坐をかき、膝をぱん! と叩いて見せる紫苑に、葵は思わず笑った。
「いえ、肩で充分です」
「そう? あ、野駆比古も肩か膝か貸そうか?」
「あ、いえ……僕は結構です!」
慌てふためく野駆比古の顔が、二重に見える。これはもう、眠気に勝てそうにもない。
紫苑の肩に頭をもたせ掛け、葵はすぅ、と眠りについた。
その寝顔に紫苑は頬を緩め、自身も眠たそうな顔をしながらも、鬼を退治し終えて駆け付けた惟幸達に、静かに手を振って見せたのだった。