平安陰陽騒龍記 第三章









23









「我が娘よ、目を覚ませ! お前は、あのような鬼女如きの術にかかるほど弱い娘ではなかろう!」

荒刀海彦が、葵の体を使って必死に弓弦の肩を揺さぶる。だが、よほど鬼女の呼びかけが心の奥深くまで届いてしまったのか。弓弦は一向に自我を取り戻さない。

「何故だ……葵はすぐに目を覚ましたというのに……」

『その葵も、今回はまだ目覚めてないんだよねぇ……』

『あの……葵の旦那、鬼女に撫でられた時に、いつもお師匠さん方に撫でられている時と感じが違うから正気を取り戻したって、仰ってやしたよね? 今回は撫でられてやせんから、術がかかりっ放しになっているんじゃねぇですかい?』

鼠の言葉に、穂跳彦は『あぁ……』と力無く頷いた。

『考えられるとしたら、それだよなぁ……。って事はさ』

やや面倒そうな声で、穂跳彦は言う。

『やっぱ、あれじゃないのか? 弓弦にしろ葵にしろ、正気を取り戻させるには愛情的な刺激を与えなきゃいけないとか』

「愛情だと……?」

訝しげに言う荒刀海彦に、穂跳彦は『そう』と頷く。

『愛情。皆が、葵や弓弦の事をどれだけ愛してるか、行動で嫌ってほど伝えてやるんだよ』

『なるほど……たしかに、それは上手くいきそうな気がしやすね!』

鼠におだてられて、穂跳彦は『だろ?』と少しだけ胸を張った。そして、また面倒そうな声に戻ると言う。

『ってか、刀海のおっさんさぁ。やる気あんの? 弓弦の事、一度も名前で呼んでないじゃん。名前を呼んでやる事が一番の愛情表現だって、刀海のおっさんならわかってると思うんだけど』

末広比売に名を与える事で落ち着かせてやろうと葵に提案したのは、荒刀海彦なのだから。その場にいなくても、話には聞いている。そう言って、穂跳彦は荒刀海彦を軽く睨んだ。

『そりゃ、わからないでもないよ? 弓弦っていうのはこっちで葵がつけた名前で、刀海のおっさんがつけた本当の名前は別にある。刀海のおっさんとしては、自分でつけた名前を呼びたいけど、弓弦本人がこっちでは葵のつけた名前で通すって決めてる。刀海のおっさんとしては、他人がつけた弓弦って名前では呼びたくないけど、弓弦の意思を尊重して、自分でつけた名前でも呼べずにいる。そんなとこだろ?』

「……」

荒刀海彦は、反論をしない。図星のようだ。その様子に、穂跳彦は深い深い溜め息を吐いた。

『自分のつけた名前で呼びたいってのは親らしいし、娘の意思を尊重したいっていうのも立派だと思うけどさ。それで弓弦がどうにかなっちゃったら、本末転倒じゃないか。緊急事態なんだし、こういう時は仕方ないと思うんだけどねぇ……』

その言葉に、荒刀海彦は目を閉じた。大きく息を吸い、そして吐く。

再び目を開くと、その顔には先ほどまでは見られなかった決意の色が浮かんでいた。

荒刀海彦は弓弦の肩から手を外すと、左手を弓弦の背に回し、右手でその後頭部を優しく撫でてやる。手の中で、弓弦がぴくりと動いたように思えた。

穂跳彦と鼠が『おっ』と反応を示す。新参者故かほとんど発言せずに控えている野駆比古も、目を見開いた。

「……すまなかった」

弓弦の頭を撫でながら、荒刀海彦はぽつりと呟いた。

「竜宮から受けた命(めい)のためとは言え……こちらで命(いのち)を落としてしまったとは言え……十二年も。十二年も寂しい想いをさせてしまった……。なのに私は、お前が強い娘に育ったのを良い事に、ろくに構う事もせずに……。今回の事も、私が傍にいなかった事、それ故にお前の母に苦労をさせ、結果としてお前から母親の愛情すらも奪ってしまった事が原因なのだろう。……本当に、すまなかった…………リ」

最後に、耳元でぼそりと、荒刀海彦は何かを呟いた。途端に、弓弦の体がびくんと震える。

体の内で、野駆比古が呟いた。

『……それが、弓弦殿の真の名、なのですね……?』

荒刀海彦は、頷く代わりに弓弦を強く抱きしめた。その力強さと温もりに何かを感じたのだろうか。

弓弦が、「あ……」と小さく声を発した。

「父上、様……?」

「目を覚ましたか……」

荒刀海彦はほっと息を吐き、苦笑する。それを切っ掛けとしてか、金色の瞳が次第に黒くなっていく。体の主導権が、荒刀海彦から葵に戻ったのだろう。

……そう。今までの行動は全て荒刀海彦によるものだが、体は常に葵のものである。

そして、弓弦の正気を取り戻すために荒刀海彦が取った行動は、葵にも充分刺激を与えたらしい。それこそ、自力で自我を取り戻し、体の主導権を握る事ができるようになるほどに。

葵が……葵も、自我を取り戻した。両腕で、弓弦の事を力強く抱き締めたままの体勢で。

葵と弓弦の顔が、みるみるうちに赤くなる。

虎目を初めとしてにやにやとその様子を眺めている者達の目の前で、葵が短く、ぴぎゃあと叫んだ。










web拍手 by FC2