平安陰陽騒龍記 第三章









18









白い、白い。霧と光が混ざり合ったような白い空間で、葵達は一人の少年と向きあっていた。

……そう、少年だった。着物と髪形は、荒刀海彦によく似ている。つまり、角髪だ。荒刀海彦が上げ角髪であるのに対して、この少年は下げ角髪であるという違いはあるが。歳は、見た目だけなら恐らく十二か、十三といったところだ。

この場所での姿は、葵以外の魂魄にとっては仮の姿だ。体の主である葵に、その魂魄の人となりが伝わり易い姿になるらしい、という事は、荒刀海彦と初めて顔を合わせた時に何となく知った事である。

「男だったって事は、名前はノガケヒコって事で良いんですかい?」

「……あぁ、うん」

頷くと、葵は宙に〝野駆比古〟と指で書いて見せた。墨がついているわけでなし、その文字は誰の目にも触れる事は無い。だが、指の動きで何となく文字を察したらしい一同は「ふむ……」と唸った。

「えっと……先ほどは野駆、と呼んで頂きましたが……つまり、僕の正式な名前は野駆比古、という事で良いのでしょうか……?」

子どもの姿に反して、丁寧な言葉遣いで野駆比古はおずおずと問うた。その問いに、葵はこくりと頷いて見せる。

「うん。……ごめんね、ややこしい呼び方をして。……あ、俺は……」

「存じています。葵殿……でしたよね?」

そう言って、葵が頷くのを待ってから、野駆比古は顔を赤らめつつ頭を下げた。

「あの……申し訳ありませんでした。何度も頭を噛んだりして、あまつさえ髪や着物をよだれだらけに……!」

相当気にしているらしく、どこか怯えた様子で葵の様子を窺っている。たしかに酷い目には遭ったが、これでは責めるに責められない。……と言うか、葵には元々野駆比古を責めるつもりは無い。

「いや、それはもう済んだ事だし、怒ってないんだけど……。けど、何でいつもは布を噛んでたのに、俺は髪?」

「その前に、何で布を好んで噛むのか、も不思議だったよな」

「ぬの、おいしいの?」

葵と穂跳彦が首を傾げ、その横で末広比売が不思議そうな顔をしながら己の袖を噛んだ。

「あっ、すえ! めっ!」

葵が末広比売に袖を噛まないよう注意している様子に、野駆比古はますます顔を赤らめる。

「あうう……済みません……。葵殿から心地よさそうなにおいがしたので、つい布を噛む誘惑を超える誘惑に負けてしまいまして……」

「だからって、何で髪……」

「髪以外を噛んだら、怪我をさせてしまうかも、と思ったので……」

「……そう……」

妙に真面目な理由に、葵は脱力して見せた。そして、穂跳彦が提示したもう一つの疑問。何故布を好んで噛むのか、について問うてみる。

すると、野駆比古の顔がみるみるうちに曇った。まずい事を訊いてしまったかもしれない、と、葵達が気付いた時にはもう後の祭りである。

「恥ずかしながら……布を見ると、母の事を思い出すんです。僕の母の死と、布は……切っても切り離せない話となっていますので……」

「布と君のお母さんが……?」

何でまた、と、思わず問うた。すると、野駆比古は静かに頷いて言う。

「そうですね……そこから説明した方が良いかもしれません」

野駆比古は目を閉じると、大きく息を吸い、そして吐いた。腹を括ったような顔をすると、彼は語り出す。

「皆さん、素戔嗚尊、という神の名はご存知かと思います。その素戔嗚尊が、姉である天照大神を尋ねて高天原へ出向いた時。それはもう、大層な悪さ……と言えるような可愛いものではありませんが、とにかく悪さを山としてしまったんです」

それは、葵も読んだ事がある。田の畔を壊し、溝を埋め戻し、食に関わる建物の中で糞をしたとか、何とか。

かの神の性格は、先祖が関わったという鼠にも伝わっていたのだろう。難しい顔をして、腕組みをしながら話を聴いている。

……というか、よくよく考えたらいくら娘が結婚相手として連れてきた男が気に食わないからと言っても、その男に無理難題を吹っかけた挙句に焼き殺そうとする行動も葵の感覚からすれば尋常ではない。

「そうか? わからんでもないが……?」

「弓弦が苦労するだけだから、やめてあげてね、荒刀海彦? ……というか、ひょっとしなくても、その場合に火を放つのって俺……?」

「葵と弓弦で婚姻結んじまえば良いんじゃないのか? それだったら、刀海のおっさんには手出しできないだろ?」

「穂跳彦まで何言ってるのさ!?」

「あの……話を続けても良いでしょうか……?」

困った顔をしている野駆比古に、一同は慌てて「勿論!」と続きを促した。野駆比古は軽く咳払いをすると、話を続ける。

「それで、ある日……天照大神が機屋で、衣の出来具合を見ていた時の事です。素戔嗚尊が、また悪さをしました。……その……馬を殺して、その皮を剥いで……機屋の中に、投げ込んだんです」

その時の様子を思い出したのだろう。野駆比古の顔が、青くなった。

「あっ……まさか、その馬が……」

野駆比古は、吐き気を堪えるような顔をして、頷く。

「そう……僕の母です。……その時死んでしまったのは、僕の母だけではありません。投げ込まれた馬の皮に驚いた機織女が一人、驚きのあまり機から転がり落ちて、その時に手にしていた梭(ひ)に陰部を突かれて死んでしまったのです……」

 梭とは、機織りに使う道具の事だ。葵はりつに見せて貰った事があるが、張りつめられた糸の合間をくぐらせる道具なだけあって、先端は鋭い。そんな物が、体内への入り口である陰部を突いたら、命に係わる大怪我をする事になるであろう事は、容易に想像ができた。

「そっか。だから、布を見ると母親を思い出すんだな。母親に関わる、最後で最期の場所が機屋だったから……」

「えぇ……幼いうちに、突然母に死なれた事が、ずっと僕の心のしこりになっていたんでしょう。僕は死して後も馬の姿を忘れる事も、生まれ変わる事もできず、馬の魂魄のまま彷徨い続けていました。そんな時、何の弾みか、同じ馬である布食に憑いてしまって……」

「体を得た事で、母親に関わりのある物を身近に引き寄せたくなった。お前の場合はそれが布だった、というわけか……」

「そんなんでも、葵の旦那の方が布より魅力的だと思ったなんざ、相当良い何かを感じたんでしょうねぇ」

鼠の言葉に、野駆比古は恥ずかしげに頷いた。

とにかく、これで布食が布ばかり好んで噛む理由、葵に限って布ではなく髪を噛まれた理由はわかった。野駆比古の魂魄が離れた布食が、今後も布を噛むのかどうかはわからないが……習い性となる、という事だし、今後も変わらず布を噛み続けるんだろうな、と。何となくそんな予感がする。

布食についての疑問が解けたところで、残るは本題だ。あの鬼女は何者で、何故彼女が子どもを呼ぶ時に、馬の嘶きが聞こえたのか。

その疑問を持ち出すと、野駆比古は言い難そうにおずおずと口を開く。

「あの……その鬼女、なんですが……恐らく、僕の母です」

「……は?」

あまりにもあの鬼女と野駆比古の印象が違い過ぎて。そして、あまりにもあっさりと求めていた真相と思わしき所へ辿り着けて。

思わず全員が唖然とし、息を吐き出すように短く声を発した。

「え……あの鬼女が野駆比古の母親って、どういう事だよ?」

「どう見ても人間、だったよね……? 鬼になる前も、なった後も」

「あのおかあしゃん、おうましゃんなの?」

「んん?」

「すえ、勢輔。あ奴はお前達の母親ではないぞ……?」

ざわつく中で、野駆比古は「えぇっと……」と話し辛そうにしながら口を開く。

「僕の母は、間違いなく馬です。ただ、母が死んだ時、死んだのは母だけではなかったので……」

その言葉で、末広比売と勢輔以外はハッとした。野駆比古が何を言いたいのか、わかったのだろう。

「そうか……野駆比古のお母さんは皮を剥がれて……」

「その皮が投げ込まれた先で、機織女が一人死んだのだったな」

そう、野駆比古の母が死んだ時、少し遅れて機織女も死んだ。

「前例を聞いた事は無いけど、有り得ないって証明できるわけでもないもんな。……野駆比古の母親の魂魄と、その機織女の魂魄が混ざり合ってる、って」

機織女は、天照大神の衣となる布を織る役割を担っていた。そう考えると、この機織女も神であると考えてもおかしくはないだろう。そして、野駆比古が神霊である事を考えると、その母も、神霊。恐らくは天照大神の馬。つまり、神の魂と神の魂が混ざり合って、あの鬼女になってしまったものと考える事もできる。

「けど……神同士の魂魄が混ざり合ったとして、何故鬼女になるんですかい?」

「それは……やっぱ、あの鬼女の行動から推測するしかないよなぁ」

穂跳彦はそう言うと、ぴ、と右手の人差し指を立てて見せた。

「ほら、鬼になる時っていうのはさ。大抵、何かとてつもなく執着してるものがあって、そのために力を欲して変化するものだよな? だから、鬼って奴は行動にその欲が現れやすい」

抑圧された上で発散をしたいと願い鬼になった者は、誰彼構わず襲い掛かるようになる。空腹が満たされず鬼になった者は、獲物を食い殺す。色欲を満たしたいと願った鬼は女を攫うし、特定の者に恨みを抱いていれば、特定の者を執拗に狙う鬼になる。

なら、今回の鬼女は? 酷く、わかりやすい。

子どもを呼び、攫った。己の事を母と呼び、攫ってきた子ども達に対して母親のような言動を見せた。

「あの鬼女は……母親としてありたいという欲求が強過ぎて鬼と化したという事か? だが……」

腑に落ちぬ、と言いたげな顔で荒刀海彦が唸った。荒刀海彦だけではない。穂跳彦も難しそうな顔をしているし、葵も違和感を抱いた様子だ。

「うん……野駆比古のお母さんは、まだわかるんだけど……」

「天照大神の衣服に関わる機屋で働いてたって事は、その機織女、多分未婚の生娘だよな? それが、母としてありたがる……?」

天照大神に仕える女は、未婚で男を知らぬ者であるのが基本だ。だから、伊勢の斎宮も皇族の中から未婚の内親王が選ばれる。この条件は、恐らく高天原においても同じであろう。

未婚で男と交わった事が無ければ、よっぽどの事情が無い限りは子などいないし、母親になった経験も無い。なのに、その機織女が母親として振舞いたがっているとは?

皆で首を傾げて、「どういう事?」と問いたげに野駆比古を見る。だが、野駆比古は申し訳なさそうに肩を竦めた。

「すみません、流石にそこまでは……」

わからない、と。それはそうだろう。母である馬の魂魄はともかく、機織女の方は野駆比古とは何の関わりも無いのだから。

「真相に辿り着けそうで、中々辿り着けないもんなんですねぇ」

腕組みをしながら、鼠が唸る。そして、彼はふと、何か思い付いたという顔をすると手を打った。

「わからねぇなら、訊けば良いじゃねぇですか!」

「訊く? 誰に?」

怪訝な顔をする葵に、鼠はしたり顔で言う。

「ほら、その機織女と同じような年頃で、未婚で、恐らく生娘の女性。いるじゃねぇですか。葵の旦那の姉君とか、旦那のために井戸水を汲みに走られたお嬢さんとか。あの方達に、未婚で子を成した事がなくても母でありたいと思う事があるのかと訊いてみれば……」

「……俺に死ねと?」

真顔で、葵はぽつりと呟いた。

いくら姉のような存在で可愛がってくれているとは言え、それに甘えて気軽に未婚だの生娘だのといった単語を出して良いとは思わない。そして、それを実行した瞬間に、凄まじい剣幕で叩かれるのは火を見るよりも明らかだ。

……いや、その前に。

「我が娘に、そのような卑猥な事を訊けと?」

葵は、背後に立つ荒刀海彦の顔を見る事ができない。だが、背中がピリピリと尋常ならざる怒気を感じ取っている。鼠もさすがに気付いたのか、真っ青に青褪めている。

「あ……あー……その……荒刀海彦の兄さんのお嬢さんでやしたか! 道理でその……えぇっと……意志の強そうな目をしていらっしゃると……」

しどろもどろになって言葉を並べ始めた鼠に、荒刀海彦は深い溜め息を吐く。そして、右の拳を握り込むと、言った。

「悪気が無いのはわかっているが、聞き流す事はできん。一発殴らせてもらおうか」

「ひ、ひぇぇぇぇ……」

二人のやり取りにため息を吐き、葵は荒刀海彦に向かってただ一言。

「やり過ぎないようにね……」

とだけ呟いた。











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