平安陰陽騒龍記 第三章









10









「鬼……」

未だ己の頭を撫でている手の向こうを見詰めながら、葵は呆然と呟いた。先ほどまであれほど優しそうな笑みを浮かべていた女が、今は凶悪な顔をした鬼と化している。

『この女、やはり鬼か!』

「……ただの鬼じゃにゃーにゃ。ただの鬼にゃら、関わってきても未来千里眼で先が見通せる。見えにゃかったという事は、にゃんらかの神に近い要素を持っているという事にゃ……!」

荒刀海彦や虎目の言葉を聞きながら、葵はただ呆然と、女を見ている。寸の間、女の顔が元の優しいものに戻った。葵に向かって優しく笑うと、鋭い爪で傷付けたりせぬよう注意を払いながらまた頭を撫でる。そして、先程見た……しゃれこうべに営巣している鳥に向かって、突如走り始める。

「あっ!」

女が何をするつもりなのか。虎目でなくとも、わかった。女は先ほど、「何か食べる物」と言った。そして、鳥に向かっていった。つまり、そういう事だ。

「……荒刀海彦!」

躊躇う事無く、葵は荒刀海彦の名を呼んだ。腕が瑠璃色の龍と化し、目が金色にぎょろりと光る。葵の体は軽く、大人と比べると大分と動きが素早い。体の主導権を握った荒刀海彦は難なく女の前に回り込むと、今にも鳥に突き立てられようとしていた爪を、龍の爪で弾いた。その行為に、女は「まぁ」と顔を顰める。

「何をしているのです? 母は、あなた達に美味しい物を食べさせてあげたくてこうしているというのに……邪魔をするのですか?」

「母?」

葵の顔で、荒刀海彦が訝しげに呟いた。すると、女はカッと目を見開き、葵を睨み付ける。

「違う……坊やではない……! お前は誰だ! 私の坊やをどこへやった!」

その気迫に、その場にいた者は皆、怯む。荒刀海彦までもが怯んだところで女は荒刀海彦に向かって己の爪を突き立てる。

「ぐっ……!」

二の腕に負った傷に、思わず荒刀海彦は呻いた。女はその隙に一旦距離を取り、荒刀海彦は穂跳彦と立場を変わる。葵の髪が白くなり、目は赤くなる。二の腕に負った傷が、みるみるうちに消えていった。

その姿を見て、何故か女は嬉しそうに嗤う。そして、その理由はすぐに知れた。

「あらあら。白い髪に赤い目……この母と揃いになるとは、なんと嬉しい事」

理由は知れたが、理解が追い付かない。荒刀海彦も、穂跳彦も、虎目も、そして葵も。皆して困惑気な顔をしている。

『……穂跳彦、一度俺と替わって。調伏するにしろ、しないにしろ、もう少し相手を理解した方が良い気がするんだ』

「替わるのは良いけどさ……大丈夫か、葵? またあんな風にぼうっとして、されるがままになったりするんじゃないのか?」

『そこは……頑張るから』

「何をどう頑張るんだよ……」

呆れながら、穂跳彦は葵に体の主導権を返した。髪と目の色が元に戻った姿に女は少しがっかりしたような顔をしたが、それでも先ほどよりも嬉しそうだ。

「あぁ、良かった。戻ってきてくれたのですね。可哀想に……あんな姿になったりして、恐ろしかったでしょう?」

『刀海のおっさん、何か言われてるけど?』

『お前の姿にもなっただろうか』

『いや、オイラの時は、揃いの姿になったって喜んでたし』

己の中で傍目には笑い話にしか見えないやり取りをする二人をよそに、葵はむっとした顔で女を睨む。

「可哀想なんかじゃないよ。……たしかに、あの姿が原因でつい最近悩む事もあったけど。でも、あの姿になるのは荒刀海彦達が俺を助けてくれている証だし。あの姿も含めて今の俺で、荒刀海彦達は俺の大事な仲間なんだ。だから……だから、俺は可哀想なんかじゃない!」

はっきりと、言い切った。荒刀海彦と穂跳彦は、葵の内で「ほぉ……」と感心したような顔をしている。だが。

「可哀想に……下賤な神や神使に誑かされてしまったのですね。母が守ってやれなかったために、このような事になって……本当に、なんて可哀想なのでしょう……」

女は、葵の言葉をまるで聞いていないかのように、一人言葉を投げ続けてくる。何度も何度も、「可哀想に」と、本当に心の奥底から憐れんでいる目で、言ってくる。

「そんな、事は……」

無い、と言おうとして、葵は言葉が出なくなった。荒刀海彦達が己の内に棲んでいる事。それはたしかに、可哀想ではないと言い切れる。先ほどの言葉に嘘は無い。

先日こそ荒刀海彦に体の主導権を渡す事を拒否したが、それはもう吹っ切れている。

荒刀海彦達の力を借りずに一人で無茶をして、大きな怪我でも負えば紫苑や弓弦に心配をさせる。それは、縁もゆかりも無い夜盗達に「化け物」と呼ばれるよりも、ずっと堪えた。

だから先ほども、女が鳥を殺そうとしていると気付いた瞬間に、躊躇わずに荒刀海彦の名を呼んだ。

だが、己は本当に可哀想ではないのか? 実の両親と生き別れて? その記憶も無くて? 大人の女人に頭を撫でられただけで母を連想してしまったほど、母親の愛情に飢えているのに?

隆善や惟幸は、良くしてくれている。紫苑や弓弦、虎目に栗麿もいる。だが、彼らは皆、実の両親ではない。彼らは、葵の母親にはなれない。

どれもこれも、普段は考えるどころか思い付く事すらしない事だ。だが、女に「可哀想」を連呼され、次第にそれらが頭の中をぐるぐるとし始める。

「葵! その女の言葉に耳を貸すんじゃにゃあ! そのままだと……」

虎目の言葉を遮るように、女が再び葵に接近した。葵は女の動きに対処しようとするが、女の発する言葉が呪詛のように魂魄ごと体を固めてしまい、動けない。魂魄が動けないからか、荒刀海彦達とも替われない。

駄目だ。今度頭を撫でられたら、きっとまた意思を失う。そして、次はきっと、戻らない。

女の手が迫る。葵は、動けない。そして、葵の体が増々強張った、その時。

地面に転がっていたしゃれこうべの一つから、突如鼠が一匹飛び出してきた。丸々と太っていて、どう見ても化野の野鼠ではない。邸の、それも厩で馬や牛の餌を失敬して食べる物に事欠かない生活を送っているであろう鼠だ。

その鼠が女の手に纏わりつき、葵を撫でる事が無いよう妨害している。その様子に、葵と虎目は目を丸くした。

「あ……あの鼠は……」

「さっき、女木様の邸で虎目が捕まえた……?」

鼠の顔を見分ける事はできないが、恐らくそうだろう、と思える程度には見覚えのある鼠だった。どうやって追ってきたのかはわからないが、助けてくれた葵への恩返しのつもりなのか……今こうして、助けにきてくれたらしい。

だが、悲しいかな。所詮は鼠で、相手は鬼だ。女は鬱陶しそうに手を振り上げると、そのまま鼠を地面に叩きつける。鼠は、「ヂュッ!」という断末魔を発して、息絶えた。

「あ……あ……」

恩返しのために助けにきてくれたのであろう鼠が、あっさりと死んだ。葵の足から力が抜け、その場に頽れる。両の手で掬い上げた死体は、まだ温かい。

その体から、ぽっ、と淡い光が浮かび上がった。死んで体から離れようとしている魂魄だと、葵はすぐに気付く。その魂魄ごと、葵は己の胸に抱き込んだ。

魂魄が、じわりと己の中に入り込んでいくのがわかる。それを拒む事無く、葵は抱きかかえたまま呟いた。

「おいで」

その短い言葉が溶け込んだかのように、魂魄が次第にぼやけ、より馴染むかのように葵の内へと消えていく。そして、魂魄が完全に消えたのを確認すると、葵はほっと息を吐き、そしてそのまま倒れ込んだ。

魂魄を身の内へ招き入れると、体力を異様に消耗する。場合によっては、意識を保っている事ができなくなるほどだ。だが。

「たしかに……今は意識が飛んでた方が良いかもしれにゃいにゃー……」

虎目が、そっと呟いた。

葵は、そんなつもりで鼠の魂を己に憑かせたわけではないだろう。だが、女に撫でられると、女に声をかけられると、葵は何故か抗う事ができなくなるようだ。ならば、気を失っていた方が幾分かましであるかもしれない。

ただし。

「けど、助けてくれる奴が誰もいにゃーのに気を失ったりしたら、それこそ煮るにゃり焼くにゃりお好きにゃようにと言ってるもんじゃにゃーか!」

虎目の叫びは、既に葵に聞こえていない。葵が意識を失っているという事は、勿論荒刀海彦達も同時に意識を失っている。

「これ……相手に敵意を抱かせた状態で振り出しに戻ったようにゃもんじゃにゃーか……」

呆然と呟き、虎目はちらりと女の方を見る。葵が鼠の魂魄を取り込んだ様子に驚いたのか、少々警戒している。そのためか、女は右手をさっと払った。それが合図であったかのように、子ども達がどこかへと歩き始める。

まるで、「危ないからどこかへ隠れていなさい」と言われたように。

だが、それを追い掛けるすべは無い。まず、今の時点では抵抗するすべすら持たないのだ。女はこちらを警戒しているが、警戒する必要無しと判断して再び何か行動を起こすのは、それほど先の事ではないだろう。

「どうしろと……オイラにどうしろっていうんにゃ、この状況……!?」

今、意識を持っているのは虎目だけ。そして相手は、未来千里眼が通じない。

おろおろとし始めた虎目に、危険無しと判断したのだろう。女は角と牙を収めると、意識を失った葵を抱き上げ、優しくその額を撫でた。

「こんなに衰弱してしまって、可哀想に。目覚めるまで、ずっとそばにいてあげますからね……」

まずい、と虎目は感じる。女は、葵をどこかへ連れ去る気だ。だが、虎目に何ができる? 先ほどのやり取りから、荒刀海彦達の力を借りないとまともに戦える相手ではない事はわかっている。体が小さく物理的な力をほとんど持たない虎目では、ろくな邪魔すらできないだろう。

虎目は、己の無力さにギリ……と歯を食いしばった。その時だ。

「子ども達がひとりでに出ていくと聞いたけど、どう見てもひとりでじゃないよね? 立派なかどわかしの現場に見えるんだけど?」

穏やかだが、非常に冷たい声音が聞こえた。虎目と女は同時に声の方角に目を遣り、そしてその瞬間、女がよろけた。

躓いたわけではない。誰かに突き飛ばされた……そんな感じのよろけ方だ。

そして、女が体勢を持ち直した時、その腕の中に葵はいない。その代わり、女の周りに人の姿が増えていた。それも、女が連れてきた子ども達の中の誰でもない。

一人は、杖をつき、顔に柔和な笑みを湛えながらも隙が無い老人だった。また一人は、弓と矢を背負い、腰に太刀を佩いた武人だった。更に、萎え烏帽子を被り、くたびれた水干を纏っている精悍な男が太刀を構えている。そして、その二人を盾にするように、十二単を纏った女官らしき女が一人。腕には、鬼女から救い出した葵を抱いている。

「この女! 私の坊やを返せ!」

瞬時に激高し、鬼女が叫ぶ。その怒声を制するように、またもあの穏やかだが冷やかな声が辺りに響いた。

「返せ、はこちらの台詞だよ。僕らの弟子を、どうするつもりだったのかな?」

そう言いながら、惟幸は手にしている太刀を引き抜くと、鬼女に向かって突き付けた。彼が太刀を持ち歩いているのは、かなり珍しい。

「惟幸……」

虎目がほっとした表情で名を呼ぶと、惟幸は少しだけ苦笑して、そして視線を虎目に向けないまま、言った。

「虎目、今まで一人でお疲れ様。……さて、葵はまた一人で無茶をして……と怒りたいところだけど、何となく今回はそうじゃなさそうな感じだね?」

「そうにゃんにゃ! 一旦戻ろうとしたところで、急に葵が操られたようににゃって……」

「うん、その話は、あとでゆっくり聞こうか」

そう言うと、惟幸は太刀を構え直し、じりじりと鬼女に向かって間合いを詰めていく。それに合わせるように、三人の男……暮亀、宵鶴、盛朝も鬼女に迫った。逆に、葵を保護している明藤だけは後ろに退き、いつでもこの場を離脱できるように様子を窺っている。

盛朝は、惟幸の乳兄弟であり、子どもの頃から従ってきた兄のような頼れる存在。暮亀と宵鶴、明藤は惟幸が生み出した式神だ。そして惟幸自身は、隆善と同じように葵に陰陽の術を教えている師匠であり、鬼を調伏させれば恐らく当代随一であろうと思われるほどの実力派術師だ。

言うまでも無く、全員が強い。そして、その強さを感じ取ったのだろう。女はじり……と後ずさると、袖を翻して宙へと跳び上がった。そのあまりに高い跳躍に、一同は思わず唖然とする。

「諦めぬぞ……私の可愛い坊や達! 決して手放したりはせぬ! 必ずや、皆、わたくしの手元に……!」

そう、呪詛のような叫び声を残して、女の姿は宙へと消えた。惟幸達はしばらくの間宙を睨んでいたが、どうやら鬼女は本当にこの場から姿を消したようで。それを確信したところで、一同はようやくほっと安堵の息を吐いた。

「とりあえず、窮地は脱したか。……惟幸、これからどうする?」

盛朝が太刀を収めながら問うと、惟幸は「うん」と頷く。

「ひとまず、葵をたかよしの邸に連れて帰ろうか。文を見た感じだと、たかよしも紫苑も弓弦も、葵の事を心配してるみたいだし。それに、葵を休ませるなら、僕の庵よりも頑丈な結界が張られてるたかよしの邸の方が良いだろうからね」

惟幸は、幼馴染である隆善の事を、有職読みである〝りゅうぜん〟ではなく、本名の〝たかよし〟と呼ぶ。それが気に入らない隆善は何度も何度も何度も何度も繰り返し抗議しているのだが、惟幸自身はどこ吹く風で改める様子が無い。それもまた、隆善の機嫌を損ねる原因となっているのだが、惟幸は気付いているのかいないのか……。

そもそも、こんな刻限のこんな場所に惟幸が式神達や盛朝と共に助けに来てくれたのは、隆善が文を送ったからであるようだ。

恐らく、葵が託した式紙を使って女木が即座に隆善に連絡をし、隆善は隆善で即座に助けがいると判断して惟幸に式神を使って文を送ったのだろう。そして、文を受け取った惟幸は京へ力を貸すために山を下り、その途中でこの場に居合わせた、と。偶然だとしたら出来過ぎているので、京へ来る道すがら、何らかの術で葵の気配がどこにあるか、常に探っていたのかもしれない。

兎にも角にも、何とも頼りになり過ぎる、大人達の連携技である。

葵を盛朝が背負い、一同は京へ向かって足を進める。正確な刻限はわからないが、恐らく隆善が大内裏に出仕するまでには何とか瓢谷邸に辿り着けるだろう。

気が抜けたのか、惟幸は欠伸をしながら。盛朝はそんな惟幸を窘めながら、その場を去ってゆく。

そんな彼らを、虎目が無言で追い掛ける。いつもならよく喋る虎目が、今は妙に静かだ。欠伸を噛み殺していた惟幸は、そんな虎目を見、そして盛朝の背に負われている葵の姿を見ると、困ったように苦笑した。そして、葵の服装や髪形がいつもと違う事に今更ながら気付き、思わずくすりと笑った。











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