平安陰陽騒龍記 第二章
5
「う……」
頭に冷たい物を感じ、葵はゆっくりと目を開いた。
ぼんやりと天井が見える。見覚えのある調度が見える。そして、心配そうな弓弦の顔が見えた。
「……気付かれましたか?」
「俺……」
起き上がろうとして、酷い眩暈を感じた。起き上がるのを諦めて首だけを動かすと、湿った手巾が、顔の横に落ちる。どうやら額を冷やされていたらしい。
「三日前に八条大路で、近頃世間を騒がしている築地塀壊しの下手人であろう霊魂に出会ったと……」
「……あぁ、そっか……」
思い出した、と葵は呟いた。そこで、「……え?」と目を見開く。
「三日前……?」
「はい。三日間、ずっと意識を失っておいででございました。話は、全て虎目様から……」
そんなに……と葵は呆然として呟いた。たしかに、事前に少々荒刀海彦の力を使って荷物を運んでいた。砂埃の主と戦うために、荒刀海彦に体の主導権を渡し、龍の腕を出現させた。更に、正体の知れない新たな霊魂まで体内に取り込んで……。
そこで、葵はハッとした。今、自分の部屋で横になり、弓弦と話をしているという事は、あの場を切り抜け、無事に帰ってきたという事。
しかし、途中で意識を失ってしまった葵が自力で帰ってきたとは思えない。意識を失うという事は、体の機能自体が停止してしまったという事だ。こうなると、体の正当な持ち主である葵は勿論、体内に宿っている荒刀海彦や末広比売も意識を失ってしまう。だから、荒刀海彦が砂埃の主を倒したり、何とかあの場を離脱して邸に戻ってきたという事も有り得ない。かと言って、栗麿や虎目が何とかできたとも思えない。
「俺……どうやってここまで戻って……?」
「おう、気が付いたか」
簀子縁の方から声が聞こえ、隆善と紫苑、虎目が部屋に入ってきた。後から、栗麿もコソコソと付いてくる。
「師匠……済みません。ご迷惑をおかけしたみたいで……」
「んな事ぁ良い。迷惑をかけてると思うなら、食って寝て、とっとと元に戻れ。良いな?」
「……はい」
横になったまま頷き、葵はふと、先ほど感じた疑問を隆善にぶつけてみる。
「ところで、師匠? 俺、どうやってここまで戻ってきたんですか?」
「ん? あぁ……」
呟き、隆善は辺りを見渡した。そして、何処へともなく「おい」と声をかける。
「隠れてねぇで、出てこい。お前もいなきゃ、話にならねぇ」
『別に隠れてるつもりは無かったんだけどなぁ』
何処からか声が聞こえ、突然目の前に、三十を少し越えた容貌の青年が姿を現した。水干を着込み、髪は髷も結わずに首の後ろで括っている。いい歳をして、まだ元服を済ませていないようだ。
「こ……惟幸師匠!?」
調伏を専門に教えてくれている第二の師匠の出現に、葵は目を白黒とさせた。その様子に、惟幸は苦笑する。
『自分の姿を模した式神だよ。たかよしから文を貰ってね。それも、式神を使って、急いでる様子で』
惟幸は、隆善の事を「りゅうぜん」ではなく「たかよし」と呼ぶ。本来は惟幸の呼び方が正しいのだが、朝廷陰陽師である隆善は呪詛される事を防止するためにも読み方を変えて生活している……のだが、幼馴染の気安さからか、癖が抜けていないのか。惟幸はいつまで経っても、「たかよし」と呼ぶ。そして、そう呼ばれる度に隆善は不機嫌そうな顔をするのであった。案の定、今も不機嫌そうな顔をしている。
「あちこちで壊されているにも関わらず下手人がわからねぇっていうのが引っ掛かってな。お前達が栗麿の馬鹿に振り回されるのはどうでも良いが、念のためにこの而立越え童のチート野郎は呼んでおいた方が良いだろうと思ったってわけだ」
たかよしと呼ばれた意趣返しのつもりなのか、嫌味をふんだんに込めた隆善の言。惟幸が、「あのね……」と呆れた声を発した。
『頼まれた通りにすぐ動いたのに、その言い方は無いんじゃないの?』
「……師匠、父様。そろそろ本題に入った方が良いんじゃないですか? 葵はまだ休ませなきゃいけないですし」
紫苑が焦れた様子で割って入り、隆善と惟幸は揃って「あぁ」と呟いた。
「まぁ、簡単に言っちまうと、惟幸の式神軍団が間一髪で間に合って、葵を回収。砂埃に隠れたよくわかんねぇ奴は式神達の気配に圧されて逃げちまったって話だが」
葵の疑問は、酷くあっさりと解消された。葵は惟幸に視線を向け、助けられた礼を言う。惟幸は、にこやかに頷いた。
『流石に、僕も含めた式神四人が並んだら、相手もびっくりしたみたいだね』
「十中八九、相手がビビったのはお前や明藤じゃなくて、宵鶴だろうけどな」
精悍な武将の姿をした式神、宵鶴。惟幸が使役する式神の中でも最も強い彼の姿を思い出し、葵は何となく納得した。女官姿の明藤や老人の暮亀、そして掴みどころの無い笑みを常に顔に貼り付けている小柄な惟幸は、ひと目見ただけではそれほど脅威は感じないだろう。
顔に出ていたのか、惟幸が「酷いなぁ」と笑った。そして、真面目な顔になると全員に車座になるように言う。起き上がれない葵の傍らに、全員が少し窮屈そうな顔をして座った。式神だからか、惟幸だけは余裕の表情だ。
『どうやって葵がこの邸まで戻ってきたか、がわかったところで、今回の騒動について考えをまとめないとね。まずは、現時点での疑問点を挙げていこうか』
そう言った惟幸が、何かを手に持つ仕草をする。どうやら、山の中の庵にいる惟幸本体が紙と筆を手にしているようだ。
心得たように弓弦と紫苑が立ち上がり、部屋の隅から反古と文机を運んでくる。筆の先が少し毛羽立っている様子に、隆善が顔を顰め、惟幸が苦笑した。
「そろそろ替え時だな。次、市に行ったら適当な筆を探してこい」
『呪符を書く時に、綺麗な線や字が書けるかどうかも効力に影響してくるからね。筆の毛先は気にしなきゃ駄目だよ?』
横になったまま、葵は「はい」と決まりが悪そうに頷いた。そうしている間にも、紫苑が文机の上に反古を敷き、弓弦が硯で墨を磨る。弓弦が、硯で筆の毛先を丁寧に整えた。
『じゃあ、気になる点。まず一つ目。あの砂埃に姿を隠した何者かは、触れるととても熱いらしい。なのに、損壊事件が何度も起きているにも関わらず、京で火事が一件も起きていないのは何故か?』
「壊されたのは、築地塀や築島みたいにゃ、土でできた物ばかりらしいからにゃ。土は燃え難い。運が良かったってのもあるだろうけど、一件も起きていにゃいのはそこまで不思議にゃ事じゃにゃー」
虎目の言葉に、隆善が「まぁ、そうだな」と頷いた。
「ただ、それでも疑問は残るけどな。築地塀は、わかる。だが、築島が壊されたってのは、どうやって敷地に侵入したんだ? 噂に留まって、どの辺りで起きた話なのか伝わってこねぇって事は……築地塀は壊されず、敷地の外にいる奴には何が起きているのか知りようが無ぇって事だろう?」
『そうだね。それが、疑問の二つ目』
惟幸が頷いた時、横になっていた葵の目が金色に変わった。目がぎょろりと向かれ、腕組みをする。
「それを言うなら、まず奴はどうやってこの京に入ってきた? あのような派手な動き、誰にも見咎められずにいるなど不可能だ。それなのに、我らが対峙したあの時まで、誰一人その姿を見ておらぬとは……解せぬ」
「夜のうちに入ってきたんじゃないかな? ほら、京ってどこからでも入れるし、見張りを立ててるのって内裏と大内裏辺りぐらいだしさ。夜に入ってきて、夜に暴れている分には、誰にも見られてなくてもおかしくないよ?」
紫苑が言うと、葵の体で荒刀海彦は「うむ」と頷く。そして、その目をぎょろりと光らせた。
「ならば、何故あの時に限り、奴は昼間に活動していたのだ?」
そこで、全員の視線が栗麿に注がれた。虎目が、睨むように目を眇める。
「……疑問その三にゃ。この馬鹿が、今日はやけに静かにゃ。疑問その四。……おい、馬鹿。おみゃー、あの時一体何をやらかした……?」
すると、栗麿は「あ、あー……」と歯切れが悪い。虎目に加えて、隆善、紫苑、弓弦、荒刀海彦が栗麿を睨み付けた。
「……麿は、悪くないでおじゃるよ……?」
「第一声がそれか!」
「悪い悪くにゃいはこっちで判断するにゃ! 何をやらかしたか、とっとと吐くにゃこの馬鹿!」
隆善と虎目に怒鳴られ、栗麿は不服そうに頬を膨らませる。まったく可愛くない。
しかし、彼が視線を巡らせて見れば隆善と虎目の他に紫苑と弓弦も彼の事を睨んでいる。おまけに、今は葵の主導権を荒刀海彦が握り、葵の顔で冷たく睨み付けている。
「ううう……荒刀海彦。葵の顔で睨むなでおじゃるよぉ。葵の目付きまで悪くなったら、この邸には癒しが無くなってしまうでおじゃるぅぅ……」
すすす……と惟幸の式神の後ろに隠れながら、栗麿は情けない声を出す。その様子に、隆善、虎目、紫苑、荒刀海彦が一斉に怒鳴った。
「良いからとっとと答えろ、馬鹿!」
怒りの四重奏に、怒鳴られた栗麿よりも盾にされた惟幸がびくりと震えた。
『たかよし、紫苑。それに虎目と荒刀海彦も、少し落ち着いて』
苦笑しながら宥める惟幸に、四人は更に目付きを険しくする。
「父様が落ち着き過ぎなんだよ!」
「惟幸は、この馬鹿に振り回された事が無いから、そんにゃ事が言えるんにゃ!」
「この馬鹿が関わると、精神力を根こそぎ削られるような疲労感に苛まれる! 甘やかしは不要だ!」
「良いから、とっととこの馬鹿に洗いざらい吐かせろ、この而立越え童!」
余計な火の粉を被った惟幸が、苦笑の表情を崩さないまま栗麿に視線を遣る。惟幸にも擁護し切れず、最早逃げ場は無いと流石に悟ったのか。栗麿は口を尖らせ、肩を竦めた。