平安陰陽騒龍記 第三章



















「……やられた……」

陽が完全に落ちて、辺りが暗くなった頃。寝泊まりするために貸し与えられた一房で、葵はぐったりと腹ばいになって寝そべりながら呟いた。

着物が濡れたままでは、体が冷える。だから女木が乾いた着物を用意してくれた。

ここまでは、良い。

しかし、用意してくれた着物がどう見ても……一人分ではなかった。五、六……下手したら、十はあったかもしれない。

それらを、女木は全部葵で試してくれた。試してくれてしまった。

こっちの方が良いだろうか、いやこっちの衣も捨て難い、と。着替えたと思ったら、次の衣を差し出してきて、「こっちも着てみてくれ」である。

葵自身は、着物を選ぶのは嫌いではない。新しい着物を貰えるとなれば嬉しいし、着替えて自分の気に入る物を選ぶ事ができれば、それも楽しいと思う。

……が。

女木が次の着物を差し出してくる……というか、葵を着替えさせる速さは尋常ではなかった。着たところで一度眺めては頷き、新しい物を取り出して……の繰り返しである。

着る当人である葵は、自分が今どんな格好をしているのか確かめる間も無いうちに次々と着物が出てきて、目が回りそうであった。

そして、虎目はそれを憐れむような目で……しかし時に楽しそうな顔をして眺めるばかりで、助けようとする気配は微塵も無く。

「完っ全に女木の着せ替え人形だったにゃー、葵」

今になって、笑いを堪えながらそんな事を言っている。

「……助けてくれれば良かったのに……」

「下手に首突っ込んで、オイラまで遊ばれるのはごめんだからにゃー」

『……ってかさ、普通気付くだろ? ほんのちょっと前まで、あっちの用意する着物を着てみないか、って話をしてたんだしさ』

「……気付かないよ。女人の着物を着てみないかって話をしてたからって、あんなずぶ濡れの状態で着せ替え人形にされるなんて思わないよ……」

『女人と言えば、あの男が呼びに来るまでの間、端女に構われていたからな。……甘やかされて、気でも緩んだか?』

「荒刀海彦まで……」

ぶすりとふくれっ面を作りながら、葵は上体を起こしてその場に座る。

『けどさ、実際のところ、悪い気はしなかったんだろ? あの時の葵、何だか嬉しそうだったもんな』

「あー……うん……」

少しだけ、間の悪そうな顔をして。次いで、ほんのりと恥ずかしそうに頬を染めて、葵は呟いた。

「母親に構って貰えるって、あんな感じかな、って思ったら、つい……」

そう言われてしまっては、周りの者達はもう何も言えない。

葵には、幼い頃の――正確に言えば、十二年前に隆善や惟幸に拾われるまでの記憶が無い。親はどうしてしまったのか、はぐれたのか、別の理由があるのか、わからない。勿論、親の顔も覚えていないし、親がそれまで幼い葵にどう接してきたかもまるで覚えていない。

葵というのも実の名ではなく、惟幸が付けてくれた仮の名だ。……とは言え、既に仮の名で過ごした時は、覚えてもいない実の名の実に四倍にもなっている。今になって実の名がわかって、その名で呼ばれるようになっても困惑するだけのような気もする。

しんみりとしてしまった空気の中、虎目がしみじみと呟いた。

「女木が拘って選んだだけあって、今の葵、中々様ににゃってるにゃ。その恰好、もし葵の親が見る事があったら、きっと喜ぶだろうにゃー」

言われて、葵は房に置かれていた鏡に視線を遣る。顔こそいつも通りの己の顔だが、身に付けている水干はいつもの物よりも格段に質が良い。

同じ水干なのに、何がここまで違いを与えるのだろうかと首を傾げたくなるほど肌触りが良いし、その割に丈夫そうで、ちょっとそこらに引っ掛けたり転んだりしたぐらいでは破れそうにない。多少重い気もするが、こんなに良い着物を貸してもらっておいてそれを口にするのは贅沢が過ぎるというものだろう。

いつもの水干よりもやや明るい縹色に、唐紅の緒と菊綴が映えている。折角だからと、髪も結われた。あのぼさぼさ髪をどう結ったものか、下げ角髪にされている。これは、一度解けたら絶対に己では元通りにできない髪形だ。

水干は庶民が着る物で、この水干も着る対象は変わらないはずだ。なのに、鏡に写った今の己は、随分と立派に見える。

「親……にも、もし逢えたら見せたいけど。その前に、師匠達や紫苑姉さんに見せたいかな? ……いや、やっぱ見せたくないかも。すっごいからかわれそうだし……あっ、そうだよ!師匠に報告の文を書かないと!」

「最初の方だけにゃら、良い台詞だったんだけどにゃー……」

くはぁ……とため息を吐き、そして虎目は苦笑した。葵も、つられて笑う。葵の内に棲む魂魄達も、葵の感情につられたのか笑いだした。

ころころ、からから。楽しく笑って、どれほどの時が過ぎただろうか。

かたり、と音がした。それまでの和やかな空気は即座に消え去り、葵は懐から呪符を取り出して身構える。虎目が、目を細くして四足になった。

音は、房のそこかしこから、微かに聞こえてくる。複数潜んでいるのだろうか? ……いや、どちらかと言えば、房の中をどんどん移動しているような……。

そして、音が遂に、葵の背後にある几帳の陰から聞こえた時。

「にゃあっ!」

瞬時に、虎目が飛び出した。あまりの素早さに、葵は驚いて目を瞠る。

虎目はしばらく几帳の陰でどたばたと暴れていたかと思うと、やがて何やら満ち足りた顔で姿を現した。その姿に、葵は思わず「うっ」と呻く。

虎目の口には、鼠。尚、まだ生きている。どうやら房の中に入り込んだ鼠が移動している音だったようで。そして、鼠の気配に、虎目の猫としての本能が刺激されたものらしい。

そう言えば、虎目は未来千里眼なる、先を見通す目を持っている。神が関わってさえいなければ、大体どんな先の事でも見る事ができるし、戦闘になれば敵の出方を読み取る事もできる。恐らく、最初に音が聞こえた瞬間から、彼には相手が鼠であり、最終的にどこに飛びかかれば仕留める事ができるのか、見えていた事だろう。

「……虎目さぁ……」

ほっとしたような、呆れたような。気の抜けた顔と声で、葵は虎目を見た。

「こればっかりは、本能だから仕方にゃいにゃー」

鼠を加えたまま悪びれずに言う虎目に、葵は「あのね……」と肩を落とした。

「とりあえず、その鼠は放してあげよう? むやみやたらと傷付けて穢れを出したら女木様に申し訳無いし。それに虎目、普段から俺達と似たような物食べてるし、鼠は食べないでしょ?」

言われて、虎目は素直に鼠を口から放した。本能の赴くままに鼠を狩った事で、既に満足しているらしい。

葵は、鼠に大きな怪我が無いかを確認してやると、両の手で包み込むように持ち上げて、屋外へと出た。放してやるようにとは言ったが、流石に屋内で鼠を放すのは抵抗がある。

階を降りて、草むらの中へと鼠を放す。鼠は、しばらく葵の方を見ていたかと思うと、やがて草の中へと潜り込み、どこかへ行ってしまった。

ほっとしたところで、葵は今己が着ているのは借り物で、いつもよりも良い衣である事を思い出す。泥などで汚したりしないよう気を付けながら、そろりと簀子縁へ上がり、房へと戻った。

燈台の灯りで、袖や袴を汚していないか確認する。そして、どうやら汚していないとわかり、何度目かわからない安堵のため息を吐いた。

その時だ。

馬の嘶きが聞こえた。それも、複数。

平穏な時であれば夜に聞こえるはずのないその音に、葵と虎目は再び気を引き締めた。次いで、女人の叫び声が聞こえてくる。音の発信地は寝殿……いや、更に向こうにあった雑舎かもしれない。

葵と虎目は房から飛び出し、声の聞こえた方角へと走る。屋内だからとか、衣が借り物だからとか、そんな事はもはや関係無い。

少しでも早く、悲鳴の主の元へ駆け付ける事ができるよう。葵は、袖を翻して全力で走り続けた。












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