平安陰陽騒龍記 第三章









27









檜皮のような色をした髪と、深縹の水干が夜闇の中で風を受けてはためく。野駆比古が主導権を握っている葵の体は、人とは思えぬ速さで風を切って走った。

肩に掴まる紫苑は、振り落とされぬようしがみ付くのが精いっぱいだ。

直線距離を一気に走ったかと思えば、急な角を速度をあまり落とす事なく曲がり切る。時には、地面からせり出してきた人骨の壁を、勢いをつけて跳び越える。その跳躍力も、人間のそれを超えていた。

その高さに、紫苑は思わず息を呑む。この場合、ここまでしなければ乗り越える事ができない人骨の壁に恐怖を覚えるべきか、ここまでできてしまう野駆比古の能力に舌を巻くべきか、どちらだろうか。

そうして、どれほど走ったか。野駆比古が「あっ」と叫んだ。

その叫び声につられて、紫苑は野駆比古と同じ方角を見る。そして、再び息を呑んだ。

「いた……!」

導方の指し示した通りだった。件の鬼女が、すぐそこにいる。全てを拒絶するように頭を抱え、蹲っている。

野駆比古は難なく鬼女の前で停止し、そこで髪と目の色が葵のそれに戻った。

野駆比古は、一度鬼女に拒否の姿勢を見せてしまった。だからきっと、今、鬼女は野駆比古の言葉を聞いてはくれない状態だ。だからまずは、葵が話を。そういう事なのだろう。

そう理解しながらも、紫苑は何やら、もやっとした感情を覚える。そのもやもやした物が何なのかわからないままに、彼女は葵と鬼女のやり取りを見守る事にした。右手が、自然と懐に差し込まれる。いざとなれば、今手元にある道具、技術、全てを用いて、葵を守らなければ。

そんな紫苑の想いを知ってか知らずか。葵は鬼女の前まで進み出ると、「あの……」と声をかけた。その声に、鬼女の体がびくりと震える。

同じだ、と、葵は思った。

先の、勢輔を迎え入れた時と同じ。そしてきっと、頑なに荒刀海彦の力を借りようとしなかった、あの晩の葵とも心境は同じ。この鬼女は、拒絶されるのを恐れている。

葵は、何と言葉をかけるべきか困り、所在なく辺りを見渡した。夜も深まり、辺りの草には露が宿っている。人骨の壁に囲まれていても風は届くらしく、草が揺れる度に、月の光を受けた露がきらきらと光りながら散った。

じっとしていても、足下が濡れる。蹲っている鬼女にいたっては、地に投げ出された長い髪までもが濡れてしまっている。

葵は、しばらく考えたかと思うと、懐から手巾を取り出した。あまり、綺麗な手巾ではない。ちゃんとたたまずに入れていたからか、不恰好に皺がついてしまっている。

葵は鬼女に近寄り跪くと、鬼女の髪を掬い上げ、手にした手巾でそれを丁寧に拭い始めた。その行動に、流石に驚いたのだろう。鬼女が、葵の方を見る。

「この前……俺が、女木様の邸でずぶ濡れになった時……君は、俺の頭を拭いてくれたよね? すごく照れ臭かったけど、本当に嬉しかった。母親って、こんな感じなのかなぁって……」

そう言いながらも、鬼女の髪を拭い続ける。泥にまみれた髪を拭って、手巾はそろそろ役に立たなくなってきている。それでも、彼にしては至極丁寧な手付きで、拭い続けた。

頭を撫でるのは、母親から子への愛情表現。なら、子から母への愛情表現は?

わからなかった。だから、髪を拭った。もし己が母と共に暮らしていたら、こんな事もしたのではないか、と、想像に頼りながら。



「母さん、髪が地面を引き摺ってるよ。泥だらけになっちゃってる」

「あらあら、本当だ。どうしましょうねぇ?」

「えっと……母さんが嫌じゃなければ、俺が拭くよ? 母さんの髪、長くて、母さんが自分で拭うのは大変そうだし」

「あら……良いの?」

「うん。俺が小さい時は、母さん、いつもこうやってくれてたでしょ? だから今度は、俺が母さんにしてあげないとね」

「あらあら、ありがとう。葵は本当に優しい子に育ってくれて、母さん、嬉しいわ」



そんな会話を想像しながら、丁寧に髪を拭う。拭いながら、呟いた。

「一時だけでも、母さんがいるみたいな気持ちになれて……くすぐったくて、嬉しかった。……ありがとう……母さん」

その呟きを、鬼女は聞き逃さなかった。目に涙を溜め、感極まったように葵に抱き着く。それを、葵は受け止め、あやすように背を撫でる。

「大丈夫……俺はここにいるよ……母さん……」

少し、棒読みだったかもしれない。だが、それは騙すつもりで言っているからではなく、照れ臭かったからで。しかし、これを機に、と言うように、葵は何度も母さん、と呼んだ。

その様子を内から伺っていた荒刀海彦が、少々呆れた様子でため息を吐く。

『とんだ茶番に見えるが……それでも、この鬼女には響くのか……』

『鬼女って言うか……この鬼女を半分構成してる、稚日女尊の魂魄に響いているんだろうねぇ。皆で推測したところだと、稚日女尊は母としての己に憧れてるって事だったし』

『母と呼ばれ、慕われてみたかった稚日女尊の魂魄と。母親を呼んでみたかった、葵の旦那と。二人の利害が一致してるんじゃないですかねぇ。だから、傍から見れば白々しい茶番でも、この二人にとっては意味のある事になる』

穂跳彦と導方の言葉に、荒刀海彦は頷いた。

『双方とも……特に、鬼女が求めていたのは形か。だから、野駆比古に拒絶をされたと思い込んだ時、あれほどまでに荒れ狂ったというわけか』

『おそらくは』

野駆比古は頷き、そして少しだけ寂しそうにする。

『稚日女尊様の魂魄が落ち着いてきたという事は、この事態ももう少しで終息すると思われます。それで、今回の騒ぎは終わり……稚日女尊も僕の母上も、あるべき場所へ還る事になるかと……』

そうしているうちに、鬼女の姿が次第に変わり始めた。角と牙は消え、初めてあった頃の、優しげな風貌の女人に。そして更に、その姿が二つに分かれ始めた。稚日女尊の魂魄が、母と呼ばれ満足した事で落ち着きを取り戻し、融合していた魂魄が離れようとしているのだ。

その様子に、葵達はほっとした様子で胸を撫で下ろす。

だが、二つに分かれかけた魂魄は、何故か途中でその動きを止めてしまった。

「え……何で……?」

困惑する葵に、穂跳彦が内側から声をかけた。

『いや、ほらさ……完全に分かれたら、もうそこで別れの時が来ちまうだろ? だから、最期に野駆比古にもう一度会っておきたいって思ってるんじゃないか? 野駆比古の母親の方が』

だから、別れの時を来させまいと、離れられずにいるのではないか。その言葉に、葵は「なるほど」と頷いた。

「じゃあ、あとは野駆比古に替わろうか。やっぱり、最期は親子で顔を合わせたいよね?」

そう言う葵の顔も、何だか名残惜しそうだ。そして、ほぼ正気を取り戻している稚日女尊の魂魄も、どこか残念そうな顔をしている。

その様子に、突然、紫苑が爆発した。

「あーーーーーっ!」

その大声に、一同はびくりと紫苑の方を見る。何故紫苑は、突如大声を発したのか。しかも、どこか怒ったような顔をしている。

本気でわけがわからず、葵は戸惑いながら紫苑に声をかけた。

「あ、あの……紫苑姉さん……?」

「もやもやする!」

いきなりそう言われてしまい、葵は二の句が継げない。そうして葵が口をぱくぱくと開閉させている間にも、紫苑は次々と言葉を重ねた。

「何でそこで、もっと顔を合わせていたい。自分だって最期は、息子の役をしてくれた葵と顔を合わせてから消えたいって主張しないの! 野駆比古もそう! 自分の母親の事なんだから、もっと自分が説得したいって主張すれば良いのに、何であっさり葵に替わってるのさ! あと、葵!」

「はっ、はひっ!」

思わず声が裏返った葵を、紫苑は思い切り睨み付けた。

「何を遠慮してたの! 葵がボクの弟になってから、何年経ったと思ってるのさ! 十二年だよ、十二年! 甘えたかったんなら、もっと堂々と甘えれば良かったでしょ! 母親だと思える人じゃなきゃ駄目だったってんなら、ボクに遠慮しないで母様に甘えれば良かったんだよ! 母様が葵に取られるかもって心配よりも、可愛い弟ができたって気持ちの方が強かったんだからね! 何がそこまで葵を遠慮させてたのか知らないけど、遠慮する必要なんて全然無かったんだよ! 勿体無さ過ぎ! あと、血のつながりが無い負い目があるのかどうなのかわかんないけど、一人で抱え込み過ぎ無茶し過ぎ! いい加減にしてよね。どんだけボクや師匠や父様達や弓弦ちゃんを心配させるの!」

一気にまくし立てると、大きく息を吐き、吸って。そして、これまでよりも更に大きな声で、叫んだ。

「甘えたいなら甘えなさい!」

叫び声が、空気をびりびりと震わせる。しばらくの間、誰も声を発する事ができなかった。

ぽかんと呆けている葵の前で、紫苑はふぅと息を吐く。言いたい事を叫びに叫んで、もやもやしていたものがすっきりした、という顔だ。

そして、にっこり笑うと、懐から差し込みっぱなしになっていた右手を抜き出す。何かの形代を示しながら、紫苑は言った。

「じゃ、始めよっか」

「え、始めるって……何をですか?」

やっと時が動き出したような顔をする葵に、紫苑は「何って……」と言って笑う。

「葵から野駆比古の魂魄を出して、実体化させるんだよ? そうすれば、葵も野駆比古も、野駆比古の母様も稚日女尊も。皆、自分が望んだ相手と最後に顔を合わせて別れる事ができるでしょ?」

そこで、葵はようやく理解した。紫苑が今示している形代は、以前隆善が実験的に作成した、葵の髪を梳き込んだ紙で作成した形代だ。

これに魂魄を憑かせれば、葵の体内住民達は一時的に実体を持つ事ができる。

「任せといてよ。葵からの出し方は、ちゃーんと師匠に教わってるから!」

ここでいう師匠とは、隆善の事である。恐らく、こういう時もあるだろうと紫苑に形代を何枚か託し、いざという時には葵に憑いた魂魄を実体化させる事ができるように手筈を整えていたのだろう。

何かあった時に、葵が極力、納得のいく結末を得る事ができるように、と。

その心意と、先程の紫苑の叫びを心に刻みつけて。葵は、紫苑に向かって頭を下げた。

「お言葉に甘えて、お願いします。俺から野駆比古を一時的に出して、ここにいる皆が納得できる別れを迎える事ができるようにしてください。紫苑姉さん」

その言葉に、紫苑は「良いって、良いって」と言いながら、葵の頭を撫でる。

「頭なんか下げなくても、可愛い弟の頼みなんだから。ボク、頑張っちゃうよ?」

そう言って、紫苑は嬉しそうに笑って見せた。











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