平安陰陽騒龍記 第三章
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「おぉ……」
感極まった様子で、鬼女が声を発した。
「坊や……!」
その言葉が、葵と野駆比古、どちらに向けて発せられたものなのかはわからない。わからないまま、それでも。野駆比古は、葵の口を使って鬼女に声をかけた。
「母上……お久しぶりでございます」
野駆比古の言葉に、鬼女は涙を湛え、声も出ない様子で頷いて見せる。そして、勢いよく近付いてきたかと思うと、葵の体を強く強く、抱き締めた。
その行為に、葵――野駆比古は、逆らわない。それどころか、鬼女の事を彼もまた、強く強く抱き締め返した。
恐らく、これまで呼び寄せた子ども達を撫でたり抱き締めたりする事はあっても、抱き締め返される事は無かったのだろう。鬼女の目が丸く見開き、そして優しげに細められる。この子こそ我が子だと、確信した様子だ。
「坊や……長い間……本当に、気が遠くなりそうなほど長い間、一人にしてごめんなさいね。……母さんがいなくて、寂しかったでしょう……?」
「母上……僕は、大丈夫です。母上が亡くなってしまわれた後、僕も時を置かずして死んでしまいましたが……何かに憑けば、寂しさを紛らわす事ができましたから。ですが……寂しいのとは別で……やっぱり、母上にはもう一度お会いしたくて。あの時、母上が死んでしまうと知っていれば、もっとたくさんお話しをしたのに。もっと甘えたかったのに、と。後悔ばかりが募ってしまって」
葵の顔で、沈んだ面持ちで、野駆比古は言う。辺りに、重い空気が満ちた。
しかし、その重い空気は野駆比古自身によって、すぐに払われる。「けど」と野駆比古は表情を明るくして言った。
「今、こうやって……葵殿のお体を使わせて頂く事で、こうして再び母上にお逢いする事ができました。僕は……僕は、とても嬉しいです……!」
「私もです……私も嬉しいですよ、坊や……。あなたとこうして、再び出会う事ができて……!」
鬼女の言葉に、野駆比古は頷く。そして、緩んでいた頬を引き締めると、改めて鬼女に向き直った。
「ところで、母上。一つ、お願いがあります」
「まぁ、何ですか? 何でも言ってごらんなさい?」
本当に何でも言う事を聞いてくれそうな様子で、鬼女が嬉しげに言った。それに対して、野駆比古は「はい」と真面目な顔で頷く。
「母上。僕はこうして、母上と再びお逢いする事ができました。ですから……僕かもしれない、という理由から呼び寄せた子ども達。彼らに、母上の声が聞こえないようにしていただけませんか? 母上の声が聞こえている間、彼らはずっと母上の事を彼らの母親だと思い続けます。……母上の子は、僕だけなのに……」
少し拗ねた様子で発せられたその言葉に、鬼女は「あらあら」と嬉しそうに笑った。野駆比古のその態度が、本心からのものなのか、鬼女の機嫌を損ねる事無く目的を果たすための演技なのかはわからない。……恐らくその両方ではないだろうか、と、二人の掛け合いを見守ってきた者達は思った。
「もちろん、構いませんよ。せっかく、坊やと再び会えたのですもの。坊やじゃないとわかった子は、親もとへ返してあげなければいけないものね」
鬼女がそう言うや否や、上空から子どもの泣き声や叫び声が聞こえてきた。本当に、鬼女の呼び声が聞こえないようにしてくれたらしい。
我に返った子ども達が、ある子は高さに怯え、ある子は親を求めて泣いているらしい。中には、龍の背に乗っているという状況に興奮しているらしき声も聞こえるが。
惟幸が頷き、龍の姿をした弓弦も首を緩やかに動かした。そして、葵の方をちらちらと気にしながらも、京の方へと飛んでいく。子ども達を、京の親のもとへ返しに行くのだろう。
ひょっとしたら、親もとまでは送り届けず、京の人目に付き易い場所まで送ったらすぐにこちらへ戻ってくるつもりかもしれない。何かあった時、葵をこの場から助けなければと、今でも思っているだろうから。
静かになった場で、鬼女は嬉しそうな顔をしながら野駆比古の――葵の手を取り、いずこかへと誘うような振りをする。
「さぁ、坊や。行きましょう。ここは私達のような死者や、神が長く居ついて良い地ではありませんからね。黄泉の国へと赴いて、伊弉冉様にご挨拶をしなければなりませんよ」
そう言って、鬼女は葵の手を引く。それを見ていた紫苑と盛朝が、ぎょっとして目を瞠る。このままでは、葵は生きたまま黄泉の国へと連れていかれてしまうのではないか? そんな懸念が、拡がった。
惟幸は、何も言わない。動こうとしない。ただ、いつでも動けるであろう体勢で、じっと鬼女と葵――野駆比古の様子を窺っている。
鬼女が、葵の手を引く力を増す。だが、葵は――野駆比古は、動こうとしない。流石に、鬼女は怪訝な顔をした。
野駆比古は、少しの間だけ躊躇うような顔をした。だが、やがて何かを決意したのか。きっと顔をあげると、鬼女の手を振り払った。
「……坊や?」
「……すみません、母上……」
本当に申し訳なさそうな声で、野駆比古は言った。申し訳無さそうではあるが、その顔には決意が宿っているのがわかる。
「僕は、母上と共に黄泉へは行きません」
鬼女の目が、見開かれる。どういう事ですか、と、掠れた声が漏れた。
「僕は……生きている時はそれほど長くありませんでした。その短い時ですら、母上がいなくなってしまったのが寂しくて、いつも母上の姿を探していて。……それは、死んでからも同じでした」
ずっと、母を探していた。死んで、魂魄となって、動物に憑いて。その間も、その目から見える景色を楽しむ事無く、ただ、母の魂魄は見えぬかと探していた。母が迎えに来ないかと、待っていた。
「それが……葵殿に憑いて、初めて……違う景色が見えたんです。葵殿に憑いていれば、母上と会う事ができる。そう思ったために、余裕が生まれたのかもしれません。僕は……この景色を、もっと見てみたくなったんです」
初めて、名を貰った。初めて、賑やかな場に身を置いて、憑いている動物ではなく彼自身を相手にしてもらえた。
それがとても心地よくて。だからか、葵の体を通して嗅いだ風のにおいが、夏の湿気が、素晴らしいものに思えた。
そう、野駆比古は言う。このまま葵に憑いていれば、もっとたくさんの素晴らしいものに出会えるかもしれない。
生まれて初めて、生きている、という事を実感している。そして、これからも実感したい。
だから、もっと葵に憑いていたい。まだ黄泉の国へは行きたくない。勿論、葵を生きたまま黄泉の国へ連れていくなど以ての外だ。
そう言って、野駆比古は鬼女の目を真直ぐに見詰めた。
勿論、野駆比古が母親である鬼女と共に逝かず、葵に憑いて〝生き〟続ける事に、鬼女の許可など要らない。野駆比古の生は、野駆比古のものなのだから。
それでも、けじめをつけるために宣言したのだろう、と。体の外の様子を見守りながら、葵は思う。
葵に否の意思は無い。野駆比古が葵に憑いていたいと言うのであれば、葵には拒否する理由が無い。周りの者は、体に負担がかかると口をとがらせて言うかもしれないが。
しかし、子を求めてあれほどの騒ぎを起こした鬼女だ。共に逝けぬと野駆比古に言われて、はいそうですかと言うわけがない。
それは、葵も野駆比古も、覚悟していた。覚悟して……いたのだが……。
「何故そのような我儘を言うのです? 何故母と共に来てくれないのですか……!」
がくがくと震えながら鬼女は言い、そして衣を裂くような叫び声を発した。頭を突き刺すかのような叫び声に、その場にいた者達は思わず耳を塞ぐ。
鬼女は尚も叫び、そしてその声が途切れたかと思うと、頭を振り乱して「おぉぉぉ……」と嘆きの声を発し始めた。
「あってはならない……坊やが私を見捨てるなど……。嘘……嘘嘘嘘嘘嘘嘘……」
ぶつぶつと呟き始め、その様子は鬼を見慣れた者でも恐怖を感じるほどだ。壊れたかのように呟き続ける鬼女に、野駆比古が「母上……?」と身を案じる声をかける。
それが、切っ掛けとなった。
「近寄るな! お前は私の坊やではない! 坊やの気配を出している偽物だ!」
本物の坊やなら、共に逝かないなどと言うわけがない。そう言って、鬼女は野駆比古に対して拒絶の態度を取る。胸がちくりと痛んだ事に、未だ体の主導権を野駆比古に預けたままの葵は、顔をしかめた。
葵には、親の記憶は無い。だが、もしいつの日か親に会う事ができて、そして同じような事を言われたりしたら……きっと、同じように胸が痛むのだろうと思う。
『……野駆比古、一度替わってくれるかな?』
葵の申し出に、野駆比古は悔しそうに頷く。体の主導権が葵に戻され、葵はこの日初めて、鬼女とまともに相対した。
目の前で野駆比古の気配が薄まったにも関わらず、鬼女はそれに反応しない。ただ、息子に同行を拒否された事のみが、彼女の心を支配しているようだ。
「あの……」
とにかく、何か声をかけなければ。そう思った葵は、口を開きかける。だが、時既に遅かった。
ざわざわと、風に揺られた木々が騒ぐ。空気がぴりぴりと肌に突き刺さるようになり、そこかしこから、がしゃがしゃという音が聞こえ始めた。