平安陰陽騒龍記 第二章
21
「例えそれほど力を持っておらず、性根が悪かろうとも、神は神……だからな」
「兄神達が「赤い猪だ」と言った事で、ただの岩だった君に言霊が宿ったんだね。それほど強くない神様だったから、すぐに……ではなかったんだろうけど。大国主神を圧し潰してしまった後、その言霊がじわじわと染み込んでいって……長い年月をかけて、本当に赤い猪と変化した。それが……君なんだね?」
勢輔に抱き付かれたまま、葵は優しく問いかける。すると勢輔は声を発しないまま、ぎゅっと、葵に抱き付く力を強めた。葵達の推測に、間違いが無いという事なのだろう。
猪の本体を破壊したわけではない……勢輔は死んだわけではないのに、魂魄は葵が呼んだだけで簡単に岩から剥がれた。岩から猪に転じて日が浅かったために、まだ魂魄が安定していなかった事もあるだろう。だが、それ以上に。
「……寂しかったよね……」
ぽつりと、葵は呟く。勢輔が、不安げな顔をしたまま、葵の顔を覗くように俯いた。
「姿は猪でも、正体は岩だから……山の、本物の猪の群れに紛れ込むのは、きっと難しかったんだよね? 岩のままなら感じずに済んだ、独りぼっちの寂しさを、知っちゃったんだよね、きっと……」
「……だから、オイラを追い掛けた?」
穂跳彦の問いに、葵は頷く。
「大国主神の気配を、探していたんじゃないのかな? ほら、兄神達は知らないけど、少なくとも大国主神は、一度は勢輔の事を受け止めたんだし。その時はまだ岩だったから、顔はわからないままだったんじゃないかな? だから、気配で大国主神に辿り着こうとしたんじゃないかと思う」
そう言って、再び顔を上に向ける。勢輔と目が遭い、葵は優しく笑って見せた。
「もう一度、受け止めて欲しかった……のかな? 両腕で、ぎゅっと。今、勢輔が俺にしてくれてるみたいに」
気配で、穂跳彦が大国主神、もしくはかの神に近い存在ではないかと思った。何しろ、穂跳彦は大国主神に助けられている。その時に纏った気配が、長い年月を経て未だに残っていたのだろう。
彼を追い掛ければ、そのうちまた、以前のように受け止めて貰えるかもしれない。そうすれば、寂しくなくなるかもしれない。
だから、勢輔は穂跳彦を追い掛けた。伯耆国から、因幡国へ。そして、逃げる穂跳彦を追い掛けて、更に東へと走り、遂には山背国に……そして、京に。
追い掛ける中で、勢輔は何度も穂跳彦に追いついた。しかし、それ以上近付く事はできなかった。どう接すれば受け止めてもらえるのか、わからなくて。
それで、ただ穂跳彦を追うだけに留まった。穂跳彦が疲れて歩みを緩めれば、勢輔も歩みを緩めた。穂跳彦が眠ってしまえば、その近くで勢輔も体を休めた。
どう接しようか。それがわからないまま、ただひたすら、穂跳彦を追い続けた。そうしているうちに築地や築島を破壊してしまい、葵達との出会いへと繋がったのだ。
きっと、勢輔に葵達を攻撃する意思は無かっただろう。だが、大国主神の気配を求め、穂跳彦を追い求める事だけに意識が向いてしまい、結果として追い掛ける勢いを殺しきれずに、葵達に危害を加えてしまった。
それでも、葵は勢輔の事を呼んでくれた。「おいで」と言ってくれた。だから、簡単に岩から魂魄が剥がれ、葵の内へと入る事ができたのだ。そして、今に至る。
「……なりしゃん、ぎゅってしてほしいの?」
末広比売が首を傾げ、そしてとてとて、と葵と勢輔に近付いてきた。そして、葵の水干を掴んでよじ登ると、葵の肩を越えて二人の間に収まり、勢輔に抱き付いた。
「なりしゃん! ぎゅーっ!」
その行動に、勢輔の目が丸く見開かれた。その様子に、葵と穂跳彦が笑う。穂跳彦は、笑いながら近付いてくると、勢輔に視線を向けながら言った。
「なんだか、逃げ回って悪い事しちゃったなぁ。……こうして欲しかっただけなんだな」
そう言うと、葵の肩と勢輔の背に腕を回し、三人にまとめて抱き付いたような恰好になる。勢輔の目が、増々丸くなった。
それに、にっ、と笑みを返し。そして穂跳彦は荒刀海彦に視線を向ける。
「ほら、刀海のおっさんも早く」
「……私に、お前達に抱き付けと?」
「他に何があるってのさ? ほら、早く!」
葵、末広比売、穂跳彦、更に勢輔にまでジッと見詰められ、荒刀海彦は肩をすくめてため息を吐いた。そして、大股で近寄ってくると、穂跳彦の後から、葵と勢輔の背に腕を回した。
「これで満足か?」
呆れたような声で問われ、葵も、末広比売も穂跳彦も、くすぐったそうに笑いながら頷く。その様子を眺めていた勢輔の顔も、幾分かくしゃりと笑った。
ぎこちなくも笑った勢輔に、葵は笑顔を向けて言う。
「ほら、ここなら皆、君を受け入れてくれる。こうやって、笑い合う事もできるんだよ! だから……もう大丈夫。君はもう一人じゃない……もう、寂しい思いをしなくても、良いんだよ」
「……ん」
勢輔は頷いた。何度も何度も、頷いた。そしていつしか、ぽろぽろと温かみを帯びた水が、葵の頭に降ってくる。
勢輔が、本格的に泣きだしたのだ。安堵や嬉しさや……その他、様々な想いが綯交ぜになって、勢輔の涙となっている。
それを拭い取る事もせず、葵は優しく勢輔の腕を撫でる。葵の肩の上に身を乗り出した末広比売は、勢輔の頬を、穂跳彦と荒刀海彦は、その背中を。
勢輔が泣き止むまで、優しく撫で続けた。
優しく、優しく。いつまでも。