平安陰陽騒龍記 第三章
２６
「まずい……！」
惟幸が呟き、一同は彼を思わず見る。いつも余裕のある惟幸がまずいと口走るほどの事が、起きようとしているというのか。
おぉぉぉぉぉ……という地響きとも唸り声とも取れる音が辺りに響く。やがて、肌が赤黒く巨体を誇る鬼が、一体、二体……。数はどんどん増えていき、いつしか数え切れないほどになる。。
鬼女の叫び声が、彼女以外の鬼を呼んだのだ。
鬼だけではない。がしゃがしゃという音がどんどん大きくなっていき、辺りに白い物がいくつも現れ始める。
骨だ。
辺りに転がっていた死人の骨が、自分で動きだし、集まり始めている。
集った鬼達は、早速葵達に目をつけ、牙をむいて襲い掛かる。特に鬼が集中しているのは、やはり惟幸。次いで、葵だ。
「天理に帰命し奉る！ 雷鳴来臨、諸神真人、百鬼調伏、万魔覆滅！ 急急如律令！」
惟幸が数珠を構えて叫び、激しい稲妻が滝のように辺りに降り注ぐ。多くの鬼が殲滅されたところで、葵と紫苑が九字を唱えて更に鬼の数を減らし、それでも残った鬼は盛朝が斬り伏せる。
その圧倒的強さに気圧されたのか、突然襲い掛からずに様子を見ていた鬼達は葵達を遠巻きにした。隙を狙うつもりなのだろう。
警戒を緩めぬまま、葵達は辺りの様子を窺う。辺りの風景は、彼らが鬼達と対峙している僅かな間に様変わりしていた。
白い壁が何枚もそそり立っている。勿論、ただの壁ではない。近付いて見れば、それは人骨の塊だ。
先程動き出した骨達が寄り集まって、壁を形成し、鬼女の姿を隠している。
「ちょっと、何これ……臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り！」
紫苑が攻撃の九字を切り、人骨の壁を一部破壊する。だが、破壊され崩れた骨達は、またすぐに寄り集まって壁を形成してしまう。
「どうすりゃ良いんだ、こりゃあ……」
まいった、と言うように盛朝が惟幸を見る。惟幸は……少々困った様子で苦笑した。
「どうするも何も……この骨も鬼達も、あの鬼女の心の揺らぎのために集まったり動いたりしているわけだから……彼女を何とかしないと、ずっとこのままなんじゃないかな？」
そう言って、惟幸は困った様子のまま葵を見た。こうなった以上、葵が無茶をするしかない。
鬼女を落ち着ける事ができるのは、恐らく息子である野駆比古と、彼が憑いている葵だけ。そのためには……葵が、この人骨の壁の隙間を縫って、鬼女のもとへ辿り着かなければならない。
勿論、その後に鬼女を説得、場合によっては戦闘で降さねばならない。
「……やります。この場もそうですけど、あの鬼女をそのままにしておくわけにもいかない気がしますし」
頷き、葵は言った。それに対し、惟幸達も難しそうな顔をしながら頷く。
惟幸は、指を何本か折って何事かを占った。そして「ふむ……」と軽く唸る。
「壁の向こうには、鬼はいないみたいだね。この骨の壁に、鬼達も阻まれているのか。それとも、壁の向こうに鬼達は興味が無いのか……」
前者であれば、特に問題は無い。だが、後者の場合……何故鬼達は壁の向こうに興味が無いのか？
それは恐らく、壁の向こうよりもこちらに興味があるから。何に興味があるかと言えば、餌だ。そして、その餌とは……考えるまでもなく、未だに喰らえば神力を得られると鬼達に信じられているらしい惟幸。次いで、神に連なる者の魂魄をその身に宿している、葵。
「どちらなのかわからないなら、後者だと仮定して対策を練った方が良いね。……葵、紫苑」
「はい」
「父様？」
応じた二人に、惟幸はにこりと笑う。
「ここは僕が囮になって鬼を引き付けておくから、葵は鬼女のもとへ行くんだ。紫苑は、葵の補助。良いね？」
その言葉に、葵と紫苑は顔を強張らせる。盛朝の名が呼ばれなかったから、恐らく彼は惟幸の補佐として残るのだろうが……それでも、二人。
いくら惟幸と盛朝が強くとも、増え続ける鬼達を相手に、二人で戦い続けるというのか。葵と野駆比古が鬼女を説得する事ができなければ、いつまでも鬼達は減らないというのに。
かと言って、鬼女を放っておくわけにはいかない。葵は、行かなければならない。
そして、紫苑は……揺れ動いている。父を援けるため、惟幸の言いつけに背いて残るか。葵を援けるため、葵と共に行くか。
逡巡する紫苑に、惟幸は優しく苦笑した。
「こっちは、僕と盛朝で大丈夫だから。姉として、葵の事をよろしく頼むよ、紫苑？」
「……うん」
迷いながらも頷き、紫苑は葵と共に人骨の壁に向き直る。
「けど……どうやってこの壁の向こうに行く……？」
紫苑の疑問に、葵が「それなんですが……」と言葉を発する。
「俺に、一つ考えがあります。……ちょっと、痛いかもしれませんけど……」
「痛い？」
少しだけ、顔を引き攣らせて。しかし、紫苑は首を勢いよく横に振ると、頷いた。
「わかった。葵に任せるよ。早く終わらせて、父様達を手伝わないとね」
頷き返すと、葵は紫苑に、己に掴まるように言った。そして内に語りかけるように呟く。
「じゃあ……頼むよ、勢輔」
『ん！』
葵の内側で勢輔が応じ、葵の髪は赤く、目は赤みを帯びた茶色へと転じた。そして、「ん！」と一言唸るや否や、人骨の壁に向かって勢いよく突進していく。
勢輔は猪だ。その突進力は目を瞠るものがあり、ぶつかった物はひとたまりもない。
人骨の壁は、がらがらと大きな音を立てて崩れ去り、紫苑に掴まらせたままの葵は出来上がった穴から壁の内側へと転がり込む。葵達が内側へ入り込んだところで、勢輔によって崩された壁はまた元通りの姿となった。
紫苑と、主導権を再び得て表に出た葵は辺りを見渡し、唖然とする。
また、人骨の壁だ。しかも、今度の壁の厄介さは今しがた突き破ってきた壁の比ではない。
うねうねと、動いていた。そして、少しずつではあるが移動していた。いくつもの壁が移動し、高さや横幅を変え、迷路のようになっている。
刻々と、道と風景が変わる迷路だ。恐らくこの迷路を抜けた先に鬼女がいるのだろうが、このように変化し続ける迷路では、どれほどの時がかかるのか……。
「こんな時に弓弦ちゃんか虎目がいれば良かったんだけどね……」
弓弦がいれば、空から目的地まで一直線に行く事ができただろう。虎目がいれば、未来千里眼を使って正しい道を予知してもらう事もできただろう。
残念ながら今、弓弦と虎目は子ども達を送り届けるため、京まで行ってしまっている。ここは、何とかこの迷路を突破するより無い。
「……紫苑姉さん。こんな見た目が変わり続ける迷路、どうやって進めば良いんでしょうか……？」
「だよねぇ……。範囲はそれほど広くないと思うんだけど、森の中で迷うよりよっぽど厄介だよ、これ」
二人揃って、困った顔を見合わせる。葵の内でも、魂魄達が腕組みをして、この事態をどう打開すべきか唸っている。
そのうちに、荒刀海彦が『いや……』と呟いた。
『正しい道を知る方法であればあるのではないか？』
「えっ!?」
『そんな方法があるんですかい、荒刀海彦の兄さん!?』
葵が目を見開き、鼠が素っ頓狂な声を発する。そんな鼠に、荒刀海彦が『あのな……』と少しだけ呆れたような顔をした。
『私が言っているのは、お前の事だ。お前の祖先は、炎の中で大国主神に安全な場所を示し、その命を救ったのだろう？ 己よりもずっと体の大きな者が隠れる事ができる場所を探し当て、それを伝える事ができるなど……ただの鼠の能力とは思えん』
『あっ、そういう事か。つまり、その鼠には元々それなりに神がかった能力が備わっていて、その子孫であるこいつにも似たような能力があるかもしれない、と』
穂跳彦の言葉に荒刀海彦は頷き、そして言う。
『この鼠が葵の体を使えば、正しい道を察知する事ができるかもしれんし、できないかもしれん。だが、このまま考え続けるよりはずっと良いだろう。試してみる価値はある』
そう言われて、鼠は難しい顔で考え込む。
『それは……やってみれば、できるかもしれやせんが……』
歯切れが悪い。そして、短く呟いた。
『……良いんですかい？』
鼠が、葵の体を使っても。まだ葵の内に棲むようになってから時がそれほど経っておらず、信頼関係も築けていない。そんな彼が、葵の体の主導権を握っても良いのかと。問うように、皆の顔を眺めまわした。
「……構わないよ」
静かに、葵が呟いた。そして、ゆっくりと言い聞かせるように言う。
「君は、命を懸けて俺の事を助けてくれたよね？ それに、俺の中に入ってきてからも、わからない事を一緒に考えてくれたり。荒刀海彦の事を、説得してくれたりもしたんだよね？」
そこまでしてくれた鼠が、葵の体を使って悪さをするとも思えない。だから、体を使ってくれて構わない、と、葵は言った。
『まぁ、いざとなったら刀海のおっさんや勢輔が、なりふり構わずにあんたの事をどうにかするだろうしさ』
穂跳彦の軽口に、鼠がぶるりと身を震わせる。そのやり取りに苦笑しながら、葵は優しく言った。
「俺は、君を信じるよ。今の話で、君の名前も決まった。俺達を、正しい方角へ導いてくれるかな？ ……導方(みちかた)」
導方……葵が、そう鼠の事を呼んだ瞬間、髪は少し焦げたような茶色となり、目の色はいつもよりも黒の深みが増した。そして、ぴょこんと糸のような髭が生える。前歯も少しだけ大きくなったようだ。
鼠――導方が葵の体の主導権を握ったのだという事が、横でただ葵が呟くのを見ていただけの紫苑にもわかった。
葵――導方はすぐさまその場に上体を沈めると、地に耳をつけた。しばらくそうしていたかと思うと起き上がり、ふんふんと風の臭いを嗅ぐ。
「……わかりやした」
そう言うと、導方は真っ直ぐにとある一点を指差した。
「この――ずっと向こう。壁も何も全部取っ払った先に、件の鬼女の気配がしまさぁ。……どうしやす？」
その呟きを最後に、導方はすぐに体の主導権を葵へと戻す。元に戻った葵は、ちらりと紫苑を見ると、難しそうに唸った。
「方角がわかっているなら、また勢輔に手伝ってもらえば……一直線に目的地まで向かえるんだけど……」
その間に、骨の壁を何度破壊しなければならないのか、わからない。何度も何度も体当たりをしていたら、葵はともかく、紫苑の体がもつかどうか。もつとしても、穂跳彦が憑いていない紫苑は、怪我をしたらすぐには治らない。葵としては、紫苑を連れての体当たりはこれ以上避けたいところである。
かと言って、走って向かうのには骨が折れそうだ。人骨の壁は自ら動いて、形を変える。通るつもりの道が、直前で塞がれて通れなくなってしまい、回り道……という事態にもなりかねない。
やはり、できる事なら勢輔で一直線に突破していきたい。だが。
「……言っておくけど、ボクを置いて自分だけ行こうなんて考えないでよね？」
見透かしたように、紫苑が言う。たしかに、それは葵も考えた。葵一人であれば、遠慮する事無く壁に突進していける。
しかし、それでは紫苑がついてきた意味が無くなってしまう。葵についていけないとなれば、惟幸と盛朝の手助けをしたかったろうに。今ここで葵が一人で行ってしまっては、紫苑はただ一人、葵と惟幸達の身を心配しながら待つしかなくなってしまう。
「けど……じゃあ、どうすれば……」
焦りと、困惑と。様々な想いを抱えながら、葵は唸る。そんな葵に、野駆比古が内から声をかけてきた。
『あの……葵殿……。できれば、僕に手伝わせていただけませんか……？』
「……え？」
葵が首を傾げると、野駆比古は少しだけ言い難そうにしながらも、言う。
『僕、馬ですから……。勢輔殿のような突進力はありませんが、足の速さには自信があります。一直線に走るよりは遅いかもしれませんが、それでも目的地の位置がわかっているのであれば……』
葵達が走るよりも速く、鬼女のもとへ辿り着ける。骨達が位置を変えて、壁の形を変えてしまうのも、野駆比古の足であれば、変わり切る前にすり抜ける事ができるかもしれない。
「……そっか。そうだよね……」
呟くと、葵はすぐさま紫苑に、己の肩に掴まるように言う。そして、内に向かって呟いた。
「頼むよ、野駆比古。今度こそ、君のお母さんとちゃんと話をしよう」
