平安陰陽騒龍記 第二章
24
夜の空を、弓弦は風を切って飛ぶ。ただし、行きの時よりも若干速さを抑えているように思える。葵の体調を考慮しての事だろう。
進み行くうちに、前方にぽつ、ぽつ、と小さな灯りが見え始めた。灯りが多く集まっているのは、北方。内裏のある辺りだ。その中でも特に多いのは、滝口の武士が詰めている場所だろうか? 内裏はおろか、大内裏にすら足を踏み入れた事の無い葵達にはわからない事だが。
唯一大内裏の中を知っている栗麿はと言えば、ぶら下げられた状態でそわそわと落ち着かない。……いや、この状態で落ち着いていられたら、それはそれですごいのだが。
そんな事を考えながら栗麿の様子を覗き込んでいるうちに、葵は「ん?」と首を傾げた。
「どうしたの、葵?」
「あの馬鹿以外に、にゃにか変にゃ物でも見えるにゃ?」
紫苑と虎目の問いに、葵は「いえ、あの……」と戸惑いながらも地上を指差す。
「あそこ……」
指で示された先を、紫苑と虎目も見た。弓弦も首を巡らし、栗麿も流れで同じ方角を見る。
そこには、小さく揺らめく灯りが見えた。場所は、京の南方。右京の、七条通辺りだろうか。
どこかの邸の庭ではない。通りを、松明か何かを持って歩いている人がいる。そうとしか思えない動きをする灯りだ。
「何だろ? 検非違使の見回りにしては、灯りの数が少ないよね」
「どこぞの貴公子が、姫君の元へ通うための灯りではございませんか?」
弓弦の言葉に、葵は腕を組んで唸る。
「そうかもしれないけど……何て言うのかな? 何か、嫌な予感がすると言うか……ざわざわする感じがすると言うか……」
葵の言葉に、虎目が「ふむ」と唸った。
「葵の勘は、馬鹿にできにゃーにゃ。陰陽師修行もしているし、それでにゃくても荒刀海彦に末広比売、穂跳彦に勢輔……何人もの霊を体に取り込んでいる状態にゃ」
直感力が、常人のそれよりもずっと高くなっている可能性が大いにある。そう言って、虎目は目下の小さな灯りを凝視した。未来千里眼で、あの灯りに関わった場合の未来を見通そうと言うのだろう。
やがて、虎目はカッと目を見開き、「まずいにゃ!」と叫ぶ。
「まずい? 何が?」
葵と紫苑の顔が険しくなる。弓弦も、恐らく同じだろう。一同に向かって、虎目は渋面を作った。
「あの灯り……夜盗の松明にゃ。ただの夜盗にゃら、検非違使庁に駆けこめば済む……けど、そんにゃ時間は無い! あいつら、押し込んだ邸の人間を殺してでも仕事をする気でいるにゃ!」
葵達の目が見開かれる。
「大変じゃない! 今すぐ降りて、邸の人達に知らせないと!」
「けど、このまま降りたら、邸の人達より先に、夜盗達に見付かっちゃうよ! それでなくても、弓弦ちゃんが安全に地上に降りるためには、灯りのある場所を目印にしないと……」
「それに、夜盗達と対峙したところで、まともに戦えるか……という疑問がございます」
悔しげな声で、弓弦が言う。
「正直なところ、ここ数日の寝不足で神気も体力も尽きかけております。今地上に降りてしまえば、恐らく私は徒人と同じに。夜盗達と戦う事も難しゅうございましょう」
虎目と栗麿は、言わずもがな。紫苑とて、術は使えるが対人戦の修業はしていない。そして、術を人に向けて使う事は許されない。徒人に対して術を使えば、最悪、相手を死なせてしまうかもしれない。
辛うじて対人戦の修業をした事があるのは、葵だけだ。だが、病み上がりの体でどこまで戦えるものか……。
「荒刀海彦に出て貰えば、何とかなるかもしれないけど……」
『人を相手に、手加減ができるかどうか……保証はしかねるぞ。葵が十全の状態であれば加減のしようもあろうが、今の状態ではな……』
全力を出すつもりでやらねば、どれほどの力を出せるかもわからないと言う。
どうしようかと皆で唸っているうちに、灯りの動きが止まった。どうやら、目的の邸の前に着いてしまったようだ。
もう、考えている暇は無い。葵は勢いよく振り向くと、瓢谷邸のある方角を指差して紫苑に言う。
「紫苑姉さん、栗麿と一緒に、検非違使庁へ走ってください! 多分、今この中で特に速く走れるのは、紫苑姉さんと栗麿だと思います」
そう言って、次に虎目の方へと視線を向ける。
「虎目は、俺と一緒にいて。相手が人間なら、未来千里眼で先の展開を読む事もできるよね?」
「ちょっ……待つにゃ葵! まさかとは思うが、つい最近まで寝込みっぱにゃしだった体で夜盗の相手をするつもりにゃんて事は……」
ふい、と葵は目を逸らした。途端に、その場にいる全員の顔が険しくなる。
「いや、あの……だからさ……虎目にはついてきて欲しいと言うか……それと、弓弦にはこのまま姿を変えずに、空で待機していて欲しいなー……なんて……」
声が次第に小さくなっていく。
当たり前だ。先日あれほどの無茶をして、周りを心配させたばかり。ここで葵が一人で夜盗達に立ち向かうなど、誰一人として良い顔をするわけがない。
葵は「あ、あー……」と曖昧な声を発しながら、視線を泳がせる。そうしている間にも、夜盗達は邸に押し入りそうだ。その様子に、葵は意を決した顔をすると虎目の前足を掴んだ。
「にゃ!?」
「ごめん! 弓弦、何かあったら降りてきて助けて! 紫苑姉さん、栗麿! 検非違使庁の件、お願します!」
それだけ言うと、虎目を掴んだまま葵は弓弦の背から飛び降りた。弓弦達の「あっ!」という非難がましい叫び声が、あっという間に上空に遠ざかっていく。
虎目を懐に押し込み、代わりに一振りの短刀と、一枚の符を取り出した。刃渡りが一尺にも満たないその短刀の柄に手早く符を巻き付け、片手で無言のまま印を切る。
そして葵は、両手で短刀を振りかざした。そして、叫びながらそれを振り下ろす。
「疾く伸びよ! 急急如律令!」
叫ぶや否や、短刀の刀身が一気に伸びた。ぐんぐん伸びたそれは地面に突き刺さり、葵と地面を繋ぐ。そして、葵がもう一度印を切るとそれは少しずつ短くなっていった。
葵が自ら作った、刀伸符という呪符だ。巻き付けて印を切れば、短刀の刃が力量の範囲内で求めるだけ伸びていく。伸びると言っても鋼の質量が増えるわけではない。霊力を使用しているので、重さは変わらない。仮に大太刀ほどの長さにしたとしても、葵の椀力でも余裕で扱う事ができる。
刀身を縮ませる事によって安全に地に辿り着いた葵は、そのまま一気に駆ける。
築地を今まさに乗り越えようとする夜盗達の姿が、その目に映った。