平安陰陽騒龍記 第二章









18










葵が惟幸の庵で目覚めたのは、それから七日後の事だった。まずは元気になる為の力を蓄えねばならぬと、皆は何も言わずに飯を突き出してくる。

惟幸の妻、りつが大鍋に作ってくれた粥(しるかゆ)を、病人だというのに出されるままに一人で平らげ、更に野菜の入った羹も二杯、三杯と胃に収める。

ただでさえ、荒刀海彦が葵の中で目覚め、末広比売を取り込み、穂跳彦にも入り込まれた事で、体力の消耗が激しくなり、食事量が増えている。

それに加えて、猪と対峙するために荒刀海彦が本気を出し、新たな魂魄を迎え入れ、更に穂跳彦がその力を行使した。穂跳彦の力は体の傷を癒してくれるが、その分、消耗も激しくなるらしい。

嘗て無いほどの量を食べ終わり、人心地がついたところで、葵はその場にいた者達に囲まれた。

弓弦、紫苑、虎目、惟幸、盛朝が、葵の事を睨むように見詰めている。そして、部屋の隅では栗麿が小さくなりながら様子を窺っていた。

誰も、何も言わない。ただ睨んでくる。だからこそ余計に、気まずい。

沈黙に耐え切れず、葵は「あの……」と口を開いた。

「ごめんなさ……」

謝罪の言葉を最後まで言い切る前に、ぱん! という乾いた音が響き渡った。一呼吸の間を置いて、葵の右頬がじんじんと熱と痛みを帯びてくる。平手打ちをされたのだ、という事に気付くまで、しばしの時間がかかった。

恐る恐る視線を前に戻すと、そこにいたのは弓弦でも紫苑でもなく、惟幸だった。左の手のひらが、少々赤くなっている。平手打ちをしたのは、惟幸で間違い無さそうだ。

「と、父様……?」

紫苑が、面食らった顔をしている。紫苑だけではない。弓弦も、虎目も、栗麿も。普段は穏やかで怒る事の無い惟幸が、葵を引っ叩いたという事実に、皆が唖然としていた。

ただ盛朝だけは、やり過ぎを抑えるためか、いつでも動ける体勢を取って構えている。

だが、盛朝の心配は杞憂であったらしい。惟幸は左手を下ろすと、ふー……と、己を落ち着かせるように深く息を吐いた。

「……ここにいる、皆が心配したんだよ?」

ぽつりと、静かな声で惟幸は言う。葵は、きゅっと胃を掴まれたような感覚を覚えた。その後も惟幸は、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「葵は覚えていないかもしれない。けどね、黒焦げになってしまった葵の事を見た時、皆がどんな思いをしたと思う?」

心配では、済まなかっただろう。……という事はわかる。周りの者達の表情を見れば……惟幸の声が微かに震えているのを聞けば、嫌でも思い知らされる。

「僕は、話を紫苑達から聞いただけだよ? 聞いただけで、無茶をし過ぎだと思わされるような話だった。……どうしようもない状況に追い詰められた結果だったのなら、まだ多少なりとも納得はできる。思わず、体が動いて無茶な事をしてしまったのであれば、怒るのも我慢しようかと思える。でも……あの場所に行く前、葵は「考えている」と言ったよね? 最初から、表に出て、生身で猪と組み合うつもりでいたって事だよね……?」

考えてしまった事は仕方が無い、と惟幸は言う。しかし。

「何で、それを実行しようと思っちゃったのかな……? 何でそれを、僕達に内緒にしたのかな?」

「……話したら、絶対に止められると思ったので……」

「当たり前でしょ!」

惟幸が、怒鳴った。その声に紫苑達はびくりと震え、こそりと立ち上がってこの場から離れようとする。弓弦は葵の事が気掛かりな様子だったが、それを盛朝が促して外へ出した。後には、葵と惟幸だけが残される。

惟幸はしばらく渋い顔をして黙っていたかと思うと、小さくため息を吐いた。

「……末広比売の時に、無茶をする事で皆に心配をさせる事はもう知っていた筈だよね? それなのに、今回も無茶な事をした……。そうする必要があったという事? 直接、葵があの猪に触れて、名前を呼んであげる必要が?」

その問いに、葵はしばし迷い、そして頷いた。恐らく、惟幸は葵の行動の意図を見抜いている。

「そうしなければならないと……思いました……」

「……そう……」

諦めたように呟き、惟幸はもう一度ため息を吐く。

「あの猪の正体に、関係ある事なんだね? そして恐らく、穂跳彦が狙われるようになった理由にも」

「……はい……」

葵は頷き、惟幸は「そっか……」と呟く。そして、いつもの穏やかな顔に戻り、少しだけ苦笑を浮かべると、葵の頭を軽く撫でた。そうしてから、ぎゅっと抱きしめる。

「とにかく、生きていてくれて良かった……。葵が目覚めるまで、本当に生きた心地がしなかったんだよ? 僕も、紫苑達も……。たかよしも、日に何度も式神で文を寄越して、容体を訊いてきて……」

そう言ってから、「あ」と呟く。

「心配してたって事は、口止めされてたんだっけ」

恐らく故意であろう暴露に、葵は思わず苦笑する。少し頬の肉が引き攣ったように感じたのは、この七日間、ずっと眠っていたからか。それとも、惟幸達への申し訳無さからか。

そんな葵から体を離し、惟幸は苦笑して見せる。

「とにかく、今はゆっくりと休んで、体力を取り戻す事。僕があれだけ怒ったから、もうこの後、紫苑達に怒られる事も無いと思うよ」

だから安心しておやすみ、と惟幸は言う。

惟幸が怒っていたのは、本当だろう。そして、いつもなら隠してしまうその怒りを表に出す事で、大勢から寄ってたかって責められる事を避けてくれたのだ。

その事に気付き、葵は静かに頭を下げる。その頭を、惟幸はもう一度優しく撫でた。

「眠っている間に、あの猪の魂魄と話してみると良い。……呼び込む時に、名前を呼んだんだって?」

「……はい」

横になり、早くも襲ってきた眠気と戦いながら、葵は呟く。

「ナリスケです……勢い良く走る、猪の、勢輔……」

そこまで言葉を吐き切ると、葵の目はそのまま閉じられた。その寝息を聞き、頭を三度撫でて……惟幸は立ち上がると、静かにその場を離れていった。










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