平安陰陽騒龍記 第二章









26










「臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」

叫ぶや否や、葵の目の前に強烈な風が吹き荒れ、鬼達を押し遣った。相手がたたらを踏んだのを好機とばかりに、間髪入れず真言を紡ぐ。

「ナウマクサンマンダバザラダン、センダマカロシャダソハタヤウンタラタカンマン!」

真言の効果があったのか、目の前の鬼が一体霧散する。

「ナウマクサンマンダボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ! オン、アミリトドハンバ、ウムハッタ!」

連続で唱えた真言に、また一体、鬼が消える。

一瞬だけホッと気を緩めると、隙を見付けたと言わんばかりに二体の鬼が背後に回り込み鋭い爪を突き立ててきた。葵はそれを、太刀のように長い刃で受け止める。ガキン、という鈍い音がした。

「二体同時か……上手い事釣られてくれたにゃー」

「そうだね……臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」

片腕で刃を支えたままに九字を切り、鬼達を滅する。どうやら、片腕のみ荒刀海彦の力を少しだけ借りているようだ。

夜盗達は全員腰を抜かし、呆然としてその様子を見詰めている。これまで自分達が傷付けようとしていた相手がとんでもない強さを秘めていた事を改めて実感しているらしい。

「化け物……」

「やっぱり……人じゃねぇ……化け物だ……」

ひそひそと囁き合う声が、葵の耳を掠める。葵は一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに新たな鬼の相手に気を集中させた。

仲間を何体も倒されて、鬼達も油断をしなくなってきたのだろうか。動きは速く、力が強い。爪を刃で受け止めるも、先ほどまでのように易々と術に移れない。自然、爪と刃で押し合う形となった。

「ぐぎぎぎ……」

歯を食いしばり、押され負けまいと腕と足に力を込める。だが、両腕で刃を支えても次第に押されていき、足はずるずると下がっていく。葵の中で、荒刀海彦が険しい声を発した。

『葵! この際仕方があるまい……私が表に出る!』

「……」

しかし、葵は頷かない。一瞬だけ考え込むような顔を見せただけで、体の主導権を荒刀海彦に渡そうとする素振りすら見せない。葵の魂が頑なに拒んでいるせいか、荒刀海彦が無理矢理主導権を握る事もできないでいる。

『葵!?』

「大丈夫……俺だけで何とかしてみせるから……」

『既に何ともならなくなっているのではないのか!? そもそも、無茶を重ねて体は限界の筈だぞ! 何故それほどまでに頑なになる!?』

「……」

口を閉ざし、精一杯の力を振り絞って鬼を一体始末する。まだまだたくさんいる様子に、少しだけ眩暈を感じた。

その隙を感じ取ったのか、すかさず新たな鬼が鋭い爪を勢いよく突き込んでくる。それを紙一重で躱し、体勢を整えて構え直す。正面で、鬼も葵の攻撃を受ける体勢を取った。

「これ……下手な攻撃は止められて、強烈な反撃食らいそうだね……」

『そうなる前にさっさと替われ! 一瞬の遅れが命取りになるぞ!』

苦りきった顔をする葵の中で荒刀海彦が叫ぶが、やはり葵は迷うような様子を見せるだけで体の主導権を渡そうとしない。いつにない様子に、流石に荒刀海彦が訝しむ気配を発した。そして、ハッとしたように葵の様子を窺う。

『葵、まさかお前……』

荒刀海彦の言葉は、そこで途切れた。鬼の拳が、眼前に迫ってきている。それでも、葵は荒刀海彦と代わろうとしない。刃を構え、決死の表情で鬼を睨み付けている。

『葵!』

「代わるにゃ!」

虎目の短い言葉に、先が見えている。荒刀海彦と代われば、全てがすぐに終わるのだろう。

そして、その光景が虎目に見えているという事は、葵が荒刀海彦と代わる未来がまだ可能性として残っているという事か。

否……と、葵は心の中で首を振った。代わる気は無い。本音を言うと、代わりたい。だが、代われない。理由は、言えない。

鬼の拳を刃で受け止める。強い衝撃を受け、体が吹っ飛んだ。何とか立ち上がれば、またすぐ眼前に拳が迫ってきている。今度は、刃を構え直す暇も無い。

これはまずい、と瞬時に思った。意識の全てが、迫りくる拳に注がれた。そのため、己の奥深くで動く気配に気付かなかった。葵だけではない。虎目は勿論、葵の中にいる荒刀海彦も、末広比売も穂跳彦も。

『ん!』

詰まったような声が聞こえ、葵は一瞬だけふわりと体が浮くような気分を覚える。先ほど鬼の拳に吹っ飛ばされた時と同じ感覚のようで、どこかが違う。

吹っ飛ばされたのは体ではなく、己の内にある魂魄であると気付くのには、いくらか時がかかった。

『……勢輔?』

吹っ飛ばされた葵の魂魄は、唖然として呟く。勢輔が、葵から体の主導権を奪い取ったのだ。勢輔は葵にちらとだけ意識を向けると、すぐに意識を鬼に戻し、正面からその拳に体当たりを仕掛けた。

「ん!」

流石は猪か。その突進力は人間のそれではなく、ぶつかった鬼の拳を跳ね返した。そして、そうまでしても勢輔が表に出ている葵の顔はちっとも痛そうではない。

勢輔が主導権を握り力を発揮した葵の体は、髪が燃えるような赤色となり、瞳もいつもより赤みを帯びた茶色に変わる。

『でかした、勢輔!』

「ん!」

荒刀海彦の声に勢輔は葵の姿のまま頷き、そして体の主導権を荒刀海彦に譲り渡す。葵の両腕が瑠璃色の鱗が顕現した龍の物へと代わり、瞳がぎょろりと、金色に光った。

荒刀海彦は葵の顔で鬼達を睥睨すると、ククッと喉で笑った。

「葵を一度は追い詰めた事で調子付いているようだが、それもここまでだ。……容赦はしない」

言うや、龍の腕を一閃させる。再び襲い掛かろうとしていた鬼が、他数体の鬼達と共に胴を引き裂かれた。

見る見るうちに鬼達の数は減っていく。そして、最後の一体を屠り終えると、荒刀海彦はあっさりと体の主導権を葵に戻した。瞳が、いつもの黒い色に戻る。

戦いは終わった。だが、もう危険は無いと言うのに、葵の顔は晴れない。その視界の端には、すっかり腰を抜かしてしまっている夜盗達。皆、畏れの表情を浮かべて葵を凝視している。

「にゃんとかにゃったか……。あとは、こいつらを検非違使に突き出すだけだにゃ。丁度、来たみたいだしにゃ」

近寄ってきた虎目の言葉に、葵は声無く頷く。そして、虎目の視線の先に己も目を遣った。

松明の灯りが近付いてくる。何人もの足音。がちゃがちゃという太刀の鞘鳴り。

虎目の見立て通り、検非違使達だ。数人の検非違使達が、葵達の方へと急ぎ足で向かってくる。横には、紫苑と栗麿の姿。暗い中、遠目でもわかるほどに息を切らしている。一刻も早く葵に加勢しようと、急いでくれたのだろう。

そこで、葵はやっとホッと息を吐いた。だが、安堵したのは葵だけではない。

「け、検非違使だ!」

「人だ……人が来たぞ!」

「助かった……検非違使に捕まろうがどうなろうが、化け物と一緒にいるよりゃずっとマシだ!」

その言葉に、葵は再びちくりとした痛みを覚える。その時だ。

「……っ!?」

ぞくりと。冷たい物を背に感じ、葵は咄嗟に振り向いた。そして、目を見開く。

夜闇の中に、大きな影が一つ。鋭い爪と牙を持つ、禍々しい気を放つ存在。

鬼だ。それも、これまでの中で、もっとも大きい。その凶悪な姿に検非違使達がざわめき、夜盗達は悲鳴をあげた。

『まだ残っていたのか!』

苦々しげな声と共に、荒刀海彦が再び体の主導権を握ろうとする。だが、それは再び葵に拒まれた。

『葵!』

『駄目だよ、刀海のおっさん! 葵がおかしいのもそうなんだけど、そもそもさっきおっさんが暴れ過ぎてる! ここでまたおっさんや勢輔が出たりしたら、葵の体力が尽きちまうよ!』

『おとうしゃん、つかれるだめー!』

穂跳彦と末広比売の叫び声に、荒刀海彦の気配も揺らぐ。

鬼が腕を振り上げた。

虎目が叫ぶ。

紫苑と栗麿の声も聞こえた気がする。

そう言えば、弓弦はどうしたろう? 上空で待機していてもらった筈だが、やはり疲労が激しく、龍の姿を保てなくなったのかもしれない。戦いに、時をかけ過ぎたか。

鬼の腕が降り落とされる。葵の内で、荒刀海彦達が叫んだのが聞こえた。

せめて一矢報いようと、葵は刃が戻った短刀を構える。だが、刃を鬼に突き立てるため、その懐に飛び込もうと駆け出そうとした、その時。

「恐惶謹言、光臨情願! 神刃一閃、万魔滅尽! 急急如律令!」

低い声が辺りに響き、雷と見紛うような激しい光が走る。その場にいる者全てが思わず目を瞑り、そして再び開いた時、そこから鬼の姿は消えていた。

「今のは……」

呆然として呟くが、聞かずとも答えは明白だ。今この京にいる人物で、あのような派手な術を使い、しかもあの凶悪な鬼を一撃で仕留める事ができるであろう者を、葵は一人しか知らない。

「今の奴で最後か? 随分手間取ったみてぇだが、疲労困憊の状態にしちゃあ上出来か」

余裕を感じさせる低い声がし、次いでじゃりっという沓音が聞こえる。その声に、音に、葵……それに虎目と紫苑、栗麿は「やはり」と呟き、ほっと息を吐いた。

「おぉ、陰陽寮の瓢谷殿ではございませぬか」

「今の術は貴殿が?」

「流石は、陰陽寮一の実力を持つと呼び声高い陰陽師ですなぁ」

検非違使達が、口々に興奮を隠さぬ声を発する。賞賛の嵐に戸惑う事も無く、隆善は「まぁな」と不敵に笑って見せた。

その顔を見た途端に、葵は気が抜けた。まだ僅かながらに顔が強張っているものの、思わず座り込み、「ふへぇ……」と間抜けな息を吐く。その瞬間だ。

「葵ーっ!」

叫びながら、栗麿が勢いよく駆け寄ってきた。勢輔を思い出すほどの突進力で、ぶつかるように葵に抱き付いてくる。衝撃で「ふわっ!?」と悲鳴とも空気とも聞こえる声を発した葵に向かって、栗麿は怒涛の如く言葉をぶつけてきた。

「無事でおじゃるか!? あんな無茶をして、麿は勿論、弓弦も紫苑も心配したんでおじゃるよ!? 葵は瓢谷と違って、優しい普通の童でおじゃる! 瓢谷と違って殺したら死ぬんでおじゃるから、無茶をしたら駄目でおじゃる!」

「ほう、そりゃあどういう意味だ?」

「葵みたいな優しい童はちょっとした無茶でも死にそうで怖いんでおじゃる! 傍若無人な瓢谷は殺しても死にそうにないでおじゃるが! ……あ」

最後まで力説しきったところで、栗麿は自分が誰に問い掛けられたのかに気付いたらしい。あっという間に顔が青褪めていく。

「てめぇこそ叩いて砕いて念入りに殺しても死にそうにねぇくせに、よくもまぁそんな事が言えるもんだな、この馬鹿栗!」

そう言う顔は閻魔の如し。大きな手で栗麿の頭を掴み、ぎりぎりと握りつぶしかねない勢いだ。

「ふぉぉぉぉっ! 頭っ! 頭が割れるでおじゃるぅぅぅぅ! あおっ……葵ぃぃぃっ! この悪鬼から麿を助けて欲しいでおじゃるよぉぉぉっ!」

「一々葵に助けを求めんじゃねぇっ! 情けねぇったらありゃしねぇ!」

そう言葉を締めくくり、隆善は栗麿を地面に投げ捨てた。そして、葵に向き直ると少しだけ遠くを手で示す。

「弓弦が、邸まで急を知らせに飛んできた。疲れてる様子だってのに、そのまま俺を連れてここまでひとっ飛びしてきてる。……これ以上は、言わなくてもわかるな?」

隆善が示した先には、人の姿に戻り、疲れ果てた様子で座り込んでいる弓弦。道理で、あれだけ葵が追い詰められた中に弓弦が介入してこなかったわけだ。隆善を呼びに瓢谷邸へ飛び、この場に不在だったのだから、介入できるわけがない。

いつもの弓弦なら、葵を心配して真っ先に駆け寄ってくるだろう。それすら出来ぬほどに、消耗してしまったという事だ。

葵は隆善に頷くと、弓弦に向かって駆けていく。疲れの為に少しふらついてはいるが、それを気にする様子は微塵も無い。弓弦の元へ駆け寄るまでの間に虎目が追い付き、紫苑が混ざる。

無茶をした事を弓弦に怒られ、紫苑に怒られ、虎目には呆れられて。それなのに、葵はどこか嬉しそうな顔をしている。

その様子を遠目に眺めた後、隆善は検非違使達に縄を打たれる夜盗達をちらりと見、ついでに栗麿を一瞥して、そして再び葵達に視線を戻す。

楽しげな様子の葵達を再び長い間眺め、何かを考える様子を見せたかと思うと、深く、大きなため息を一つ吐いた。











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