平安陰陽騒龍記 第二章









15










山の中に、ぽつりと明かりが見える。それを目印に、弓弦は降下し始めた。

明かりの元にいたのは、生身の惟幸だ。横には盛朝の姿も見える。明かりは、盛朝が持つ松明から発せられていた。

地面に近付くにつれ、弓弦の姿は次第に小さく、人の姿へと変わっていく。葵と紫苑、虎目は弓弦から飛び降り、着地すると同時に弓弦は完全に人へと変わり切った。

「惟幸師匠! 盛朝さんも……」

駆け寄ると、惟幸は顔を綻ばせて葵と紫苑の頭を撫でる。それから、顔を険しくして葵の目を真っ直ぐに見た。

「たかよしからの文で、大体の事情は聞いたよ。……あの猪の霊と、真っ向から向き合うつもりだってね?」

「……はい」

真剣な顔をして頷く葵に、惟幸は「あまり感心はできないなぁ」と言う。

「それをする事で、たくさんの人を心配させるよ。それはわかってるんだよね? 弓弦も紫苑も、虎目の事も心配させる。僕や盛朝だって、心配だよ。たかよしだって、口では何を言っても実際は心配していると思う」

そう言われて、葵の目が一瞬揺らいだ。だが、その揺らぎはすぐに消え、葵は決心した顔で力強く頷く。

「俺の勘ですが、あの猪の事、一人にし続けちゃいけないと思うんです。……ずっと一人でいるのが耐えられないって、やっぱりあると思うんです。人にもよるんでしょうけど……。それで、誰かに構って貰いたくなって、暴れたり、泣いたり……」

「今あの猪の霊が穂跳彦を追い掛け暴れているのは、寂しいから、構ってもらいたいから。……葵様が仰りたいのは、そういう事でございますか?」

葵は、こくりと頷く。目がどことなく、寂しそうで、それでいて懐かしそうだ。

「……俺もさ……寂しくて、泣いてたから。紫苑姉さんや虎目、師匠達がいなかったら、泣くだけじゃ済まなかったかもしれない。そう考えると、やっぱり……放っておけないんだ」

葵は、素性がわからない。幼い頃に何事かによって家族と生き別れ、記憶も全て失ってしまった。それを引き取り育て教えてくれているのが、隆善だ。葵という名も惟幸が名付けたもので、本来の名ではない。

その事情を思い出したのか、一同は揃って押し黙る。皆、ここまで来ながらもどうにか葵に思いとどまらせる事はできないか、と考えていた。だが、葵の過去の話を持ち出されてまで言われてしまっては、もう説得するすべは無い。

「それで……これからどうするつもりなのかな?」

惟幸に問われ、葵は思案する顔になる。そして、ここへ来るまでの間に考えていた事を、まとめながら口にした。

「まずは、山の上の方とか……どこか、人里からできるだけ離れた場所へ……。そこで、穂跳彦に体を明け渡します。猪の狙いは穂跳彦らしいですから、穂跳彦が表に出ていた方が良いと思うんです」

穂跳彦が表に出ているだけなら、それほど体力を消耗する事も無い。猪が穂跳彦に釣られて近寄ってきたところで、今度は体を荒刀海彦に明け渡す。

「その後はどうなるか……一応考えてはいるんですけど、多分、一か八かになると思います」

そう言うと、葵は耳を澄ますような顔をした。そして、す、と目を閉じる。

再び目を開くと、その色は赤になっている。穂跳彦だ。

「一応、オイラの方にも考えはあるよ。上手くいくかわからないし、期待させるといけないから、詳しい事は言えないけどさ」

だから、まずは葵の好きなようにさせてやってくれ。そう、穂跳彦は言う。

そこまで言われて、しかも代案は無い。弓弦達は顔を見合わせ、そして不承不承頷いた。

葵に無茶をさせるのは気が進まない。だが、このまま猪を放っておくのも、たしかに良い事では無いのだ。穂跳彦が葵の中に入ってしまった以上、調伏しない限り猪は葵を狙い続ける。簡単に調伏できる相手ではないという事は、今までの経緯から周知の通りだ。

「なら、ボク達にできる事は、何が何でも葵に余計な無茶をさせない事……だね!」

「左様でございますね。葵様と穂跳彦には、囮以外の役目を一切させないようにするべきかと」

紫苑と弓弦の言葉に頷き、惟幸は盛朝の方を見る。

「勿論、やる以上は僕達も支援をするよ」

「鬼や妖が出たら、全て俺達に任せろ。お前達は、その猪だけに集中していれば良いからな」

「……と言うか、鬼の邪魔を心配するにゃら、惟幸は庵の中に引き籠っていた方が良いんじゃにゃーか?」

どこか呆れたような顔で、虎目は言う。一理ある話だ。何せ惟幸は、若い頃の行動が原因で、常に鬼に命を狙われている身である。

鬼達の間では、惟幸の肉を食べれば寿命が延びるという話がまことしやかに囁かれているらしい。勿論そんな事は無いのだが、迷惑な話だ。

そんな惟幸が夜に外を出歩いていれば、当然それを狙って鬼達がやってくる。それなら、最初から結界の張られた庵で待機していてくれた方がまだ良いだろうと虎目が考えるのも、至極当然の事である。

すると、惟幸は苦笑しながら首を振った。

「たしかに、僕が外にいたらそれだけで鬼は増えるよ? けど、庵に引き籠っていても、根性のある鬼は出てくるし。それより何より、僕がいてもいなくても、鬼は出る時は出るものだからね。なら、最初から外にいて、片っ端から鬼を調伏した方が助けになるんじゃないかな?」

「お前達はそうは思ってないかもしれないけどな……惟幸ほどじゃなくても、お前達も充分鬼に狙われ易い存在なんだ。どちらがより危険かと言ったら……多分、惟幸を引き籠らせておく方が危険だと思う」

惟幸の血を引く紫苑。龍宮からやってきた龍の子であり、神気を蓄えている弓弦。そして、神に近い存在である魂を三人もその身に宿し、その影響で神気を身の内に持っている葵。

如何にも寿命が延びそうであり、しかも若い。鬼達から見れば、三人とも涎を禁じ得ないほど美味そうに見える事だろう。

惟幸がいなければ、鬼達の興味は自然と葵達に向く。あの猪と対峙するのに、邪魔になるのは必至だ。逆に言えば、惟幸が外に出ていれば、鬼達はまず惟幸を狙う。

そして、調伏に関しては最強であるとも言える惟幸なら、大概の鬼は瞬く間に調伏してしまう。こうして話している間にも実は先ほどから鬼が出ては襲い掛かってきているのだが、惟幸は振り向く事も無く呪符を投げ付けてはさくさくと効率良く調伏しているという有様だ。

たしかに、惟幸と盛朝の支援は素直に受けた方が良さそうである。納得した様子で虎目が頷き、葵は惟幸達に礼を言う。

そして一同は、頷き合い。あの猪の霊を迎えるべく、ひと気のない場所へと向かった。









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