平安陰陽騒龍記 第二章
16
山の頂に近い、開けた場所があった。その中央に穂跳彦が体の主導権を握っている葵が立ち、左右を守るように弓弦と紫苑が立つ。そして、そこへと至る山道には、惟幸と盛朝。
待ちぼうけになる事は心配していない。休む間もなく追ってきたと、穂跳彦は言っていたのだから。
それよりも、この場の気の方が心配だ、と葵は思う。
予測していた事だが、鬼が出る。それを、盛朝が斬り伏せ、惟幸の式神達があしらい、惟幸が術で調伏する。それを繰り返せば繰り返すほど、鬼の残していった邪念や瘴気がその場に溜まっていく。
邪念や瘴気が溜まったこの場所に、あの猪が現れたらどうなるか……? 以前、瘴気にまみれた末広比売は苦しみ暴れて、相対した葵や弓弦を苦しめた。あの猪の霊が、同じような事になってしまわないとは限らない。
邪念や瘴気があまり溜まらないうちに……早く、この場に現れて欲しい。
「正直なところ、オイラも早くあの猪には現れて欲しいよ。このまま冷や冷やしながら待ち続けるのは、心の臓に悪過ぎるからさ」
『早く現れてくれれば、それだけあの猪に苦しい思いをさせなくて済む……よね?』
「今一番心配すべきなのは、葵が無事に帰れるかどうかなのに……お人好しだねぇ」
葵の顔で苦笑した穂跳彦が、不意に表情を引き締めた。耳を澄ましているその様子に、弓弦と紫苑、虎目の顔も険しくなる。
『穂跳彦?』
「……音がする……」
そう呟き、穂跳彦は押し黙る。弓弦達も、耳を澄ました。
たしかに、聞こえる。どどどどど……という、地響きが。そして。
「ふぉぉぉぉぉぉっ!?」
聞き覚えのある、悲鳴が。
「うげっ……」
穂跳彦が、思わず舌を出して呻く。弓弦、紫苑、虎目も苦い顔をし、あるいは眉間や口角を引き攣らせた。
『穂跳彦も、栗麿の扱いが……』
「いや、だってさ。あいつ、どう見ても余計な事しいの疫病神じゃないか!」
「全くもって、その通りでございます!」
「いつもいつもいつも、肝心な時に邪魔ばっかりして!」
「今回は何をやらかしたんにゃ、あの馬鹿!」
穂跳彦は葵の顔で叫び、弓弦達は目を剥いている。
『人が好いお前はあの馬鹿を擁護したいだろうが、これが現実だ。そろそろ受け入れて、たまにはあの馬鹿を懲らしめてやれ。何なら、猪と対峙するどさくさに紛れて痛い目を見せれば良い』
『荒刀海彦まで……』
『おとうしゃん、いのしーしゃん!』
末広比売の言葉に、葵、荒刀海彦、穂跳彦はハッとした。地響きと栗麿の悲鳴が、近付いてきている。
「栗麿はボクが何とかするよ! 弓弦ちゃんは葵をお願い!」
「かしこまりました!」
頷き合い、弓弦と紫苑が構える。
やがて、めきめきと音がして、遂に音の主達がその場に姿を現す。予想通り、あの猪の霊と思われる砂埃と、それに追われる栗麿だ。
「この馬鹿! 何でこんな厄介な事になってるの!」
まずは一言、言ってやらねば気が済まなかったらしく、紫苑が怒鳴る。すると、栗麿はもの凄い勢いで走りながら、涙声で叫ぶ。
「悪鬼の形相をした瓢谷から逃げ出したら、たまたま遭ってしまったでおじゃる! そしたら、何故かこうして追ってきたんでおじゃるーっ!」
『くりしゃん! ちょっとだけほーしゃんと、おなじにおい!』
『恐らく、あの馬鹿に穂跳彦の気配がいくらか移っていたのだろうな。あの猪は穂跳彦を追っていた……。穂跳彦を迎え入れた葵が京から出てしまった以上、京の中で最も穂跳彦の気配を強く漂わせていたのが、あの馬鹿だったという事か』
納得した様子の荒刀海彦の気配に、穂跳彦は複雑そうな顔をして項垂れる。
「結局オイラ狙いなのかぁ……」
葵の姿で情けない声を発する穂跳彦を尻目に、紫苑が数珠と呪符を取り出した。そして、猪ではなく栗麿に向かって朗々と唱える。
「臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」
途端に強烈な風が吹き荒び、栗麿に向かってぶつかっていく。栗麿の足がふらつき、体勢を崩したところで、紫苑は栗麿に向かって呪符を投げ付けた。呪符には、「爆裂符」などという物騒な文字が書かれている。
呪符は栗麿の足下に落ちると、派手な音と光を発して強烈な衝撃を発した。
「ふぉぉぉぉぉっ!?」
叫び声と共に、栗麿が吹っ飛ぶ。今まで追っていた者がいなくなった猪は一瞬戸惑うような動きを見せたが、すぐに穂跳彦の気配に気付き、進行方向を変える。
紫苑は、栗麿がまた余計な事をしないよう、取り押さえに走った。弓弦が、葵の体の前に立ちはだかる。猪は、弓弦の存在など気にもかけぬかのように、突っ込んでくる。
弓弦が、己の右腕を撫でた。きらきらとした光が生まれ、そして袖口から覗く白い腕に青い鱗がびっしりと生え、指先に鋭い爪が伸びる。腕だけが、元の龍の姿に戻ったのだ。
まずは、葵にぶつかる前に猪の勢いを殺そうと、弓弦が腕を構える。その様子を傍から見ていた虎目の目が、きゅっと細められた。
「駄目にゃ! 弓弦、葵も! 避けるにゃ!」
叫び声に、弓弦と、穂跳彦が表に出ている葵がハッとする。……いや、いつの間にか、葵は葵に戻っている。目の色が、赤くない。
猪は、既に眼前まで迫っている。
「弓弦!」
葵が叫び、そして弓弦を突き飛ばす。両腕が、荒刀海彦の龍の腕になっている。目も、金色でぎょろりとした物に変わっている。荒刀海彦が、体の主導権を握ったのだ。
龍宮の武士(もののふ)と呼ばれた荒刀海彦の力で突き飛ばされては、娘の弓弦はひとたまりもない。
弓弦は猪と対峙する場から弾き出され、そして突進してくる猪と、荒刀海彦が表に出た葵ががっぷりと四つに組む。
組んだ事で、猪の動きが完全に止まる。砂埃が収まり、猪の姿が遂に現れた。
赤い、赤い猪だった。四足は全て地についているというのに、それでも目が葵と同じ高さにある。大きな猪だ。そして、動物らしからぬ硬さを持っている。
猪に組み付いた両の腕が、あっという間に赤くなる。焼けた鉄なのではないかと思わせるほどに、猪は熱い。
「……ぐっ……!」
蒼い鱗が焼けただれて次々と剥がれ落ち、荒刀海彦がうめき声をあげる。内では、葵と穂跳彦、末広比売も苦しげな声を発した。
「葵様! 父上様!」
弓弦の叫び声に、荒刀海彦がゆっくりと目を瞬いた。そして、再び開いた目は……金色ではない。赤でもない。葵の目に戻っている。葵が、体の主導権を取り戻したのだ。
『葵!?』
非難がましい声が内から響く。その叫びを、葵は聞いていない。聞こえない。
荒刀海彦が体の主導権を手放したために、腕は人間の物に戻ってしまっている。腕はあっという間に焼けただれ、水干はくすぶり始め、終いには胸まで焼け始める。
「葵様! 何を!?」
「何やってるにゃ!」
弓弦と虎目の声も、聞こえない。痛みと熱さと、力負けしたためにかかる猪の圧力に、葵は悲鳴をあげた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫び、だが歯を食いしばる。その様子に、猪の動きが一瞬だけ、緩んだ。
その隙を感じると、葵は焼け始めてしまった顔で苦しげながらも微笑む。そして、猪に向かって叫んだ。
「おいで、ナリスケ!」
その声が響くなり、猪の体から真っ白い魂魄が飛び出してくる。それは宙で一瞬迷ったかと思うと、凄まじい勢いで葵に突進し、そして中に入っていく。
魂魄が体内に消えるのを待っていたかのように、葵は苦しげに呻くと、そのまま倒れ伏した。同時に、ごとり、と音がして猪の体も地に伏せる。
その倒れ伏した猪の姿に、その場にいた者達は目を丸くした。倒れたそれは、既に猪ではない。ただの、湯気を立てている巨岩だ。
「……葵様……?」
弓弦の呟きに、紫苑達はハッと我に返った。皆、急いで葵の元へと駆け寄る。だが。
そこに……巨岩の元にあったのは、黒く焼け焦げ、ピクリとも動かなくなっていた葵の身体だった。