平安陰陽騒龍記 第三章









14









次に葵が目を覚ました時には、栗麿の件に関しては全て片が付いていた。予想していたよりも栗麿の被害は少なそうだな、と思ったのだが、それにしては栗麿が神妙にしている。

「この馬鹿が出した鬼が慮外に面倒にゃ相手だったらしくて、戻ってきた惟幸の機嫌が悪くてにゃー」

「……説教、されたんだね。機嫌が悪くなった惟幸師匠に……」

そう言えば、夜中に葵を助けにきてくれて、目覚めるまで付き添っていてくれた事から考えて、惟幸と盛朝は昨夜からほとんど睡眠をとれていないはずである。睡眠不足になると機嫌が悪くなる師の事を考えると、この流れも致し方なし……なのだろうか?

だが、いくら機嫌が悪くても、普段惟幸が紫苑と葵、隆善以外に説教をかます事などまず無い事だ。なのに説教されるとは、一体どれほど厄介な鬼だったのだろうか。本当に、栗麿には陰陽師としての素質があるのか無いのか、判然としない。

「さて……予想外に時を費やしたからな。葵も起きた事だし、今度こそ本題に入るぞ」

本当に、どれほどの時を費やしただろうか。葵が最初に目を覚ました時には昼ではあるが辛うじて朝とも呼べる刻限だったと思うのだが、既に陽は高く昇っており、とてもではないが朝と呼べるような空ではない。

じっとしていると微かに汗がにじんでくる初夏の陽気を浴びながら、葵と虎目は改めて何が起こったのかを語った。

馬の嘶きが聞こえ、女木の元へ駆け付けたら女木邸で働く子どもが外へ出ていってしまった事。追っているうちに京の北西に辿り着き、引き返そうとするも、葵だけに再び馬の嘶きが聞こえた途端、葵の様子がおかしくなった事。

葵だけでなく、末広比売と勢輔の様子もおかしくなった。そして葵は、葵にしか聞こえない呼び声に逆らえず、化野まで歩いていってしまった事。そこに女がいた事。その女は、昼間に女木邸にいた女であったという事。

何があったのか急に葵が目覚めた事。女が鬼女へと転じた事。

そして、鬼女が己の事を母と呼び。葵を初めとする子ども達を坊やと呼び。まるで母が子を慈しむかのような言動をいくつも見せた事。

そして、戦闘の末に葵が鼠の魂魄を取り込み、その後惟幸達が助けに来たところまでを話し終わると、一同は揃って難しそうに唸り声を発した。

「わかんねぇ部分が多過ぎるな」

「馬の嘶きが、最初のは化け猫にも聞こえて、その後は葵にしか聞こえなかったのは何ででおじゃる?」

「相手は子どもを集めているみたいだったから、その術に葵がかかって虎目がかからなかったのはわかるよ? けど、だったら何で、あの鬼からは姿が見えない末広比売と勢輔までおかしくなったんだろうね……?」

「いや、そもそも葵も他の子ども達も、皆連れ去られたんじゃなくて化野まで呼ばれたんだろう? なら、あの鬼女も京の中で子どもかそうじゃないかを選別したわけじゃない。子どもに直接かける術じゃなくって、術をかけた範囲にいる子どもがおかしくなる……とは考えられないか?」

「そうだとして、体が無く魂魄にも有効な術だとしても、だ。何で末広比売と勢輔なんだ? 穂跳彦もどっちかっていやぁまだガキだろうか」

「……と言うかさ、何で葵は目を覚ます事ができたんだろうね?」

「お話しを伺う限り、特に葵様にかけられた術が解けるような特殊な出来事はなかったように思われるのでございますが……」

各々が思った事を口にするが、それだけでは話が進展しない。

その状況を打開するためだろうか。葵の目が赤色になり、穂跳彦が主導権を握った体の口が開かれた。

「一つずつ解決していくしかないんじゃないか? とりあえず、一つ。何ですえと勢輔だけで、オイラはおかしくならなかったのか……ってのは、オイラが答えを出せるけど?」

『そうなの?』

体の内で葵が目を丸くし、取り囲む隆善達も目を瞠った。その様子に、穂跳彦は葵の顔で苦笑する。

『何せ、オイラ自身の事だし。……で、答えは簡単。オイラ、見た目や言動ほど子どもじゃあないつもりだよ。大国主神と出会った時、オイラは既に独り立ちして、好き勝手に暮らしてたわけだし』

そう言って、穂跳彦は、ぴ、と右手の人差し指を立てて見せた。

「思うに、子どもかそうじゃないかの判断は、その心が母親の愛情を求めてるかどうか、なんじゃないか? すえは葵を父親って呼んでるけど、母親役はいない。勢輔は、体は大きいけど心は生まれたばかりの子ども同然。葵も、ここにいる全員に愛されてるけど、〝母親の愛情〟に触れた事は実は少ない。……だろ?」

『ちょっと、穂跳彦……!』

内にいる葵があからさまに焦りの気配を発しているが、穂跳彦はまるで気にする様子が無い。

「その仮説に反論できるだけの材料は無ぇな。……で、穂跳彦? 他の件についてはどうだ? お前と荒刀海彦は、様子がおかしくなった葵の中でずっと何が起きているかを見ていたろう? 何か、思い付く事は無いのか?」

「うーん……」

少し考えてから、穂跳彦は「あ」と声を発した。

「馬の嘶きが葵にしか聞こえなかったり、他の奴にも聞こえたりって奴? あれ、オイラも最初の嘶きは聞こえたんだけどさ。最初の嘶きは、本物の馬だったんじゃないのか? あの邸、馬飼ってたし」

なるほど、と虎目が頷いた。

「たしかに、いたにゃ。そう言えば、布食って仔馬が、妙に葵の事を気に入ってたにゃー」

「布食?」

「変わった名前でございますね?」

紫苑と弓弦が目を瞬かせているうちに、葵の目の色が赤から黒へと戻った。主導権が葵に戻されたのだ。

そして、主導権を戻された葵は……渋面を作っている。彼のこのような顔は、珍しいと言えるだろう。

「葵?」

「どうしたのでございますか?」

「……うん、いたね……。布食……うん、そんな名前だったね……」

ぶつぶつと呟くその様子に、一同は首を傾げる。そんな中、虎目だけがにやにやと笑っていた。

「葵、布食に会ってから散々にゃ目に遭ったもんにゃー。髪を食べられてよだれででろでろにされるわ、井戸で水被って衣がぐしょ濡れににゃるわ、挙句に女木に着せ替え人形にされるわ……」

「虎目ぇぇぇっ!」

葵がこれまた珍しく声を荒げたが、誰もそこに驚かない。……どころか、虎目の言葉に興味津々という顔をしている。

「着せ替え人形って何の話? 虎目、そこちょっと詳しく聞かせてくれる?」

「そう言えば、戻られた時の葵様は、いつもとまるで違う髪の結い方をされておられましたね」

「そうそう! びっくりしたよね! あんな髪形してたのもそうだけど、それ以上に。葵の髪をあそこまで綺麗に結える人がいるとは思わなかったもん!」

「そこかよ。……まぁ、紫苑はガキの頃、葵の髪形で何度も遊ぼうとして挫折してたしな」

「ちょっと、たかよし。その話詳しく聞かせてくれる?」

すっかり忘れてくれていたらしいのに、思い出してしまったらしい。そして、何故か妙な盛り上がりを見せている。何となくこうなる予感がしていた葵は、顔を覆って夜具に突っ伏す以外に無い。

「……という事は、でおじゃるよ。女木少輔の邸に行けば、こう……意中の姫君の気を引く事ができる、最高の着こなしを伝授してもらえる可能性があるでおじゃるか!」

盛り上がりに乗り遅れたらしい栗麿が、目を輝かせながらそう言った。途端に、紫苑と弓弦の目が冷たくなる。

「初めからそれ目当てで訪ねるって、どうなのさ……」

「先方に迷惑がかかるだけなのでは? まず、栗麿めは見た目よりも中身を整えるべきかと思うのでございますが」

一気に、場が盛り下がっていく。しかし、己への矛先が逸れて葵自身は密かに安堵していた。

「まぁ……女木の邸にはもう一度行く必要があるからな。丁度良い。その時に馬の様子を見てみるか」

隆善の言葉に、葵は「え」と短く言葉を発する。すると、隆善は呆れた顔で「あのな」と言った。

「今回この話を持ってきたのは、女木だ。それに、あいつの邸の子どもも消えてんだろ? なら、こっちには経過を報告する義務がある。……っつーか、葵。お前、女木の邸で水干を借りたままだろうが。ってか、借りたって事は、お前が着てた水干はまだ向こうだろうが。交換してこい。女木から借りた水干は弓弦が手入れしてやってたから、借りた当人であるお前が返しに行け、お前が。さっき言った通り、俺も様子を見に行ってやるから」

「ですよね……」

布食に再び齧られる可能性と、女木がまた着せ替えさせたがる可能性を思い、葵はがくりと項垂れた。それに追撃するように、隆善は言う。

「あと、お前何か隠してるだろ?」

「……はい?」

ぎくりとした顔で、葵は顔を上げる。それが、まずかった。隠し事をしていると言ったようなものだ。

そんな葵を軽く睨み付け、隆善はやや深い溜め息を吐く。

「ここからは俺の勘だが……。様子がおかしくなったガキどもの中で、葵だけが自力で正気を取り戻した。……葵、お前この理由、自分で察してるだろ?」

「えっと……」

「理由がわかってんなら、さっさと吐け。それが解決の糸口になるかもしれねぇし、解決すればそれで女木との関わりは終いだぞ」

そう言われて、葵は「う……」と呻いた。着せ替えされたのがよっぽど堪えたらしい。それに、早く解決すればその分だけ、子ども達が親の許へ帰ってくる。帝が同じようにいなくなってしまうかもしれない、という内裏の不安も消える。

「……その……」

躊躇いながらも、葵は口を開いた。

「撫で方が、何か違うな……って思ったんです」

「撫で方だぁ?」

隆善が怪訝な顔をすると、葵はこくりと無言で頷く。

「あの女の人が俺の頭を撫でた時、違和感があったんです。俺はあの人の事を術か何かの影響で母親みたいに感じていたんですけど、何て言うか……母親の撫で方じゃないな、って」

その発言に、一同は増々不可解と言いたげな顔をする。葵の中にいる荒刀海彦達もだ。それは、そうだろう。葵には幼い頃の――隆善達と出会う前の記憶が無く、当然と言うべきか親の記憶も無い。それなのに、母親の撫で方ではないとわかるとは?

「えっと、ですね……」

言い辛そうにもごもごと口を動かしながら、葵は言葉を探している。

「師匠達とか紫苑姉さんとか、昔から結構よく頭を撫でてくれてたじゃないですか。その時、いつもすごくあったかい感じがするんですよ。けど、あの時は……冷たいとか、そういうわけじゃなかったんですけど……」

けど、何かが違った。母親が子を慈しむ撫で方ではなく、あの鬼女が、自分が母親として振舞っている事を楽しんでいるようだった。

無意識であったとはいえ、母親の愛情に飢えているからこそ。そして、母親の愛情には飢えていても、隆善達のお陰で愛情自体には飢えずに済んでいたからこそ。葵には、それが感じられた。

それらを、ぼそぼそと聞き取れるか否かの声量で顔を真っ赤にしながら葵は言う。そんな様子の葵に、一同は顔を見合わせるとにやりと笑い、一斉に葵の頭を撫で始めた。六人と一匹に代わる代わる撫でられて、元々ぼさぼさだった葵の髪は更にその激しさを増していく。

葵は「ちょっ、待っ……」と言いながらも、どこか顔を嬉しそうに綻ばせている。くすぐったそうな顔だ。

あぁ、これだ。と、葵は思う。

あの鬼女ほど優しい手付きではないが、暖かくて、自分の事を想ってくれているのが伝わってくる手。その手が、口に出さずとも言っていた。

よく無事に帰ってきてくれた、と。

それを感じ取った時、葵の目からぽろりと、何かがこぼれた。それに気付いた者達は皆、ぎょっとして手を止める。

「あ、あれ……? どうして……あれ……?」

目からこぼれたそれは、止まる事無く次から次へとあふれ出てくる。暖かくてしょっぱいそれを手の甲で拭い取りながら、葵は「あれ?」と言い続ける事しかできない。

平気な、つもりだったのだ。

記憶が無くても、親がいなくても。隆善達がいるから平気だと、思っていた。

それなのに、あの鬼女に呼ばれた時……抗う事も無く、その呼び声に従った。それで、自覚してしまったのだ。

本当は、平気じゃない。隆善達がいてくれても、やはり実の親に会いたい、母親に甘えてみたい、と。

心の奥では寂しがっていた事がわかって。鬼女の術にかけられた事で母親の許へ行けると錯覚して期待して、術が解けてその期待は裏切られた。期待が裏切られたら、余計に寂しさが増してしまって。

その寂しさのせいで、今、葵の目からは大粒の涙が幾粒もこぼれ出ている。そして、周りは理由を説明されずとも、それを察した。

惟幸が、手慣れた様子で葵を抱き寄せてやる。その頭を隆善が再び雑に撫で、その横では栗麿がどうするべきか困っているのか、珍妙な動きを見せている。その様子に、盛朝が苦笑していた。

そして。

「……どんな理由があろうともさぁ……ボクの弟を泣かせて良い理由にはならないよね……?」

「お話しを伺う限り、その鬼女に悪意は無いようでございますが……結果として葵様の心の傷を深くしたのは許し難うございますね」

紫苑と弓弦が立ち上がり、いつに無く低い声で呟き頷きあっている。今からでも女木邸や右京、果ては化野まで足を延ばして件の鬼女を探し当て、八つ裂きにせんばかりの顔付きだ。

その様子に、虎目は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまっている。

「葵……お前、どうやらとんでもねぇ封印を解いちまったらしいぞ」

呆れた様子で、隆善がため息を吐いた。まさか、葵が泣くだけで紫苑と弓弦がここまで凶悪な顔をするとは思いもよらなかったのだろう。

静かに怒る二人の様子には、葵も動揺を隠せない。涙も引っ込み、泣いた事で赤く腫れた目を見開いて二人を呆然と見詰めている他無い。

そんな葵に、惟幸が苦笑しながら言う。

「今声をかけても火に油を注ぐだけだろうから二人には存分に怒らせておくとして。……葵、たしか化野で意識を失う直前に、鼠の魂魄を迎え入れたんだったよね?」

「え? あ、はい」

頷く葵に、惟幸は頷き返した。そうだ、すっかり忘れていたが、たしかに意識を失う直前に新たな魂魄を迎え入れている。

「女木少輔の邸に行く前に、まずはもう一度しっかり寝て体力を取り戻しておかないとね。その間に、迎え入れた鼠と話をしてみると良い。虎目の話を聞く限り、女木少輔の邸にいた鼠みたいだし……何か知っているかもしれないよ?」

そう言うと、惟幸は葵に横になるように促す。葵が素直に頷いて横になると、あれほど寝たと言うのにまた眠気が襲ってくる。

この眠りでは、新たに迎えた魂魄と、体内に元から住まう魂魄達と、語らう事はできるだろうか。うとうととそんな事を考えているうちに、やがて葵は、三度深い眠りに落ちた。











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