平安陰陽騒龍記 第三章
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再びの女木邸で、葵は布食と対峙し、身構えている。
隆善と惟幸が布食を調べている間、布食が隆善達の衣を食べようとして邪魔しないよう、気を引き付けていなければならない。
先に女木邸を訪れた時、布食は葵の衣ではなく髪を齧った。その時は女木曰く、珍しい事だ、で済んだ話だったが。
「他の奴は布を食われるのに、葵は髪を食われた。そんだけその馬が葵の事を気に入ったか馬鹿にしてるかのどっちかだろうとは思ったが、神霊に関わりがあるんなら話は早い。憑代の才を持つ葵は、神霊達にとって居心地の良い存在らしいからな」
だから、そこに葵がいれば、布食は十中八九、葵の事を気にかける。隆善達が近付いても、被害を受ける事は無いだろう。だから調査の間、布食の気を引きつけろ。
これが、葵が事前に隆善から受けた指示である。隆善の読みは大当たりで、先程から布食は葵の方にじりじりと近寄ってくるばかりで、もっと近くにいる惟幸にも隆善にも全く興味を示さない。葵の近くで待機している虎目、弓弦、紫苑に盛朝、おまけに栗麿も同様だ。
「あの後、葵君が妖の手にかかって寝込んだと伝え聞いた時には心配したよ。けど、無事みたいで本当に良かった」
興味本位で見学をしている女木は、葵達の邪魔にならない場所からさらりと声をかけた。そして、先程葵から礼と共に返された水干の包みを見る。
「そのまま貰ってくれても良かったんだけど。流石、瓢谷殿の身内は律儀だね」
声がどこかうずうずしているのが心底怖い、と葵は心の内で密かに思った。この後女木の口からどんな言葉が飛び出してくるのか、何となく予想がついた。
「良かったら、この後また何枚か着てみないかい? 折角だから、紫苑の君と弓弦の君も」
「勘弁してください」
「お断りいたします」
「興味はあるけど、今日はそういう気分じゃないのでお気持ちだけで」
三者三様の断り文句に、女木は気を悪くするでもなく「おや」と笑っている。傍で栗麿が挙手をしたそうにしているが、残念ながら女木の眼中には無いらしい。
そうこうしているうちに、隆善と惟幸が調べを終えたのか、葵達の許へとやってくる。ちなみに、未だに葵と布食は真正面から対峙したままである。
「……たしかに、この馬。何か憑いてるな」
「うん。悪いものではなさそうだけどね。……何となく、だけど。勢輔に雰囲気が似てるんじゃないかな?」
突然名を出されて、葵の内にいる勢輔はきょとんとしている。
「勢輔に似ているというのは……?」
「ほら、勢輔が葵に憑く前。僕、まだ正体不明だった勢輔の事を、生まれたてみたいだって言ったよね? あの時と、似たような雰囲気を感じるんだよ」
惟幸の言に、一同は「ふむ……」と考え込む。
「……という事は、この馬に憑いている霊はまだ子ども、という事でおじゃるか?」
「その可能性は高いんじゃないかな?」
「子ども……ここでも、子どもか……」
唸るように、隆善が言った。
「子どもを狙う鬼女、鬼女が呼びかけると聞こえる馬の嘶き、神霊が憑いているかもしれない馬に、その神霊は子どもかもしれないとは……これは、偶然なのでございましょうか……?」
「偶然……と言うには、ちょっと関連性があり過ぎだよね……」
考えても、埒が明かない。隆善が、後頭部を掻きながら深い溜め息を吐いた。
「……やりたかねぇが、このままにしておくわけにもいかねぇか」
「……隆善師匠?」
布食に対する警戒を解かないまま、葵が怪訝な顔をする。それを一瞥すると、隆善は女木に視線を向けた。
「女木、人が一人横になって数刻……ひょっとしたら数日休む場所を今すぐ用意できるか?」
「それは可能だけれど……何か危険な事をするのかい?」
訝しげな顔をする女木に、隆善は「あー……」と言葉にならない声を発した。説明するための言葉を探しているようだ。
惟幸は、隆善の意図に気付いているのだろう。渋面を作って、ため息を吐いている。
「葵」
呼ばれて、葵は気を引き締めた。これまでの流れから、葵も隆善が何をしようとしているのか、何となく察している。
「布食に憑いている神霊を引っぺがしてみる。それをお前に憑けて、話を聞き出せるか?」
途端に、紫苑、弓弦、虎目に栗麿、盛朝が顔を顰めた。
「師匠、それに父様も! それ、本気で言ってるんですか?」
「霊を呼び込めば、葵様のお体に負担がかかるのでございますよ? つい昨日まで臥せっていたというのに、ここで憑代の才を使っては、次はどれほど寝込む事になるか……」
「隆善、惟幸も忘れてにゃーか? 鬼女は、葵の事も狙ってるにゃ。これ以上葵を消耗させて、抵抗する力を減らすのは……」
「あんまり葵ばかりに負担をかけるのは良くないでおじゃる! 瓢谷は、自分の弟子が可愛くないでおじゃるか!?」
やいのやいのと言い募る紫苑達を、隆善はぎろりとひと睨みした。それだけで、弓弦以外の全員が一瞬怯む。
「じゃあ、どうしろってんだ? 今のままじゃあ、どうすりゃこの怪事を解決できるのかお手上げ状態。少しでも情報が欲しいところだ。このまま怪事が広がってみろ。葵がぶっ倒れるぐらいじゃ解決できなくなるかもしれねぇぞ。そもそも虎目、お前が言うように、鬼女は葵の事も狙ってるだろうな。戦った分、印象にも残ってるだろうよ。……早く解決しねぇと、葵も狙われたままなんだが?」
一同が黙ったところで、隆善はまた深い溜め息を吐く。
「でなきゃ、誰がてめぇの弟子が倒れるような案を積極的に出すかよ。文句があんなら、代案を出せ、代案を」
この言葉にはもう、弓弦すらも反論ができずにいる。葵に負担がかかるのは本意ではないが、それ以外に今回の件を解決する糸口を掴む方法を思い付かないというのもまたたしかなのだろう。盛朝が、難しそうな顔をしながら惟幸を見た。
「……本当に、他に方法は無いのか、惟幸?」
「今の時点ではね。向こうが動けば、何か情報を得る事はできるかもしれないけど……結局それは、後手に回る事になるからさ。できるなら、こちらから仕掛けるなり、迎え撃つ策を立てるなり、しておきたいところだよね」
そう言って、もう一度ため息を吐いて。惟幸は葵に向き直った。
「……そういうわけなんだけど……どうする、葵? この方法は、どうしても葵に負担をかけてしまうから、葵が無理だと思うのであれば僕もたかよしも、無理強いをしたりはしないけど……」
「……やります」
ほとんど考える事無く――しかし、一応少しだけは考えて、葵は答えた。その顔に、迷いは無い。
「早く解決しなければいけないというのは、本当にそうですし。いなくなった子ども達も、早く帰してあげたいし、それに……あの女の人も、このまま放っておいても良いようには思えませんし……」
隆善に理論で言い返す事ができない上に、もっとも負担がかかる事になる葵がこう言っているのでは、周りはもう止めようが無い。渋面を作って頷き、そして葵に「無理だけはするな」と強く言い聞かせた。
決して、無理はしない。体への負担が強過ぎると感じたら、音を上げる。それを葵が約束したところで、隆善は葵の頭をぽん、と撫でた。
「今回ばかりは、本当に悪いと思ってる。……悪いな、お前にばかり負担をかけちまって」
「隆善師匠……?」
「たかよしはたかよしで、心配してるんだよ。ああ見えて、いつでも葵の事を一番心配してるのはたかよしだからね」
葵に近付いてきた惟幸が苦笑しながら言った。そして、そのまま突然、素早く印を切って結界を張る。ばちん、という音と共に、攻撃用の呪符か式神か何かであったろう焦げた紙がひらひらと地に落ちる。
「憶測で余計な事口走ってんじゃねぇぞ、この而立超え童!」
「あのさぁ、いくら照れ隠ししたいからって、予告なく人に向かって式神をぶつけてくる事はないんじゃないの?」
呆れた口調で肩を竦める惟幸に、隆善は「うるせぇ!」とだけ怒鳴り付けた。惟幸の言葉を信じるなら、これもまた、葵を案じている、と言われた事への照れ隠しだろうか。
「とにかく、決めたからにはとっとと準備するぞ。……弓弦。念のため、例の井戸から水を汲んできてくれるか? いざとなったら、あの水で葵に神気の補充をさせる」
「かしこまりました」
頷き、弓弦は即座に邸の敷地から外へと飛び出ていく。あれではあまりに不自然だと、慌てて盛朝が後を追った。これなら辛うじて、どこかへ使いに行く女童と下男に見えなくもない。
「……いや、流石にそうは見えないと思うんだけど……。と言うか、水汲みに単を着た女童が行くってだけで不自然なんじゃない……?」
苦笑しながら、紫苑が辺りを見渡し始めた。
「とりあえず、少しでも負担を減らすためには身を清めといた方が良いよね。弓弦ちゃんが汲みに行った水はいざという時に使う物だから、今はここの井戸を借りるとして……井戸……井戸……」
「あ、それだったらあっちに……」
既に井戸を借りた事がある葵が思わず、井戸のある方角へと体を向けて指差した。その瞬間、「隙有り」と言わんばかりに布食が葵に突進し、その髪をむさぼり始める。
「ちょっ! 布食、やめ! うわぁぁぁぁぁっ!」
布食に頭を齧られる様子に、周囲の者達が慌てて引き離しにかかる。頭がまたも布食のよだれでどろどろになった葵は、情けなさそうな顔をしながら紫苑に向かい、井戸を指差した。
「……洗いがてら、ご案内します……」
「あー……うん、お願い……」
「……って言うか、葵が直に行くんだったら、紫苑が行く意味無いんじゃにゃーか……?」
井戸に向かう二人を眺めながら、虎目がぽつりと呟く。そして、すぐ近くで女木が何かに期待するように目を輝かせている事に気付いて、彼は大きなため息を一つ、吐いたのだった。