平安陰陽騒龍記 第三章









19









「子がいなくても母親としてありたいと思う事があるか?」

鼠の提案を一応採用し、彼の言葉を何十倍にも希釈して葵が問うと、紫苑と弓弦は顔を見合わせた。

場所は、女木邸の一房。先日、葵が泊まり込みで訪れた際に待機のために提供された場所だ。

野駆比古の魂魄を憑かせたために倒れていた葵だが、先に弓弦が用意してくれた神気を含んだ井戸水が効いたのか。意識を失ってから気付くまでの間に、それほど時は経っていなかった。

意識を取り戻したところで葵は隆善達に野駆比古から聞いた事柄を伝え、解決の糸口とするために紫苑達に先の疑問をぶつけた。

紫苑と弓弦はしばらく考えていたが、やがて各々「うん」と頷いて口を開く。

「無い事は無いかなぁ? 子どもの頃にひいな人形とかで遊んでた時なんかは、真剣に母様になりきろうとしてたし。葵が来たばかりの頃も、人形遊びの事を思い出しながら世話しようと思ってたような気がするよ」

「私は、まるで覚えがございません。紫苑様のように人形遊びをした覚えも薄うございますし……」

二人の答えに、男達は揃って唸った。二人とも違う答えという事は、同じ女性でも人による、という事か。

「まぁ……人による、っていうのは予想できた事だよね」

「……惟幸師匠? 何でそんな落ち着き無さそうな顔になってるんですか?」

『覚えがないところまでは予想していたが、まさか人形遊びをした覚えすら薄いとは……』

「荒刀海彦も、何でいきなり落ち込んでるの……?」

「おーおー、親父どもが娘の回答で動揺してやがる」

隆善がにやにやと笑いながら、女木から供されたと思われる白湯を口に運んだ。流石に、陽も落ちない刻限である上に、葵が倒れた直後で、ついでに怪事を解決するための仕事中。酒とはいかなかったらしい。

それはさておき、惟幸と荒刀海彦の二人が揃って動揺しているのは珍しい。様子を窺うに、惟幸は紫苑に案外女性らしい部分があった事に男親として驚いているようで、荒刀海彦は弓弦があまりに淡白な回答をした事に親として懸念を抱いたようだ。

「ま、これも親に訪れる通過儀礼みたいなもんだ。大人しく受け入れておけよ、惟幸」

盛朝が涼しい顔をして白湯を飲んでいる。動揺している惟幸を見るのが楽しいのか、にやついているのを収める事ができないままに隆善が言った。

「しっかし、天照大神の機屋の機織女か。名前は……稚日女尊(わかひるめのみこと)だったか」

「稚日女尊……? 隆善師匠、ご存知なんですか?」

「一応な。謎の多い神で、詳しい事はわかんねぇままだが」

言いながら隆善は振り向かないまま後ろに手を伸ばす仕草をし、空振りをしたところで舌打ちをした。自邸の隆善が使用している寝殿であれば、手が空振りしたあたりには資料となる書物が山となっているので、その癖だろう。

「天照大神の妹神だとか天照大神自身だとかいう説もあるが、正確なところはわからねぇ。いつの間にやら、健康長寿に商売繁盛、子宝安産に縁結びと、ご利益と名乗れる効果は何でもありの万能神みてぇになっているところがあるな」

「……子宝安産……?」

今回の件に関わりのありそうな言葉に、思わず全員が居住まいを正した。子宝に恵まれるご利益が発生した経緯は不明だが、そのような話になっているのであれば、稚日女尊――件の鬼女は、母になる事に憧れる性分であったと考える事はできないだろうか。

「けどさ、たかよし? 稚日女尊って志摩国だったかに祀られてなかったっけ?」

首を傾げながら惟幸が言うと、隆善は「それなんだよな……」と難しそうに唸った。

「既に祀られている神様が、ふらふら外を出歩いて鬼になったりするもんでおじゃるか?」

「それを今考えてんだろうが。口を挟むな馬鹿栗」

理不尽な隆善の物言いに、栗麿は口をむにむにと動かして不満そうにしながらも黙った。

『……と言うかさ、正体も正確なところがわからないんだろ? だったら、実は二人いて、片方は祀られてて片方は京をふらふらしてる、って考え方もできるんじゃないか?』

『なぁるほど! それだったら、神様が鬼女になっちまってるのにも得心がいきやすねぇ!』

『祀られていると言っても、神の魂魄は宮に縛り付けられているわけではないからな。その気になれば、いつでもどこへでも行ける。昼間は問題の無い神だが、夜になると荒魂と化してあのような鬼女になる……とも考えられるな』

荒刀海彦達の考えを葵が隆善達に伝えると、一同は「ふむ」と唸り、そして頷く。

「そういう考え方もあるか。……っつーか、荒刀海彦と穂跳彦。お前ら一応、神の端くれだろうが。何か知らねぇのか? 稚日女尊について」

『残念ながら、世代が違う』

『オイラも、物ごころついた時にはもう素戔嗚尊による八岐大蛇退治が終わってたぐらいだからなぁ』

二人とも当時の事も稚日女尊についても詳しい事も知らないと言う。当時その近くにいたであろう野駆比古からも、既に詳しい事はわからないと伝えられている状態だ。

「今はこれ以上知る事はできねぇって事か。……まぁ、良い」

少なくとも、これで今後どうするかは考える事ができる。

「あの鬼女は、母親になりたいという欲求が非常に強いみたいだ。つまり、どうにかしない限り子どもを狙い続けるだろうっていう事」

「逆に言やぁ、鬼女の呼びかけに応じちまった子どもの後をつければ、鬼女の許に辿り着けるってわけか」

「……とは言え、見張っていた子どもが都合良く呼び掛けに応じるかはわかりませんしね。まず、その子どももどうやって選ぶか……」

「あ、師匠! いくら実績があるからって、葵を囮にしようとか考えないでくださいよ! これ以上何かあったら、死んでもおかしくないんですから!」

「そうでおじゃる、そうでおじゃる! 瓢谷は時々、血も涙も無い非人道的な事を言い出すから、心配でおじゃる! 瓢谷は師匠である前に葵の保護者なんでおじゃるから、葵の体調を第一に考えてやるべきでおじゃる!」

「言われなくてもそれぐらいは考慮するに決まってんだろ! ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねぇぞ、紫苑と馬鹿栗!」

額に青筋を浮かべながら怒鳴り、隆善はふーっとため息を吐く。それから「あぁ」と何事か思い付いたような顔をした。

「そうだな、たしかに囮は手段として有効そうだ。葵でなくても、ガキはいるしな」

そう言いながら、彼はゆっくりと視線を動かしていく。その目が、紫苑、弓弦、栗麿、惟幸の姿を順々に捉えた。

「え、ボクがやるんですか? 囮を? 弓弦ちゃんも?」

「私は別に構わないのでございますが……」

「なんで麿の事を見るでおじゃるか! 麿は元服して、ちゃあんと出仕もしている大人でおじゃる!」

「たかよしさぁ……一応僕、たかよしと同い年なんだけど。……と言うか、生まれた日で言えば、僕の方が少しだけ年配になるんだけど?」

皆が口々に言うと、隆善の青筋は更に太くなる。葵は、とばっちりを恐れて思わず数歩分後ずさった。

「囮を口走ったのはお前だろうが、紫苑。現時点で、囮を用意する以外に有効な案が出てこねぇんだ。かと言って、確実に囮になれるであろう葵にこれ以上無茶をさせるわけにはいかねぇ。だったら、言いだしっぺ且つ葵の姉弟子のお前が体を張るしかねぇだろ」

特に嫌だと言ったわけでもない紫苑は、隆善の言い分で完全に逃げ場を失った様子だ。

構わないと答えた弓弦に、隆善は特に何も言わない。葵の中で荒刀海彦が何やら騒がしくしているが、これはもう聞き流すほか無いだろうと、葵はため息を吐いた。

正直なところを言うならば、紫苑や弓弦に囮などして欲しくない葵である。……が、たしかに他に案は無い。そして、無茶を重ねたせいで、今の葵には「俺が囮をやりますから」と言う事すらできない状況だ。

葵がもやもやしているうちに、隆善は栗麿を睨み付ける。

「元服してるとか働いてるとか、関係無ぇんだよ。お前の言動のどこが大人だ? あ? ガキよりよっぽどガキじゃねぇか」

吐き捨てるように言うと、隆善は首をぐりんと回して惟幸を見る。呆れ顔の惟幸に、「てめぇもだぞ」と地の底から這いあがってきたかのような声で言う。

「てめぇが京を出奔した理由は何だった? 元服して大人になりたくないから、だっただろうが。どこが大人だ? てめぇでガキのままでいる事を選択してんだから、ガキで間違い無ぇだろうがこの而立超え童が。っつーか、紫苑が囮やるんだから、お前も一緒にやっとけ。いざって時に紫苑を守れるぞ」

痛いところを突かれたらしい惟幸が「む……」と唸ったところで、隆善は勝ち誇った顔をする。

「そういうわけだから、今夜早速決行するぞ。心してかかれよ、クソガキども」

『……何で、そういう煽り方をするこの御仁も充分子どもじゃねぇかって誰も言わねぇんですかい?』

「それを口にしたところで、何も進展しないからね……」

夜具を引き上げて口元を隠し、声を殺して葵は呟いた。

『葵殿……何と言いますか、その……随分と強烈な方がたくさん周囲にいらっしゃるんですね……?』

野駆比古の戸惑うような声が聞こえてきても、葵はただただ、乾いた笑いを発するしかできない。最終的に、更に夜具で口を隠してため息を吐いたのだが、それに気付いた弓弦に体調が悪いものと判断されてしまったらしい。

とにかく今は体を休めろと、夜具の中により深く押し込まれ、これ以上の話し合いには参加せずに眠らざるを得なくなってしまったのだった。










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