平安陰陽騒龍記 第二章
11
「猪だぁ?」
目覚めた葵の口を借りて話す穂跳彦に、隆善が不機嫌そうな声を発した。穂跳彦は、葵の姿のまま「うん、そう」と頷く。見た目の歳が近いからか、荒刀海彦や末広比売が表に出ている時よりも違和感は少ない。しかし、目の色が赤くなっているという点だけは、荒刀海彦の時よりも違和感が強いかもしれない。
「伯耆国(ほうきのくに)の方から来た、大猪。あいつが因幡国まで来てさ。何故かそこで、目を付けられちゃったみたいで。追い掛けられて逃げ回って、気付いたら山背国(やましろのくに)まで来ちゃってたってわけ」
山背国というのは、京の事だ。地名の呼び方に、穂跳彦が古い時代の霊なのだという事を実感させられる。
「けど、栗麿の話だとさ、その大猪って、夜は栗麿の邸の床下で休んでたんでしょ? だったら、その間に逃げれば良かったんじゃないの?」
紫苑が問うと、穂跳彦は「それがさぁ……」と頭を掻いた。どうやら、一筋縄ではいかなかったようだ。
「あいつが休んでる間に逃げても、すぐに追っかけてくるんだよね。しかも、どこに逃げても必ずオイラを見付け出すし、他に何があっても、絶対にオイラだけを狙ってくるの」
オイラが何をしたって言うんだ! と叫びながら勢いよく立ち上がり、穂跳彦はへなへなと座り込んだ。急に立ち上がった事で立ちくらみを起こしたらしい。それでなくても、葵の体はまだ回復しきっていない。
「とりあえず、穂跳彦だったか? お前は、もう引っ込め。煩ぇし、そんな調子じゃいつまで経っても葵が元に戻らねぇ」
本気で煩がるように隆善が言うと、穂跳彦は「はいはい」と言って笑った。そして、にこにこと笑いながら周囲の顔を見渡す。隆善、弓弦、紫苑、虎目、惟幸、栗麿の顔を順に眺めて、くすぐったそうに呟いた。
「たくさんの人が心配してくれてる。愛されてるねぇ」
そう言って目を閉じ、再び開いた時にはいつもの葵の顔になっている。頬が、薄らと赤くなっていた。
「また、随分と愉快にゃ奴を入れちまったにゃー、葵?」
「うん……けど、嫌な感じはしない……かな?」
照れ臭そうに言い、そして「あ」と呟いた。
「奥の方で、早速荒刀海彦をからかってるみたい。それを見て、すえが笑ってる」
栗麿が「ふぉー……」と感心したような声を発した。
「葵……すっかり自分の中に別の魂がいる事に慣れているでおじゃるなぁ……」
「そうだねぇ。……そう言えばさ、葵。さっきから荒刀海彦達と話したりする場所の事を邸に例えてるけどさ、そんなところで、どうやって体を使う主導権みたいな物を決めるの? 葵が主人ってのはさっきも聞いたけど……」
荒刀海彦や末広比売、穂跳彦が表に出ている時は彼らのうちの誰かが主人のようになっている、という事だ。
そして、荒刀海彦の力を使えるのは荒刀海彦が主人になっている時だけ……と思いきや、最近では葵が主導権を握ったままでも多少の大力なら使えるようになっている。それでなくても、初めて荒刀海彦がその存在を表した時、葵が喋っているにも関わらずその腕は龍のそれになっていた。
それが紫苑は気になっているらしい。
すると、葵は「えぇっと……」と言いながら書く物を探し始めた。弓弦に筆と反古を手渡され、礼を言ってから何かを描き始める。
どうやら、邸の見取り図のような物らしい。寝殿と北対屋、東西の対屋が描かれている。寝殿と思われる部分の真ん中には、小さな四角が描き足された。
「えぇっと……俺の中がこの邸みたいな感じだとして、普段は俺がこの寝殿部分に常駐しています。荒刀海彦達は、寝殿以外の好きな場所にいるような感じですね。すえは北対屋にいる事が多いですけど」
そう言って、寝殿の真ん中に描いた四角の中に「葵」と書き、北対屋の部分に「すえ」「荒刀海彦」「穂跳彦」と書き加えた。
「それで……人格が表に出て、こうやって紫苑姉さんや皆と喋れるのは、寝殿の中でも、この畳部分に座っている時だけ、みたいな感じなんですね」
どうやら、寝殿の中に描かれた四角は畳であったらしい。畳に座るのが荒刀海彦に代われば、表に出てくるのが荒刀海彦に代わる……という事だ。
「けど、能力に関しては、畳の位置にしなくても、寝殿の中にいれば良いみたいなんです。だから、例えば俺が畳に座って、荒刀海彦が寝殿に入っているような感じの状態なら、俺が会話しながらでも荒刀海彦の力を使えるみたいです」
ただ、全力を出すためには荒刀海彦が畳に座る必要がある……とも、葵は言った。荒刀海彦の位置が畳に近ければ近いほど、使える力も大きくなる、とも。
そして荒刀海彦が畳に座った状態で力を使えば、葵の体が酷く消耗してしまうというのは先刻承知の事である。
そこまで話して、葵は大きく息を吐いた。表情に、疲れが見える。
「葵様……そろそろ休まれませんと……」
心配そうな弓弦の声に、隆善が頷いた。
「そうだな。葵、お前は走り回れるぐらいになるまでは、とりあえず寝てろ。その間の飯当番ぐらいは、紫苑と弓弦が引き受けろ」
当然、と言うように紫苑と弓弦が頷く。それを確認してから、隆善は更に言った。
「掃除は、そこの馬鹿がいるしな」
「何で麿が、瓢谷の邸を掃除しなきゃいけないんでおじゃる!?」
抗議した瞬間に、隆善は栗麿の頭を烏帽子ごと掴んだ。相変わらず、手が大きい。
「そもそも、こうなったのは誰が原因だ、あぁ? てめぇが馬鹿みてぇに京中を逃げ回って、挙句葵を巻き込んだからだろうが。侘び代わりに掃除の一つや二つやれってんだよ、それでも掃部寮の大允か? あ?」
「い、いいい今は役職は関係無いでおじゃるぅぅぅ!」
叫びながらも、既に栗麿の腰は引けている。恐らく、しばらくの間は瓢谷邸をいやいやながらも掃除する栗麿の姿を見る事ができるのだろう。
「けど師匠、猪は何故か穂跳彦を狙ってるみたいですし……俺の中に穂跳彦がいる今は、俺がこの邸にいたら猪がこの邸に突っ込んでくるんじゃ……」
恐る恐る葵が問うと、隆善は「させるかよ」と不敵に笑った。
「何のために、邸の周りに結界を張ってあると思ってんだ? そんじょそこらの霊じゃ、突っ込むどころか近付く事だってできやしねぇよ。現に、お前が寝込んでからこれまで、一度も大猪が突っ込んできた事なんか無ぇしな。それに、もし突破されそうにでもなったら、そこの而立越え童がどうにかするだろ」
『……ツッコミどころはたくさんあるけど……たかよし? 結界でも止められない霊に対する防衛を、全部僕に丸投げするつもり?』
苦笑しながらも抗議の言葉を発する惟幸を、隆善は睨み付けた。そして、挑発するように鼻で笑う。
「お前と違って、俺は務めがあるんだよ。文句があるならとっとと元服して大内裏に参内しろ、この而立越え童」
『一応僕も、薬草を育てたり探したり、薬を作ったりって仕事をしてるんだけどなぁ……』
「帰ってきたら代わってやるよ。日が昇ってから俺が帰るまでは任せた」
『相変わらず強引で勝手なんだから』
呆れた様子で言う惟幸に、隆善は眦を吊り上げた。かなり不機嫌そうな顔だ。
「お前が言うか、この出奔而立越え童。グダグダ言ってると、本当にそのうち呪い殺すぞ」
『ただでさえおかしな二つ名を進化させないでよ。それと、友達を呪詛返しで殺したくないから呪わないで欲しいって、何度言ったら……』
二人の師匠の子ども染みた口喧嘩に、葵は苦笑した。弓弦と紫苑は呆れた顔でそれを眺め、虎目と栗麿は楽しそうにニヤニヤと笑っている。己の内を窺ってみれば、荒刀海彦は呆れているし、末広比売は楽しそうにしているし、穂跳彦は爆笑している。
心地よい笑いの気配にホッと息を吐き、葵はゆっくりと床に横になった。やはり疲れが溜まっていたのか、横の騒がしさも気になる事無く、すぐに瞼が重くなってくる。
弓弦か、紫苑か――恐らくは弓弦だろう――着物を引き上げて掛けてくれた気配があった。微睡みながらも「ありがとう」と呟き、そのまま葵は深い眠りへと落ちていった。