平安陰陽騒龍記 第二章









27










暗い夜の庭を眺めながら、隆善は西対屋の簀子縁で一人、酒を飲んでいる。

簀子縁に瓶子を直に置き、手には土器。釉薬を使わず素焼きしただけの土器特有のざらざらとした手触りは彼の好みなのだが、如何せん、少しの間放っておくだけで汲んだ酒を吸いこんでしまうのが難点だ。

『隣、良いかな?』

声と共に、何者かの気配がすとん、と隆善の横に座る。隆善は横に首を巡らせると、不機嫌そうに「おい」と唸った。

「許可を得る前に座る奴があるか。この而立越え童」

そう言われて、声の主――惟幸は、いたずらを見付けられた子どものように笑った。

無論、夜にあの庵から彼が出向いてくる事など、そうそうある話ではない。ここにいるのは、彼の姿をして彼の意思を伝える式神だ。山中の庵にいる惟幸も酒を飲んでいるのか、手には瓶子と土器を持っている。

「……而立越え童のくせに、結構良い酒器使ってんじゃねぇか」

己の持つ土器よりも出来の良いそれらを見て、隆善は少し拗ねたような声で言う。惟幸は「貰い物、貰い物」と言いながら手酌し、酒を口に運んだ。

『ところで、紫苑達は?』

土器の酒を乾し、ほんの少しだけ赤らんだ顔で惟幸が問う。隆善は「あぁ」と呟くと、雑舎の方に顎をしゃくって見せた。

「全員で後片付けをしてる。帰ってから、小腹が空いて全員でちょいと摘まんだもんでな」

『……葵も?』

意味深な惟幸の問いに、隆善は渋面を作って頷いた。すると、惟幸の顔も渋く歪む。

『……元気過ぎるね』

「あぁ」

頷き、隆善は土器を口に運ぶ。しかし、長く放置し過ぎたためか、中の酒は既に土器に吸い込まれて無くなってしまっている。舌打ちをして、新たな酒を注ぎこんだ。

「元気なのは、本来なら結構な事だ。だが、葵の場合……」

一息に酒を乾し、隆善は唸る。硬い表情で、惟幸は頷いて見せた。

『元々、無茶を繰り返して限界に近い状態だったはずだよ。その上夜盗達と戦いを繰り広げて、更に鬼とも。穂跳彦に勢輔、荒刀海彦の力も借りてるんだ。いつもなら、とうに動けなくなっていてもおかしくない筈なんだけど……』

「なのに、元気一杯に動けてる。……ちっとまずいかもしれねぇな」

『うん……それってつまり……体が、荒刀海彦達に馴染み過ぎてるって事になるからね……』

本来、荒刀海彦達の魂魄と葵の体は相容れぬ物だ。別の存在であり、神と人であり、死者の魂魄と生者の体だ。普通に考えれば、馴染むはずが無い。

実際、神や霊に憑かれる事で疲弊し、命を落としてしまう者だっている。それでなくても荒刀海彦達が葵の体を使うと、人の体が持ちえない力を発揮してしまい、尋常でないほど体力を消耗してしまうのだ。憑代の才を持つ葵だからこそ、激しい疲労で寝込むだけで済んでいる。

それが、次第に葵の疲労が少なくなっている。

死んでいてもおかしくないほどの傷を負い、穂跳彦の力でどう考えても体力を消耗し過ぎる回復を図ったにも関わらず、数日寝込むだけで済んだ。

今回に至っては、無茶をしたにも関わらず、そこそこ元気に動き回っている。

魂魄と体が馴染んできてしまったため、荒刀海彦達の力を行使しても負担が少なくなってきているのだろう、というのが惟幸達の見解だ。

本来ならば、良い事の筈である。葵の体の負担が減るのだから。

だが、荒刀海彦達の魂魄に体が馴染むという事は、即ち。

「体が、人から次第に遠のいてる。そういう事になるからな」

暗い声で呟き、隆善は酒を煽る。惟幸も黙ったまま頷き、酒を口にした。

『……僕が、今夜起こった事を知ってる事で察しはついてると思うけどさ……葵達が僕の庵を出た後、心配になってこっそり式神を飛ばしたんだよね』

「だろうな。それで、一部始終を見てたんだろう? ……何で危ねぇ時に手助けしなかった?」

ぎろりと睨む隆善に、惟幸は「本当に危なくなったら助けるつもりだった」とやや言い訳がましく言う。

『今、葵がどうなってしまっているのか……状況を見極める必要があると思ったからさ。ぎりぎりまで粘らせようと思って。それに、本当に危なくなった時には、もうたかよしが着いてたしね』

この件についてこれ以上何を言っても話が進まないと悟り、隆善はため息を吐きつつ話を元に戻した。

「一部始終を見ていて、お前はどう思った?」

『……鬼が出た時、さ』

呟き、惟幸は記憶をたどるように視線を泳がせる。その時の様子は、隆善は虎目から説明を受けただけだ。何が起こったのかは知っているが、詳しい事は把握していない。

『夜盗達が、葵の姿を見て怯えて……その恐怖が引き金になって鬼が呼び集められた。……あの場にいた人達は、多分皆そう思っているんじゃないかと思うんだけど……』

「実際は、違うと?」

隆善に問われ、惟幸は少しだけ躊躇った様子を見せてから頷いた。

『言っちゃ悪いけど、あんな小物揃いの夜盗達が恐怖を感じたぐらいで、あんなにたくさんの鬼が呼び寄せられたりはしないよ。しかも、どれも僕の庵に現れる鬼と同じぐらいの強さときてる』

「さらりとてめぇを高く言ったな。……まぁ、良い。それで?」

続きを促され、惟幸は「うん」と頷いた。

『鬼が呼び寄せられる寸前、夜盗達は葵の事を〝化け物〟と言っていた……。そして、葵はそれに傷付いたような顔をしていたよ……』

「……やっぱり、そうか……」

険しい顔をする隆善に、惟幸は観念した表情で頷く。

『そう……あの鬼を呼び寄せたのは、夜盗達じゃない。葵だよ』

シンと、二人の間の空気が静まり返った。惟幸が、苦い顔をする。

『化け物と言われて傷付き、揺らいでしまった葵の心が、あれだけの鬼を呼び寄せたんだ。最後にたかよしが倒した鬼も、そう。倒しそびれたのが残っていたんじゃなくって、あれはあの時生まれ出たんだ。検非違使達が来た時、夜盗達が葵をまた化け物と言った。その時に……』

「元々陰陽師の修業をしていた。鬼に付け狙われる惟幸との交流もあり、気配が多少なりとも移っている。神霊である荒刀海彦達の魂魄を四体分もその身に宿している。……これが揺らぎゃあ、たしかに格好の餌だな、鬼達の」

唸り、隆善は新たに酒を土器へと注ぎ込んだ。それを口に含み、しばらく考えてからぽつりと言葉を紡ぐ。

「……拒絶されたのは、初めてだったのかもしれねぇな」

『……と、言うと?』

訝しげな顔をする惟幸に、隆善は「考えてもみろ」と遠くを見詰めながら言う。

「葵は……あいつは基本、何でも受け入れる。俺やお前、紫苑。当人がどう言おうが化け猫の虎目に、正体がわかるまで得体が知れなかった弓弦。馬鹿ばかりやらかして迷惑しかかけねぇあの馬鹿。体を勝手に使った上に記憶喪失の原因になった荒刀海彦に、最初は敵対していた末広比売。勝手に入り込んだ穂跳彦。しまいにゃ、自分を丸焼きにした勢輔まで。末広比売と勢輔に至っては、自分から迎え入れたときてやがる」

惟幸が頷いたのを確認してから、隆善は更に続けた。

「流石に悪さをして悔い改めない鬼までは受け入れたりしねぇが、とにかくあいつは誰かに対して恐れを抱かず、拒まねぇ。そのせいかどうかは知らねぇが、大抵の奴は葵の事を受け入れる」

己の事を拒まない者を無下に拒む者は少ない。それは、人であろうが何であろうが、あまり変わらない。

「小っせぇ頃から世話してた俺やお前、紫苑に虎目は勿論の事。あの馬鹿も葵の事は癒しだなんだとほざいているし、弓弦もハナっから葵にべったりだった。末広比売や穂跳彦の、葵の内にいるのは心地が良いっつー証言もある」

『うん……こうして考えると、本当にたくさんの人に大事にされてるよね、葵は』

頷く惟幸に、隆善は「そこだ」と空になった土器を突き出して見せた。惟幸は怪訝な顔をしながら、簀子縁に直置きされた瓶子を手に取る。今の彼は式神だが、物に触れる事はできるらしい。

惟幸に酒を注がれ、それを一息に飲み干してから、隆善は話を続けた。

「葵にとっちゃ、人を受け入れ、人に受け入れられるのが当たり前だったんだよ。それが今回、恐らく生まれて初めて、人に拒絶された。……化け物、って言葉をもってしてな」

『!』

理解したのだろう。惟幸の顔色が変わった。

「十二年間、俺とお前で修行をつけてきて、心身共に鍛えたつもりだったんだがな……。たしかに、体は強くなったし、クソ度胸もついた。……だってのに、人間関係っていう一番面倒臭ぇのを忘れてたのはまずかった。……いや、まずどうやって鍛えるんだって話になるか……」

まいった、と言いながら、隆善はため息を吐く。

「このままずっと今まで通り、限られた人間とだけ付き合い続けてりゃ、それほど問題にはならねぇ。……が、実際問題、そういうわけにもいかねぇ。あいつだっていずれは元服して、自分なりの人付き合いや社会との繋がりを築く時がくる。……誰かさんみてぇに、大人になる事から逃げ続けてりゃあ、また話は違ってくるかもしれねぇけどな」

『……』

黙り込む惟幸を前に、隆善の舌は止まらない。寧ろ、勢いを増していく。

「多くの人間と付き合うようになった時、荒刀海彦達に馴染み過ぎた葵がどうなるか。うっかり力を使って、誰かに恐れられ、化け物なんて言われたりしたら? その場で鬼が出て大惨事、なんて事になりかねねぇ。最悪人死にが出るし、大混乱は必至。どうなろうが、葵の先行きは真っ暗だ」

惟幸が手に持ったままの瓶子を奪い取り、手酌し、酒で唇を湿す。そして、低い声で囁くように呟いた。

「……これ以上馴染み過ぎねぇように、対策を考えねぇといけねぇな」

『それは……馴染み過ぎると、日常の何でもない時にまで、何気無く力を使ってしまうかもしれないから?』

隆善は、頷いた。

「荒刀海彦の強力を使えるなら買い出しの際に便利だとか軽口を叩いていたが、今後は無しだ。普通の人間ができる範囲と、荒刀海彦達の力を借りているからこそできる範囲の境界が曖昧になるのは、まずい」

『……と言うか、買い出しに利用してたんだ?』

苦笑する惟幸に、隆善は憮然とした表情を見せる。

「便利なモンは使ってなんぼだろうが」

悪びれる事無くそう言って、隆善は更に酒を飲む。惟幸も苦笑して、己で注いだ酒を口に運んだ。……と、その時。

「あと少しってところで逃げるにゃ、この馬鹿!」

「折角あの師匠が罰掃除をおまけしてくれたのに、それでも逃げるわけ!?」

虎目と紫苑の怒鳴り声が聞こえ、次いで凄まじい足音が聞こえてくる。隆善と惟幸は顔を見合わせると、咄嗟に南庇まで飛び退いた。惟幸に至っては、下ろした蔀戸の影に姿を隠している。

それから間をおかず、栗麿がその体躯に見合わぬ速度で隆善の目の前を駆け抜けていった。それを、紫苑と虎目が脇目もふらずに全速力で追う。

その後ろ姿を見送りながら、隆善は「あの馬鹿が」と吐き捨て、惟幸は苦笑した。

『罰掃除、おまけしてあげたんだ?』

「……あの時、あの馬鹿が何も考えず葵に向かっていって抱き付いた事で、結果的に葵は落ち着いたんじゃねぇかと、俺は考えているんでな。あそこであいつが葵に対して、心配しただ普通だ優しいだとまくしたててなかったら、また何が切っ掛けで心が揺らいだかわかりゃしねぇ。認めたくねぇが、あれ以上事が厄介にならずに済んだのは、あの馬鹿の手柄と言ってもいいからな。罰掃除を軽くしてやるぐらいは、してやっても良いだろう」

だが、その軽くした罰掃除からも途中で逃げ出したようである。後からぶちのめす、と隆善は物騒な言葉を吐いた。苦笑しながら、惟幸は簀子縁へと顔を向けた。

『まだしばらくは大丈夫……と思いたいけどね。化け物と言われた後は、荒刀海彦の力を借りる事を頑なに拒んでいたみたいだし』

葵はむやみやたらと荒刀海彦達の力を使ったりはしない。そう言う惟幸に、隆善は首を振った。

「葵がそのつもりでも、他はそうはいかねぇだろう。荒刀海彦達の魂魄が馴染んできた葵を鬼達が餌として見逃すわけがねぇし、強い鬼に絡まれりゃ、荒刀海彦達だって大人しくはしていられねぇ。なし崩しに、力を借りる事は今後も増えるだろうよ」

そして普通と異常の境界は薄れ、葵は普通でなくなっていく。虎目の未来千里眼が無くとも、その様が見えるようだ。

二人は黙り込み、南庇に座り込んで黙々と酒を飲み続けた。やがて、たんたんたん、という軽い足音が聞こえてくる。

『この足音は……』

呟き、惟幸が不意に姿を消した。あとに、ひらりと式神の形代である紙が舞い落ちる。気配も完全に消失しており、どうやら断りなく帰ってしまったらしい。

それに別段怒る様子も無く、隆善は形代を拾い上げると懐に仕舞う。それから殆ど間を置かず、蔀戸の影から葵が姿を現した。

手には手巾を持っており、濡れた手をぬぐいつつ歩いている。紫苑達が走り去っていった方角を眺めて、「紫苑姉さん達、どこまで追いかけていったんだろう……」と呆れた様子で呟いた。

そして、南庇の隆善に気付くと慌てて手巾を仕舞い、そして「あれ?」という顔で辺りを見渡した。

「師匠、さっきまでここ、誰かいました?」

「いや?」

顔色一つ変えずに言い、隆善は立ち上がると葵に近寄った。そして、予告無くぐしゃりと葵の頭を撫でる。

「うわっ! し、師匠?」

驚きながらもどこか嬉しそうな葵の頭をぐしゃぐしゃと撫で続けつつ、隆善は落ち着いた声をかける。

「無茶ばっかしやがって、この馬鹿弟子が。片付けが終わったなら、さっさと寝ろ。病み上がりの童が起きてて良い刻限じゃねぇぞ」

そう言って、撫で終えた頭を東対屋の方へと軽く押し遣る。葵は、寸の間きょとんとしたかと思うと、くすぐったそうに「はい」と頷いた。そして東対屋へと踵を返す。

「……葵」

立ち去ろうとしていた葵の背に、隆善はやや躊躇いがちに声をかけた。不思議そうな顔をして振り向いた葵に、隆善は「軽く聞き流しとけ」と言う。

「全ての人間に好かれるなんて事は、不可能だ。残念な話だがな。成長して、外に出るようになって、出会う奴が増えればそのうち、お前の事を嫌う奴も一人や二人は出てくる。そういう奴に会ったとしても……気にするな」

葵が、不思議そうな顔をして首を傾げた。己が夜盗達に化け物と言われた事で傷付いた事の自覚が、まだ無いのかもしれない。構わず、隆善は話を続けた。

「嫌う奴には、嫌わせておけ。根本的に合わねぇ奴もいるし、とにかく難癖つけたがる馬鹿も世の中にはいる。一々相手にして気にかけてたら、時間の無駄だ。……良いか? 嫌われる事を恐れるな。一人や二人に嫌われたところで、お前は一人にはならねぇ。荒刀海彦達がいつでもそばにいるし、紫苑や虎目、弓弦は絶対にお前を放っておいたりしねぇ。惟幸もだ。……それは、わかってるな?」

隆善の言葉を暫く頭の中で反芻している様子で、葵は黙り込んだ。そして、言われた意味を理解して飲み込んだのか顔を上げ、「はい!」と明るい表情で頷く。

頷き、再び踵を返して東対屋の方へと歩き出す。今度は呼び止められる事無く、その姿は東対屋の方へと遠ざかっていった。

軽くため息を吐き、隆善は再び簀子縁に腰を下ろすとまた酒を飲み始める。

夜の外は暗く、静まり返っている。

この先、葵がどうなるのか。師匠としてどうしてやるべきなのか。様々な想いを巡らせながら、隆善は静かに酒を飲む。

酒の相手をするは、空にかかった月ただ一つ。その姿や空の色が次第に変わっていく様を眺めながら、隆善は静かに酒を飲み続けた。

飲み続けているうちに、夜は更けていく。ただ深々と、深々と。













(第二章 了)












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