平安陰陽騒龍記 第三章
8
「女木様、ご無事ですか!?」
まずは寝殿に駆け込み、葵は主であり今回の依頼人でもある女木の安否を問うた。
女木は流石に落ち着いていて、円座に坐して下人達からの報告を受けては指示を出している。
「あぁ、葵君。僕はこの通り、無事だよ。心配してくれてありがとう」
そう言ってにこりと笑ってから、その顔は難しそうに歪んだ。
「けど……どうやら遂にこの邸にも例の怪事が起こったみたいだ」
子どもが、消えた。女木は、暗にそう告げている。
そこから先は、女木に報告をしていた下人が引き継いだ。いなくなったのは、端女の子。大きくなって、そろそろ雑事の手伝いができるだろうか、という年頃であるという。
その子が、夕餉を食べ終えてうとうとしていたかと思ったら、突然起きて立ち上がり、母である端女の制止も聞かずに外へと飛び出してしまったのだという。
周りの大人達が抱きすくめて止めようとしたが、子どもとは思えぬ力で振りほどき、子どもとは思えぬ速さで走り、人とは思えぬ跳躍力で築地塀を飛び越えてしまった、と。
「築地塀を越えて、まだそれほど時が経ってない……ですよね? 俺、追い掛けてみます! その子を連れ戻さないといけないし、ひょっとしたら怪事の原因がわかるかも!」
言うや否や、葵は簀子縁から飛び降りる。すぐにも駆け出しそうな葵を、女木が「待った」と制止した。
「葵君、一人で行く気かい? それは流石に危険過ぎるよ。うちの者を何人かつけるから、集まるまで待って……」
「相手が何なのかわからない、子どもはどんどんここから離れている……悠長な事を言っている場合じゃないです! ……大丈夫です、俺、こういうの慣れてますから! ……あ、でももしお嫌じゃなかったら、これに隆善師匠宛ての文を書いて貰えますか? 起こった事だけ書いて、折り畳んだら勝手に師匠の元に飛んでいく式神ですから!」
そう言って、葵は一枚の紙を懐から取り出し、女木に渡す。術師でない物でも文を相手に飛ばす事ができる、式神……というか式紙だ。
本当はもっとたくさん持っていたのだが、夕刻に水を被った際に湿ってしまっていた。乾いて使えるようになっているのは、この一枚だけだ。
隆善への報告を女木に頼むと、葵は外を目指し、改めて駆け出した。門を出て角を曲がり、辺りを見渡す。
「虎目! 子どもがどっちへ行ったか、わかる?」
「……」
葵の問いに、肩に掴まらせた虎目は答えない。それはつまり、虎目の未来千里眼をもってしても先を見る事ができないという事。即ち、この件には何かしらの神が関わっている可能性があるという事。
「……何か、最近多くない? 虎目の未来千里眼でも先を見通せない事案……」
「神霊である荒刀海彦達と共に過ごすようににゃったからじゃにゃいかにゃー。神霊と共にいると、神霊を引き寄せやすくにゃりそうだしにゃー。穂跳彦や勢輔みたいに」
苦し紛れに言っている声音だが、一理ある。葵は納得したように頷き、そしてどうするべきか考えた。考えているうちに、一つの案が頭に浮かぶ。
「……上手くいくかわからないし、こんな事で勢輔を頼るのもどうかと思うけど……他に思い付かないし……」
『ん?』
『どうするつもりだ、葵?』
葵の呟きに、身の内で勢輔と荒刀海彦が怪訝な顔をした。穂跳彦も首をかしげている。
「先を見通せないなら、虱潰しに探すしか無いでしょ? なら、時を稼ぐためにも速く走れた方が良いかな、って……」
勢輔が体の主導権を握れば、その特性通り、凄まじい勢いをつけて走る事ができる。その勢いで周辺を走り回り、邸からいなくなった子ども達を探そうという。
『おー、良いじゃん良いじゃん。面白そうだし、やってみなよ』
穂跳彦が楽しそうに賛成し、勢輔に力を貸すよう促す。勿論、葵に懐いている勢輔が、葵に力を貸せと言われて拒むわけがない。末広比売も、これから何が起こるのかと、わくわくしている。
しかし、一人だけ。葵の内で、考え込んでいる者がいる。荒刀海彦だ。
『……いや、待て。速さで時を稼いで虱潰しに探すというのはわかるのだが、勢輔に力を借りるのは一抹の不安が……』
以前、葵は荒刀海彦の力を借りて行使した事で夜盗に化け物と呼ばれ、それで傷付き心が揺れた原因で鬼を呼んでしまっている。その葵が、再び勢輔の――神霊の力を借りようとしている事に、不安を感じているのだろう。
そして、他にももう一つ。
その不安を荒刀海彦が吐露する前に、勢輔が体の主導権を握った。
「ん!」
葵に頼られた事で張り切った勢輔は、早速全速力で京の小路を駆け始める。
そして、角を曲がろうとして上手く曲がれず、勢い余って築地塀にぶつかった。
「いったたた……」
ぶつかった事で赤くなった額を抑えながら、葵は立ち上がる。思い切りぶつかって転んだにも関わらず、衣は全く破れていないし、縫い目がほつれてもいない。やはり質の良い物なんだな、と実感し、破れてはいないが汚してしまった事に罪悪感を覚えつつ。葵は辺りを見渡した。
「……思ったほど、距離を稼げてない……」
『……まぁ、あれだけの勢いを殺す事無く曲がろうとすれば、こうなるだろうな……』
『刀海のおっさん、わかってたなら先に言ってくれよぉ』
『言う前に走り出したのだろうが!』
『刀海のおじしゃん、ほーしゃん、けんかはめっ、よー?』
『ん……』
葵が肩を落とし、穂跳彦は唇を尖らせ、荒刀海彦は眦を吊り上げる。二人を宥める末広比売の横では、勢輔が申し訳なさそうな顔で項垂れた。
「気にしないで」
「いや、誰か一人くらい、オイラの事は気にしろにゃ……」
共にぶつかったために半ば目を回している虎目に、葵は間が悪そうに苦笑した。そして、まだひりひりとする己の額と、虎目の頭を撫でながら再度辺りを見渡した。
「どこへ向かえば良いだろう……?」
困ったように、首を傾げる。……と、その時だ。
遠くから、馬の嘶きが聞こえた。
「馬の鳴き声……こんな刻限に?」
葵が訝しむ顔をすると、虎目も訝しげな顔をした。
「……馬の鳴き声にゃんて、聞こえたか……?」
「え? 遠くからだけど、聞こえたでしょ? はっきりと」
葵の問いに、虎目は首を横に振る。
「いや、全く。……おかしいにゃ。耳は、葵よりもオイラの方が良いと思うんだけどにゃ……」
『オイラにも聞こえなかったぞ。……おかしいよな。俺、兎なのに』
『私にも聞こえなかった。すえ、勢輔、お前達はどうだ?』
『ん!』
『すえも! すえも聞こえた!』
神霊達にも、聞こえた者と聞こえなかった者がある。その事実に、皆沈黙した。
「どういう事だと思う?」
『あからさまに、何事かあるな……』
「聞こえた者と、聞こえにゃかった者……どういう基準にゃんだろうにゃ……?」
皆でしばし考えるが、考えたところでどうなるものでもない。
「……一か八か、馬の鳴き声が聞こえた方へ行ってみよう。人によって聞こえたり聞こえなかったりするなら、妖の可能性もあるわけだし。どこへ向かえば良いのかわからないまま考えてみるよりも、そっちへ行ってみた方が良いような気がする」
葵の言葉に、虎目は頷く。そして、目を丸く見開いたかと思うと、すぐに細めた。
「……葵が馬の鳴き声が聞こえた方へ行こうと決めた途端、今まで靄がかかったようににゃってた未来が、更に見え難くにゃった……。これは、高確率で神か何かが絡んでいるみたいだにゃ……」
『これまた、面倒臭い事にならなきゃ良いんだけどなー』
虎目と穂跳彦の声を聞きながら、葵は嘶きの聞こえた方角へと歩を進める。何の根拠も無いのに、妙に確信している。己の勘が、告げている。
この先に、何かがある、と。