平安陰陽騒龍記 第三章









17









布食を厩に綱で繋ぎ、極力暴れないようにする。その正面に葵は坐して、その時を待っていた。

傍らには、何かあってもすぐに対処できるよう、紫苑に弓弦、盛朝が控えている。虎目と栗麿は、今回はできる事が無いだろうという判断から、少し離れて女木の横で待機していた。

葵の中では勿論、何があっても良いように荒刀海彦と穂跳彦、勢輔、ついでに鼠も身構えている。末広比売は、何が起ころうとしているのかよく理解していないのだろう。興味深げに、周りの様子を窺っている。

布食以外の馬は、影響が出ないよう既に別の場所に移されている。あとは、布食に憑いているらしい神霊を布食から離し、葵に降ろすのみ。

布食を挟むようにして坐した隆善と惟幸が、目配せをして頷きあった。二人揃って数珠を掲げ、いつもよりもやや低い声で呪を唱え始める。

二人が一つ唱える度に、辺りの緊張感がいや増していく。空気はぴりぴりと張りつめ、辺りで虫をつついていた雀は異変を察知したのか逃げるように飛び立った。

雀の羽音なぞ微塵も気にかける事無く、隆善と惟幸は唱え続ける。先ほどまで、暴れはせずともそわそわと落ち着きの無かった布食が、次第に動きの数を減らしていった。

布食辺りをきょろきょろと見渡すのを止め、蹄も地を掻かなくなる。目がとろんと閉じられていくのが、遠目にもわかった。

そうして、どれほどの間、隆善と惟幸が唱え続けただろうか。

遂に、その兆候が表れた。

突然、布食がびくりと痙攣する。痙攣したかと思えば、先程までの大人しさが嘘であるかのように、暴れ出す。何度も嘶き、厩に繋がれた綱を引きちぎるのではないかと思われるほどに激しく体を上下させている。

隆善と惟幸は、布食に蹴られるのを躱すように、素早く立ち上がり、そして跳び退る。それと同時に、布食がより一層、強く強く嘶いた。

「来るぞ!」

短く、隆善が叫ぶ。

葵が身構えた、その瞬間。布食の体から、まばゆい光の塊が飛び出した。

布食に憑いていた魂魄だ。やはり神霊だったのか、鼠の魂魄と比べてかなり光が強い。

魂魄は一度上空まで昇ったかと思うと、地上に向けて一直線に突進してくる。かなりの衝撃を覚悟して、葵は魂魄を見詰めた。

そして、魂魄を迎え入れるため、叫ぶ。

「おいで、布食!」

が。

魂魄は葵と布食――馬の中間あたりで動きを止め、それ以上動こうとしない。全員が、「あれ?」という顔で魂魄を見詰めた。

「え、えぇっと……?」

肩透かしを食らった気分で、葵が間抜けな声を発する。

「ど、どうなってるんでおじゃるか……?」

「いつもにゃら、葵が呼べばああいった魂魄はまっすぐに葵の方に向かってくるんだけどにゃー……?」

「……たかよし。僕達、何か間違えたっけ……?」

「出すのには成功してんだろうが。基本的に、魂魄が出てきたら俺達にはどうしようもねぇ。後は、葵に任せるしかねぇだろ」

「……だよねぇ」

隆善と惟幸も、不思議そうな顔をしている。紫苑も、弓弦も、盛朝も。全員が首を傾げて、葵の方を見ている。葵は……かなり居心地が悪そうだ。

『……ひょっとして、なんだけどさぁ』

葵の中で、穂跳彦が呟いた。その声に、葵を初めとした体内住人の魂魄達は一斉に穂跳彦に注目する。

穂跳彦は、「んー……」と軽く唸りながら、言った。

『〝布食〟って、あの馬の名前だろ? 布食の名前で呼んだから、あの魂魄、自分が呼ばれたと認識してないんじゃないか?』

一寸の間、皆、沈黙した。

『……有り得ない……話ではないな』

『あの魂魄の名が何かは存知やせんが、真面目な性格なのかもしれやせんねぇ。〝布食〟はあの馬の名前、自分の名前ではない、と認識していても、おかしくありやせん』

「じゃあ、どうしろって言うのさ……」

頭を抱える葵に、穂跳彦は『まぁまぁ』と言って笑う。

『難しく考えなくても良いんじゃないのか? 〝布食〟じゃない名前がわからないなら、葵が新しく名前をつけちまえば良いんだよ。ほら、オイラや勢輔、すえの名前だって、葵がつけただろ?』

その言葉に、末広比売と勢輔が力強く何度も頷いている。たしかに、名前がわからないなら新しく付けてしまえば良い、というのはあるかもしれない。荒刀海彦も、それが良いと言わんばかりに微かに頷いている。

だが。

葵は、ちら、と鼠の様子を窺った。あの魂魄に新たに名前を付けるのは良いのだが、それでは順番がおかしくなってしまう。

すると、その懊悩を察したのか、鼠は『構いやせん』と笑った。

「葵の旦那は、順番は違えても、最後にはきっちりと約束を果たしてくださるご性分とお見受けしやした。なら、あっしは別に後回しで構いやせんや。まずはあの魂魄に名を与えて、葵の旦那が今現在抱えている問題を解決してくだせぇ。それでも気にかかるってぇんなら、その分じっくり考えて、良い名前をあっしに与えてくだせぇ。ね?」

「うん。……ありがとう」

鼠に礼を言って頷くと、葵は考えた。あの魂魄には、どのような名を与えれば良いだろうか。

今わかっている情報は、あの魂魄は馬の布食に憑いていた事。そして、布食が馬からかけ離れた行動をとったという話は聞いていないので、何となくだがあの魂魄も馬か、もしくはそれに近い動物の魂魄であるような気がする。……となれば、馬を連想しやすいが、馬そのものとは言い難い名前か。

あとは……。

「……ねぇ、あの魂魄……男と女、どっちだと思う……?」

問われて、全員が固まった。そう言えば、名前を付けるのにはその問題もあったな、と誰もが今更認識する。

『……とりあえず、男でも女でもどっちでも通用しそうな名前で呼んで、迎え入れてから性別確認して、ヒコなりヒメなりつければ良いんじゃないか……?』

苦し紛れに、穂跳彦が言った。例えば、穂跳彦なら〝穂跳〟と呼ぶ。憑いたら確認して、男なら〝穂跳彦〟、女なら〝穂跳比売〟という具合に。

葵は「なるほど」と頷き、そしてまた少しだけ考えると、「うん」と再び頷いた。

「決めた」

そう呟くと、仕切り直しと言わんばかりに身構え、そして魂魄に向かって両腕を開く。

「君の名前は野駆だよ! おいで、野駆!」

呼んだ、その時。今度は己の事だと認識できたのだろう。野駆と魂魄が、まっすぐに葵の方へと向かってきた。

己の懐へまっすぐに飛び込んできた魂魄――野駆を、葵は抱きしめるように受け止める。

魂魄が、己の内へ入り込んでくるのがわかる。そして、それと同時に体力や精神力がどんどん削れて失われていくのも。

まず足腰から力が抜け、膝が折れて地に頽れる。一瞬、全身がひやりとしたものを感じた。そこで少しだけ力を取り戻せた気がするので、弓弦が件の神気に満ちた井戸水をかけてくれたのかもしれない。

だが、水から神気を得た事で劇的に状況が変わるわけもなく。何とか最後まで踏ん張り通す事はできたが、魂魄が完全に葵の内へ消えたところで、葵はそのまま倒れてしまう。

弓弦達が駆け寄ってくる足音、己を呼ぶ声。様々な音を聞きながら、葵の意識は次第に遠のいていった。











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