平安陰陽騒龍記 第三章









15









白い、白い。霧と光が混ざり合ったような白い空間で、葵は目を開けた。

葵の体に宿っている魂達が集う場。邸のような場所だと皆は認識しているが、実際に柱や屋根があるわけではない。

ただ、何となく葵の体を邸と見立て、この体の本来の持主である葵を主人としている。

意識が表に出るのは、邸でいうところの寝殿。邸の主人が坐する場所……と言える場所だと感じる事ができる位置があり、そこを陣取っている者が体を使い、隆善達のような他者と言葉を交わす事ができるのだ。

例えば、荒刀海彦が葵に代わりその位置に着けば、葵の体は荒刀海彦の特徴である龍の腕と瞳を持ち、竜宮の武士である荒刀海彦の力を使う事ができる。これが、葵の特殊な能力――人はこれを、憑代の才、と呼ぶ。

葵の体で好き勝手する事ができる、魂魄達にとっては夢のような能力だが、そこにいるのは当然のごとく大抵葵であり、それに他の魂魄達が反発するような事態は今のところ起こっていない。

ただし、葵がその主人の位置にいる時、他の魂魄達が足や手をそっと差し込む事は可能である。そうすると、表に出ている意識は葵のままながら、ほんの少しだけ力が強くなったりする。

そんな、不思議な場所。これが、葵の精神世界であり、魂魄達が集う場所である。そこで葵は、ゆっくりと辺りを見渡した。

荒刀海彦がいる。末広比売に、穂跳彦。それに、勢輔。今まで葵と共に過ごしてきた魂魄達は、全員揃っていて、静かに葵の様子を窺っている。

そして、見慣れた魂魄達の中に、見慣れない姿の魂魄が一つ。どう接するべきなのか決めかねているらしく、先住の魂魄達もちらちらと気にしつつ、話し掛けた様子が無い。

葵が、この新しい魂魄と向き合うのか。それを見てから決めようという事なのだろう。この体の主は、葵なのだから。

荒刀海彦達の意外な律義さに内心少々驚きながら、葵は新しい――女木邸にいた鼠の魂魄と顔を合わせた。

背が低い。葵と同じか、それよりも少し低いぐらいだ。葵は同年代の中では高くも低くもない背丈だと思うのだが、それより低いかもしれないと思うという事は、背が低いと認識して良いだろう。

それに、この鼠……背こそ低いが、顔は大人のものだ。而立まではいかないだろうが、二十路は超えていそうである。勿論、人間に換算して、だ。鼠なのだから、実際の年齢はもっと若いだろう。

葵の目の前で命を落とし魂魄が抜け出たのだから、若く見えるが何百歳の神霊、という事もない。

衣は直垂。括袴に、被り物はせず頭の上で短い髪を無理矢理括っている。そして、素足。目はこげ茶色で、髪は黒い。一見すると、市で物を売っている商人のようだ。

「……あの……」

まずは礼を、そして侘びを言わなければならない。

この鼠のお陰で、葵は助かった。そして、そのためにこの鼠は命を落とした。

ありがとう、そして、ごめんなさい。そう言おうと、葵が口を開きかけた時だ。

「旦那、まずはお礼を。あの猫に捕まった時、あっしを助けて頂き、ありがとうございやした!」

先を越されてしまった。言葉を発する切っ掛けを失ってしまった葵をよそに、鼠はどんどん言葉を発してくる。

「いやぁ、ね。あの時は、本当に怖かったんでさぁ。生きた心地がしなくて、びくびくしてて。あん時、旦那があの猫を窘めてくれたお陰で、あっしは命拾いをいたしやした! もう、ね。あの時思いやしたよ! この旦那のためなら、命を懸けても惜しくねぇってね!」

折角命を助けたのに、そのために命を懸けても良いなどと思われるのは少々……いや、かなり複雑である。しかも、この鼠の場合、本当に葵のために命を落としてしまっている。

何か言いたげな葵に、鼠は「あぁ!」と一人で合点する。

「もしかして旦那、あっしが旦那のために命を落とした事を気に病んでおいでですかい? いやいやいや、気にしないでくだせぇ! あっしは鼠で、旦那みてぇな人間と比べると、残る命はどうせあと僅かでござんした。どうせ先が短いのなら、最期にひと花咲かせて逝きてぇと常々思っていたところだったんでさぁ。だから、旦那が気に病む事なんざひとっつもありはしませんぜ!」

「は、はぁ……」

一気にまくし立てられ、重いはずの話を軽く言われて、葵はただ曖昧に頷く事しかできない。背後では荒刀海彦達が

「安全という意味では大丈夫そうだが、違う意味で大丈夫かこいつ」

とでも言いたげな顔をしている。

「えぇっと……とりあえず、話をする前に自己紹介をしようか? 俺は……」

「葵、でしたね。お嫌でなければ、葵の旦那と呼ばせてくだせぇ、葵の旦那!」

拒否しても継続して呼び続けそうである。そこまで嫌悪感は抱かないので、そのまま呼ばせる事にした。

「それで、君の名前は……」

「あっしの名前ですかい? あぁ、旦那。そりゃあ教えられねぇ。何せ、あっしには名前が無ぇ。鼠は次々に生まれては巣立って、人間の感覚で言やぁすぐに死ぬ。親も一々子どもに名前を付けたりはしませんや。ですから、あっしの事は葵の旦那のお好きなように呼んでくだせぇ!」

「……さり気無く、名前を付けてくれって要求してないか、この鼠……」

呆れた顔で穂跳彦が言えば、荒刀海彦もやはり呆れた顔で頷いている。末広比売は面白そうに鼠の事を見ているが、勢輔は人見知り故か、鼠の調子に気圧されてか、荒刀海彦の後ろに隠れてしまっている。……とは言え、勢輔の方が体が大きい。隠れても、隠れ切れていない。

「えっと……名前の件は思い付くまで保留にさせてもらうとして……」

葵は、何とかそれだけの言葉を絞り出した。実際問題、この鼠に合う名前をそうそう簡単に思い付けるわけではない。合っていて、尚且つ悪い印象を抱かない、できれば良い印象を抱く名前。そんな名付けをするためには、葵はまだこの鼠の事を知らな過ぎる。

「悪いんだけど、いくつか話を聞かせてくれないかな? 君の事とか、あの夜の事とか……」

「そうだな……まず、お前は何者だ? 葵に何が起こっているのかを正確に理解し、あの邸から化野まで一匹で遅れる事無く追い付き、鬼女に抗うとは……ただの鼠にできるとは思えん。まず、葵が呼んだとはいえ、ただの鼠の魂魄が葵に憑く事ができるのかという事も疑問だ」

「そうだねぇ……その辺の野良鼠の魂魄でも憑く事ができる、なんて事になったら、いくら葵が憑代の才を持ってても大変な事になりそうだもんな。人間含め、どんな動物でも毎日幾らかは死んでる。迷ってる魂魄なんて、普段見えないだけでそこらにうようよいるんだ。今までそれらに憑かれた事が無いって事は、葵に憑く事ができる魂魄とできない魂魄がいるって考える方が自然だよな」

荒刀海彦と穂跳彦が、一歩前に進み出して問い、またそれを問う理由を述べた。

「今ここにいる面々の出自を考えると、憑く事ができる条件は神霊、もしくは神にゆかりのある者。そう考えるのが妥当だ」

「あと、こう言っちゃ悪いけどさ。鼠ってどっちかって言うと、あんまり知性とか無い方だと思うんだよな。けど、あんたはそうじゃなさそうだ。最期にひと花咲かせたいだとか、考え方もどうも普通の鼠らしくない」

詰寄るように言う荒刀海彦と穂跳彦に、鼠は「あー……」と唸りながら頭を掻いた。そして、苦笑しながら「まぁまぁ」と言う。

「兄さん方、そう怖い顔をせんでくだせぇよ。兄さん方が知りたいって仰るなら、ちゃんとお話ししやすから」

そう言って、鼠はおほんと咳払いをする。

「神にゆかりがある者……っていやぁ、そうなのかもしれやせん。あっしの先祖はその昔、あの大国主神のために炎の中、鏑矢を探した鼠……そう、曾爺さんに聞いておりやす」

大国主神が須勢理毘売命と婚姻を結び、須勢理毘売命の父親である素戔鳴尊に挨拶に行った時の事。

大国主神の事を気に入らなかった素戔鳴尊は大国主神に対して嫌がらせの域を超える命令をいくつも下したのだが、そのうちの一つに〝燃え盛る野に放った鏑矢を見付けて来い〟というものがあった。

大国主神が、素戔嗚尊が野に放った鏑矢を探しているうちに、素戔嗚尊が野に火を放ったのだ。大国主神の命もここまで、煙に巻かれ、炎に焼かれて死んでしまうのだろうかと思った、その時。

鼠が現れて、炎から身を隠せる場所を大国主神に教えてくれた。そして、大国主神が炎をやり過ごしているうちに、その鼠は件の鏑矢を探してきてくれた。

こうして大国主神は、命を落とす事無く、素戔嗚尊に課せられた試練を乗り越える事ができた、という事である。

「その末裔が、お前だと?」

「そういう風に聞いておりやす。……とは言え、鼠の寿命は短く、そして繁殖力は人間のそれとは比べ物になりやせん。素戔嗚尊と縁を結んだ鼠からあっしまで、一体何代を経ているのか考えたくもございやせんし、あっしを含めた末裔が何万匹この世に存在するのかも、考えるだけ馬鹿馬鹿しい話でございやさぁ」

ただ、と鼠は言った。

「そんな中、あっしが葵の旦那とえにしを結ぶ事ができたって事は、あっしにそれだけの何かがあったって事なんでございやしょう。ひょっとしたらあっしの近くに、本当の神霊がいたのかもしれやせんね。その影響を受けて、あっしがこうなった、と考える事はできると思いやすよ」

その説明に、荒刀海彦と穂跳彦は「ふむ……」と唸った。有り得ない話ではない。そういう事なのだろう。

「まぁ……あっしにそういう影響を与えた存在っつったら、多分あいつでしょうねぇ。あの馬」

「馬?」

一同が、ぎくりと身を強張らせた。あの鬼女が呼ぶ声が聞こえた時、葵には馬の嘶きが同時に聞こえた。まだちゃんと話を聞けていないが、恐らく末広比売と勢輔もそうだったろう。これまでの経緯から、馬、と聞くとどうしても警戒してしまう。

「そうそう。葵の旦那があっしを助けてくだすった、あの邸。あそこにいたでしょう? 布食って名前の、妙に布を食いたがる馬が」

その名に、葵達は顔を見合わせる。布を好んで食べるという話だの、葵の髪を齧るだの、とにかく最も印象に残っている馬である。あの馬が、神霊に関わりがあると?

「あの馬が、あの邸に来てから。あれぐらいの頃から、あっしの頭が妙に冴えるようになったような気がするんでさぁ。神霊に関わりがあるとしたら、まず間違いなくあの馬だと思いやすぜ」

鼠の言葉に、一同は顔を見合わせる。元からそのつもりであったが、これで皆は確信した。

あの馬には、何かがある。













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