平安陰陽騒龍記 第二章
13
夜の帳が落ち、京は闇に包まれた。それは瓢谷隆善邸も例外ではなく、寝殿に置かれた燈台の微かな燈火以外に光源は無い。
階を降り、暗闇の中、弓弦が一人庭の中央へと歩む。そして、両の腕を宙に突き出したかと思うと、その腕は指の先から次第にきらきらと蒼く輝き始めた。
白い腕に、蒼い鱗が生え始める。細くしなやかな指先に、鋭い爪が生える。弓弦の身体全体が蒼い光に包まれ、人の形を取っていた光の塊は次第に大きく、長くなっていった。
葵達は、弓弦の発する光の眩しさに、思わず目を眇める。そして、やがてその光が次第に収束していき、その場が再び濃い闇に包まれた時。
そこにいたのは、一匹の蒼く美しい龍だった。あまりに美しいその姿に、その場にいる者達は思わずため息を吐く。
弓弦は、元はと言えば龍宮に住まっていた龍の子。子どもであるが故、普段は弱い人の姿をしている。しかし、一時、龍脈に繋がる川や井戸から神気を取り入れれば、その姿は正体を現し、強く美しい龍と化す。
「昼間のうちに、龍脈に繋がる井戸へと赴き、たっぷりと神気を取り込んで参りました。この姿であれば、大猪の襲撃を受ける事も京で騒ぎを起こす事も無く、惟幸様の庵へと行く事ができましょう」
そう言って、弓弦は己の背に視線を向ける。それから、その視線を葵へと向けた。
どうやら、己の背に乗れ、という事らしい。たしかに龍と化した弓弦は空を飛ぶ事ができる。空を飛んでいけば、地を走る大猪に襲われる事は無いだろう。
「だから夜って言ったんだね。昼間にその姿で飛んだりしたら、大騒ぎになっちゃうし」
納得した様子で、紫苑が頷きながら弓弦に近寄った。どうやら、着いて来る気満々のようだ。弓弦も、特に異存は無いらしい。出向先である庵の主、惟幸は紫苑の実父だ。紫苑が行ったところで喜びこそすれ、迷惑がる事は無いだろう。……危ない事に首を突っ込むなと渋面を作る事はあるかもしれないが。
紫苑が真っ先に弓弦の首元に跨り、虎目を引っ掴んで己の前に座らせる。
「……にゃんでオイラまで……」
「もしもの時は、虎目の未来千里眼もあった方が良いからさ。それにやっぱり……万が一何かの手違いで栗麿が向こうに現れたりしたら、虎目もいた方が良いし」
「にゃんでオイラにあの馬鹿の相手をさせる事前提で話を進めるにゃ!? ……と言うか、嫌にゃ! 万が一でもあの馬鹿が現れる可能性があるにゃら、オイラは絶対! 行きたくにゃいにゃー!」
「けど、そう言ってこっちに残ったら、逆にこっちに栗麿が来たりして……」
「嫌にゃ事を言うにゃー!!」
暴れて騒ぐ虎目に、隆善が煩そうに顔を顰めた。
「虎目。そんなに嫌なら、今すぐお前の目で見てみりゃ良いだろうが。こっちに残るのと、あっちに行くの。どっちに行きゃあ、あの馬鹿から逃れられるかをな」
言われて、虎目はすぐさま真剣な表情で宙を睨み始めた。そして、絶望を滲ませた顔で呆然と呟く。
「にゃ……どうにゃってるんにゃ、これは……。にゃんでどちらに行っても、あの馬鹿が現れるフラグが立ってるにゃ……!?」
その言葉に、葵達は皆揃って「え……」という言葉を発した。どちらにいても、栗麿が現れる。一体どういう事なのだろうか……。
「決まりだな。どちらに行ってもあの馬鹿が出るなら、せめて葵についていって、文字通り猫の手でも貸して来い」
そう言われて、虎目は渋々ながらも大人しくなる。大人しくなった虎目の前に、紫苑は葵を座らせた。
「いつまた体調を崩すかわからないもんね。葵は、しっかり弓弦ちゃんの鬣に捕まっててよ! ボクも後ろから支えてるからさ」
力強く言う紫苑に、葵は苦笑しながらも頷く。どうやら、本格的に全員から病弱であると認定されつつあるようだ。
「それでは、参ります!」
弓弦が鋭い声を発し、その身体がふわりと宙に浮かび上がる。蒼い体はどんどん高度を上げていき、築地塀にも門にもぶつからないであろう高さまで上がった途端に猛烈な勢いで前進し始めた。
「うわっぷ!?」
思わず葵がのけ反ると、その勢いで紫苑と虎目もややのけ反った。耳元を、風が唸る轟々という音が掠めていく。
「口を閉じ、できる限り伏せて姿勢を低く保ってくださいませ! 下手に動けば、舌を噛み切ってしまう可能性もございます!」
忠告の言葉に、二人と一匹はきゅっと口を結ぶ。全員が声を発する事ができずに無言となったまま、弓弦は真っ直ぐに飛び続けた。