平安陰陽騒龍記 第三章
6
井戸で水を汲み、待ちきれないと言うように頭から思い切り被る。それを何度か繰り返して、葵はやっと人心地がついた。
景気よく水を被ったため、全身がずぶ濡れだ。夏の頭とはいえ、これは少々寒い。
身震いをしていると、女木の言葉通り、下男がすぐに乾いた布を持ってきてくれた。
礼を言うと、下男はにこりと笑ってすぐに仕事に戻ってしまう。その後ろ姿を見送りながら、葵は布を頭から被ってわしわしと水気を拭い取った。
「あーあー、もっと丁寧に拭くにゃ。拭けてるところと、拭けてにゃいところがあるじゃにゃーか」
虎目が呆れるのも無理は無く、葵の髪からは未だにぽたぽたと雫が垂れている場所がある。葵は困ったように頬を掻くと、先程よりも力を入れてわっしわっしと拭い始めた。雑なその拭き方に、虎目は再び「あーあーあーあー」と言い始める。
その時だ。
「おやおや。そんな拭き方では、風に当たってしまうではありませんか」
優しい、女人の声がした。葵と虎目が振り向くと、そこには声に違わず、一人の女人が立っている。高直ではないが、質の良さそうな……それでいて品の良い衣を纏うその女人は、恐らくこの邸で働く端女だろう。
女人は葵の元へつかつかと近寄ってくると、葵の手から布を取り上げ、未だ半端に濡れている髪を丁寧に拭い始めた。とんとん、と、水を吸わせるように軽く布を叩いている衝撃が、どこか頭を撫でられているようで心地良い。
つい、立ったままうとうととしかけたところで、「はい、おしまい」と優しく声をかけられた。
はっとして葵が女人の顔を見ると、彼女は少し困ったように微笑んだ。
「髪はこれで良いですが、衣も早く着替えるようになさってくださいね。夏だからといって、油断してはなりませんよ」
「はい……あの、ありがとうございます」
少し照れながら葵が礼を言うと、女人は、今度は困った顔はせずに微笑んだ。
「良いのですよ。あなたが体を壊すような事にさえならなければ、それで。それよりも、本当に早くお着替えなさいね」
「あ、はい……」
そう、葵が頷いた時だ。
「葵君、もう髪は洗い終わったかい?」
「あ、はい」
虎目と共に振り向けば、女木が様子を見に来たところだ。髪だけが乾き始めている葵の様子に、女木は「おやおや」と苦笑した。
「衣まで洗ったのかい? そのままじゃ夏と言えど、冷えてしまうだろう? 着物を用意するから、こちらへおいで。今洗えば、明日葵君が帰る頃には乾いているだろうからね」
「あ……」
はい、と言いながら、葵は後ろを振り返った。着替えに行く前に、先ほど髪を拭いてくれた女人に改めてちゃんと礼を言わなければならない。
だが、用が済んだからだろうか。女人は、既にその場から姿を消していた。
「どうかしたのかい?」
「いえ、さっき俺の髪を拭いてくれた人がいて……ここで働いている女人だと思うんですが……」
礼を言いたいが、姿が見えなくなっている。そう告げると、女木は「わかった」と言って頷いた。
「後で、該当する者がいないか探しておくよ。それよりも、葵君は早く着替えないと。陽も落ちてきたし、風も冷えてきたよ」
そう言って、女木は葵を屋内へと急がせる。その後ろ姿を見ながら、虎目は何故か憐れむような顔をする。彼の眼には、一体何が見えているのだろうか。「あー……」と何か言いたいが言いだせない、そんな声を発して、虎目もまた葵達の後を追って屋内へと向かうのだった。