平安陰陽騒龍記 第三章









11









馬の嘶きが聞こえた時、葵には嘶きとは別の声も聞こえていた。早く来なさい、こちらへおいで、と。

優しい声が、嘶きの向こう側に聞こえた気がした。そして、その声の元へ行きたいと、無性に思った。

あの声の元へ行って、甘えたい、抱き締められたい、今までにあった事をたくさん話したい。そんな衝動に突き動かされて、葵は無心に足を運んだ。虎目が制止する声が聞こえた気がしたが、それもすぐに気にならなくなってしまうほど、声の主の元へ行きたかった。

その声が、あまりにも優しかったから。

あまりにも、己が思い描く母親像に近かったから。

己は恵まれている、と、葵は常々自分に言い聞かせているし、実際そう思っている。二人の師匠は時に厳しく、時に優しく接してくれる。血は繋がっていないが、実の姉のような紫苑もいる。虎目や栗麿といった楽しい者が周りにはたくさんいて、寂しいと思った事なんてほとんど無い。

皆、時に己を怒り、時には共に笑い、己が落ち込んでいる時には共にいてくれたり、頭を撫でてくれたり。

実の親とは離れていても、人のぬくもりが満ち足りている環境にいる。これがどれほど恵まれている事なのか、知らぬ葵ではない。

だが、それでも母親の愛情に飢えていないと言えば、嘘になる。

隆善や惟幸は、父親にはなれても母親にはなれない。紫苑は姉だが、母ではない。惟幸の妻であるりつは母親のように優しく接してくれるが、紫苑の母で、師匠の妻だ。堂々と甘えるには抵抗がある。

躊躇う事無く、甘えてみたかった。何も言わずに優しくしてくれる存在に、身を委ねてみたかった。

そんな事、普段は考えもしなかったが……心の中では願っていたのだろう。だから、呼び掛けてくる声に抗う事ができなかった。抗う事すら思い付かなかった。

声の元へ、歩いて、歩いて。

声の主が目の前に現れた時は、顔には出なかったと思うのだが、胸が高鳴った。求めていたものが……母親の愛情が手に入る、そんな気がした。

だが、長年の習慣によるものだろうか。いざ甘えようと思うと、気恥ずかしさが勝り、思い切って駆け寄っていく事ができない。抱き締めて欲しいのに。撫でて欲しいのに。

そんな葵を見るに見かねてか、声の主は自ら葵の方へと近寄り、頭を撫でてくれた。嬉しさに気分が高揚し、そして。

「……あれ?」

心の中だけで、そんな声が出た。

思っていたのと、何かが違う。そして、何故かその時に、先日隆善に頭を撫でられた時の事が頭を過ぎった。

わしゃわしゃと頭を撫で繰り回す、乱暴な撫で方だった。だけど、嫌な気はせず、寧ろ嬉しかった記憶がある。

あの時と比べて、今はそれほど、嬉しくない。

隆善は撫で方こそ乱暴だったが、その勢いや大きな手のぬくもりから、葵を想っての撫で方だという事が伝わってきた。

だが、この女の撫で方は……何かが違う。葵を想うというよりは、葵を想う己を想っているような……。

上手く表現できないが、そんな感じであると。そう思った瞬間に、葵は思わず身を引いていた。これ以上、この女に撫でられるわけにはいかないと、本能で感じた。

そのために身を引いて、しゃれこうべに足をぶつけて。その衝撃と、母のようだと思っていた存在に疑問を感じた事で、周りに意識が向くようになった。

そして、女と戦闘行為を行い、助けてくれた鼠の魂魄を取り込んで、意識を失うに至る。

意識を失う直前、葵はぼやけてゆく思考の中で、そうか、と呟いた。

あの鬼女は、母親ではない。

……いや、母親ではあるのだろう。恐らく、あの鬼女は誰か特定の子どもを探している。

あの鬼女が探しているのは……彼女の子どもは、葵ではないのだ。

当たり前の事だ。だが……何故だろう。それでも少しだけ寂しい気持ちになったのを感じながら、葵の意識は完全に途切れた。











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