平安陰陽騒龍記 第二章
19
白い、白い。霧と光が混ざり合ったような、いつもの白い空間。葵は目を開け、ぐるりと辺りを見渡した。
荒刀海彦がいる。末広比売がいる。穂跳彦がいる。そして。
「……やぁ」
少々ぎこちない所作で、葵は己の内の、新たな住人に声をかけた。あの、猪の霊、勢輔に。
予想に反して、勢輔は体の大きな青年の姿をしていた。惟幸の「生まれたてのように感じた」という言葉から、末広比売のように幼い姿を想像していたのだが。
背は恐らく、荒刀海彦よりも高い。全身に余す事無く筋肉を纏っており、日によく焼けたような赤がね色の両腕は、丸太のように太かった。
その正体に関係しているのだろう。全身が、非常に硬そうだ。そして、腰まであるぼさぼさの赤茶けた髪を、まとめる事もしていない。
服は荒刀海彦と似たような物を着ているが、大きく胸元が開き、立派な胸筋が見える点が大きく違う。
勢輔は葵の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。逞しい顔付きだが、どこか頼りなさそうな……少し泣きそうな目が、葵を見詰めた。
「……勢輔」
遠慮がちに、葵は名を呼んだ。呼ばれた勢輔は、泣きそうな目を少しだけ丸くし、不思議そうな顔をしている。葵は、苦笑してもう一度「勢輔」と名を呼んだ。
「君の名前だよ。……勿論、君が気に入ってくれれば、なんだけど……」
勢輔の目が、更に丸くなった。問いかけるようなその目に、葵は「うん」と頷く。
「大丈夫だよ。君は、ここにいて良いんだ。そのために、君をここに呼んだんだよ」
その言葉に、勢輔の目から涙があふれ始めた。そして、両腕を開くと、ぎゅっと葵に抱き付いてくる。勢輔は大きい。葵も、同年代の者と比べればそれほど小さい方ではないはずなのだが、それでもすっぽりと腕の中に納まってしまう。まるで、子どもが大きな人形を抱えているような様子になった。
「……ん」
短く、唸るように声を発して、勢輔は頷いた。そして、葵に抱き付いたまま、何度も「ん」「ん」と声を発する。
「声は出せるようだが、言葉を話す事はできないようだな」
「こっちの言葉は通じてるみたいだけどねぇ」
「なりしゃん、おしゃべりできないの?」
葵達を取り囲むようにして様子を窺っていた荒刀海彦達が口々に言う。それに頷いて、葵は言った。
「それは……仕方無いんじゃないかな? 勢輔は、声を出せるだけでも凄い存在なんだと思うよ」
そして、己を抱きしめる、勢輔の太い腕に触れてみる。見た時に感じた通り、鋼のように硬い腕だ。
葵は顔を上に向け、勢輔の顔を見る。未だにぼろぼろと涙を流している勢輔に、葵は問うた。
「……多分、勢輔の正体は……伯耆国で一度は大国主神の命を奪った、焼けた岩」
その言葉に、勢輔がびくりと震え、固まった。
勢輔の様子に、己の予想が正しかった事を確信しながら、葵はまた「大丈夫だよ」と言う。そして、赤がね色の腕を、優しく撫でてやるのだった。