平安陰陽騒龍記 第三章



















女木時教の位階は従五位下。ぎりぎりではあるが、内裏に昇殿する事ができる地位だ。それほどの人物なのだから、邸はさぞ広かろうと思いきや、意外にも敷地はそれほど広くなかった。瓢谷邸と同程度か、精々それよりもほんの少しだけ広いといったところだろう。

だが、邸の広さは同程度でも、働く下男や端女の数は比べ物にならないようだ。葵と紫苑、弓弦だけで家事をこなしている瓢谷邸とは、人の気配の数がまるで違う。そして、働く者が多い分、掃除や手入れが行き届いているらしくどこもかしこも光って見えるほどに磨き上げられ整えられている。

そんな邸を日が暮れる刻限に訪った葵は、ついつい辺りを眺めまわしながら寝殿へと足を運んだ。

階の前で草履を脱ぎ、促されるままに屋内へと足を踏み入れる。簀子縁の、下ろされた御簾の前には円座(わろうざ)が用意されている。葵は、案内の者に勧められるまま、その円座に腰を下ろした。

あいにく主人である女木は所用ですぐに来る事ができないため、しばらくの間ここで待って欲しいと言われる。季節柄、簀子縁で待ち続ける事は苦にならない。どころか、さわさわと頬を撫でる暮れ時の風が心地良い。

御簾の奥からは、時々ふわりと良い香りが漂ってくる。瓢谷邸ではあまり香を焚く習慣が無いので馴染みが薄いのだが、この香りは、伽羅だろうか?

『伽羅のようだが、本来の伽羅よりも甘い香りがするな。独自に何か加えて調合したのかもしれんな』

『ん!』

『なりしゃんも、あまいにおいがするって!』

葵の内に棲む魂――荒刀海彦に勢輔、末広比売も興味深げにしている。更に、穂跳彦も楽しそうに会話に加わった。

『なんかさ、どっちかっていうと、女人が好む香りっぽいよな。優しい甘さっていうの? そんな感じでさ』

そう言って、穂跳彦は寸の間沈黙した。

『なぁ。今オイラ達がいるのは、この邸の主人が寝起きする場所で。でもってこの邸の主人は、依頼してきたあの女木って奴なんだよな?』

「うん。……女木様のお方様が焚いた香……とか……?」

『あぁ、まぁあの歳なら妻の一人や二人は当然いるよな。隆善が例外過ぎるだけで。けどさ、妻が焚いた香の匂いが、ここまで匂ってくるものか?』

『たしかに。趣向のために妻女が香を焚くよう指示を出す事もあるだろうが、我らは遊ぶためにここを訪ったわけではない。しかも、怪事に関する話をするために客が来るのにこのような香りを漂わせるのでは……』

『ちょっと気が利かないよなぁ。あの女木って奴、割と如才なさそうだったし、妻女選びも抜かりなさそうな気がするんだけど』

そう言われても、葵は首を傾げるほか無い。怪訝な顔をした虎目に穂跳彦達との会話を説明すれば、虎目は苦い物でも食べたような顔をして口をむにむにと動かしている。

「……虎目? 何か知ってるの……?」

嫌な予感がし始めたのだろう。顔をやや引き攣らせながら、葵は虎目の様子を窺った。だが、虎目は視線を泳がせ、終いにはふいっと横を向いてしまう。これでは嫌な予感が増すばかりだ。

葵が更に虎目に問いを投げようとした時だ。御簾の向こうから、さらさらという衣擦れの音が聞こえた。

その音に、葵はハッとして居住まいを正す。その横で、虎目も座り直した。

そこで、葵は「ん?」と眉をひそめる。御簾の向こうに現れた人物。葵の正面に座った気配があるので、間違いなく葵に用がある人物で、それはつまり今回の怪事について打ち合わせをするべき人物で、要は女木のはずだ。

だが、御簾の隙間から見えるその人物。顔こそわからないが、その身に纏っている衣装は、間違いなく女物だ。

どういう事なのかますますわからなくなり、葵は目を白黒とさせる、内にいる荒刀海彦達も、怪訝な様子を深めている。

「瓢谷様のお弟子さん、よくいらっしゃいましたね」

御簾の向こうから、男性にしては高く、女性にしては低い声が聞こえてきた。葵は混乱しながらも頭を下げ、名を名乗る事とする。

「えっと、瓢谷隆善より使わされました。葵と申します。その……師、隆善に今回のお話しをされた女木……時教様は……?」

「あら、目の前にいるじゃない?」

「……はい?」

言われた言葉の意味がわからず、葵は思わず首を傾げた。顔も少々引き攣っている。

すると、御簾の向こうでごそごそと立ち上がる気配があった。どうやら、女性は背が高いらしい。隆善と同じか、ひょっとしたらそれ以上あるのではないだろうか。

女性が御簾に手をかけ、そして一気に持ち上げた。夫以外の男に晒すべきではない姿が、一瞬にして目の前に現れる。

あまりに突然の行動で、葵は目を伏せる事すら忘れていた。そんな葵の目が、女性の顔をはっきりと捉える。葵の口から、「あ」という言葉が漏れ出た。

「えぇっと、その……時教様の姉君……ですか……?」

そう問いたくなるほど、女性の顔上半分は女木とそっくりだった。瓜二つと言っても良い。

だが。しかし。

女性は扇で口元を軽く隠したまま軽やかに笑うと、「やだなぁ」と言葉を発した。先ほどまでよりも、声が幾分低くなっている。そして、葵は流石に察した。「まさか……」という若干震え気味な声が口からこぼれ出る。

「女木、様……?」

「いやだな。さっきまでのように名前で呼んでくれれば良いんだよ、葵君(きみ)?」

ぱたり、と、目の前の人物は扇を閉じた。昼間に瓢谷邸で会った女木時教と全く同じ顔が、そこにあった。

衣服を中心に、見た目は女性である。だが、顔はたしかに女木のものだし、声も男性で。

「えぇっと、つまり……その……?」

「僕は、美しい衣を見たり纏ったりするのが趣味でね。……女人の衣は、特に美しい物が多くて、着てみずにはいられなくなるんだ」

つまり、語弊はあるかもしれないが、ある意味女装が趣味だという事か。

「……まぁ、趣味は人それぞれですし、女木様が良いなら……うん……」

己に言い聞かせ、目の前の女木と瓢谷邸で見た女木、どちらも同じ人物であると納得しようとする。……が、その努力は、己に災厄をもたらしかけるものであるとは、この時の葵は思ってもみなかった。

「ありがとう! この姿を馬鹿にせず認めてくれるなんて、君はとても優しい子なんだね、葵君!」

感極まった様子で叫ぶや、女木は葵に抱き着いてきた。押し付けられた着物から、焚き染められた芳しい香りが鼻に直接浸透してくる。良い香りである。だが。だが。

「……何だろう……すごく複雑……」

「……葵、別に抱き着かれるのに拒否感にゃんて抱かにゃい性格のはずにゃんだけどにゃー……。惟幸や隆善に同じ事されても、嫌じゃにゃいにゃ?」

「……うん」

 嫌どころか、嬉しい気持ちにすらなる。口にこそ出さないが、葵はその想いを込めて頷いた。

「ちにゃみに、弓弦や紫苑に同じようにされたら? どうにゃんにゃ?」

「……それを、俺の口で言えと……?」

結構……いやかなり失礼な事を本人の目の前で言っているというのに、女木自身はまるで気にする様子が無い。それどころか、一旦葵から体を離すと、楽しそうな顔で葵を観察し始めた。

「……あの……?」

「綺麗な衣に興味はあるかい、葵君?」

瞬時に、葵の顔が引き攣った。

「丁重にお断りいたします!」

あまりに速い返答に、女木は「速いなぁ」と苦笑した。

「まだほとんど何も言っていないよ?」

「……俺、たしかにそろそろ新しい衣が欲しいなーとは思ってますけど、女物の衣を着るのは嫌です……」

そう言って全力で拒否の姿勢を表す葵に、女木は「察しが良いなぁ」とまた苦笑した。「流石は瓢谷殿の弟子」という褒め言葉を付け加える事も、忘れない。

「案外似合いそうなものだけどねぇ……」

「似合う似合わないの話じゃなくてですね……いやまず、似合いそうと言われてもあんまり嬉しくないです……」

「しかも、〝案外〟だしにゃ……」

「〝確実に〟って言われても困るんだけど……」

幸い、女木がこれ以上服装についてとやかく言ってくる事は無く、まずは邸内を案内しようという話で落ち着いた。

「じゃあ、まずは厩を見せようか。葵君は、どこか動物が好きそうな顔をしているしね」

たしかに、葵は動物が好きだ。好きどころか、その身には動物と関わりのある神霊の魂をいくつも宿している。少なくとも、これで動物を嫌いになるかと問われれば、難しいのではないだろうか。

そう言えば、犬はよく道端で見掛けるし、触れる。虎目と違う普通の猫も、たまにではあるが依頼で赴いた邸の飼い猫を触らせて貰える事がある。車宿で牛を撫でさせてもらった事もあった。山の中で兎や鹿に猿、猪だって見た事がある。……が、馬はあまり見た事が無い。

武士が乗って移動する様子を見た事は何度かあると思うのだが、いつも凄い人だかりでよく見えなかったか、馬が駆けて行く勢いが凄くてすぐに視界から消えてしまうか。

だから、馬をじっくりと見る事ができる機会は生まれて初めてかもしれない。そう思った途端に、葵は俄然そわそわし始めた。

先程までの引き攣った顔はどこへやら。「こっちだよ」と言って歩き出す女木にほいほいついていく葵に、虎目は密かにため息を吐く。

「まぁ、まだ何も起きていにゃいし。たまには浮かれても良いか。いつも、隆善に紫苑にあの馬鹿にと、振り回されっぱにゃしだもんにゃー、葵は……」

そう言ってもう一度ため息を吐くと、虎目もまた、葵と共に女木の後を追って歩き始めた。











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