平安陰陽騒龍記 第二章
4
空は晴れていて、人の数は多い。賑やかな八条大路を、葵と虎目はほてほてと歩いている。人や牛車とすれ違いながら、葵は大路の両端に並ぶ築地塀をじっくりと見て進む。
「今のところ、別段変わった様子の築地塀は無いみたいだけど……虎目、どう? この先、俺達が壊れた築地塀を見付ける未来とか、見える?」
「……それにゃんだけどにゃー……」
虎目が難しそうな顔をしたので、葵は訝しんで首を傾げる。虎目は、ジッと葵の目を見詰めた。
「……虎目?」
「葵。荒刀海彦は、今この話、聞いているかにゃ?」
「え? あぁ、うん……聞いているが、それがどうかしたのか?」
荒刀海彦が、予告無く葵の体の主導権を握り表に出てきた。こうして急に葵の口調が変わるのにも、虎目はすっかり慣れている。戸惑う様子も無く、「実は……」と口を開いた。
「その築地塀に関する未来だけ、さっきから見えにゃくにゃってるにゃ」
『築地塀だけ?』
「それは、つまり……」
荒刀海彦が、葵の顔で眉を顰める。虎目が、小さな首を動かして頷いた。
「荒刀海彦や末広比売が、オイラ達の前に現れた時と同じ……。恐らく築地塀の噂は本当で、それには神に関わる何かが絡んでいるにゃ。でにゃきゃ、オイラの未来千里眼がたかだか築地塀損壊事件の未来を視る事ができにゃいにゃんて、あるわけがにゃー」
「神たる者が、築地塀をただ壊すとも思えぬ……嫌な予感がするな」
葵の体の主導権を握ったまま、荒刀海彦が険しい声を出す。虎目も、それに頷いた。主導権を譲り渡した葵の魂も、緊張しているのがわかる。そんな中、さほど事態を重くみていない者が一人。
「あ、おとうしゃん、刀海のおじしゃん! くりしゃん! くりしゃん来た!」
末広比売がいきなり主導権を握り、葵の顔が突然無邪気な子どもの物になった。印象がもの凄い差だが、今はそれについて何やかやと言っている場合ではない。荒刀海彦の魂と虎目が、今まで以上に険しい気配を発した。
『やはり、来たか……!』
「やっぱり、オイラの未来千里眼の精度が落ちてるってわけじゃにゃーみたいだにゃー……!」
「あ、あのさ、二人とも? いくら何でも、そこまで身構えるのは、栗麿に悪い気がするんだけど……」
体の主導権を末広比売から返してもらった葵が苦笑いをしながら言えば、虎目はカッと目を見開き、荒刀海彦の気配が一気に刺々しくなる。
「葵は人が良過ぎるにゃ!」
『あの馬鹿は危険だ! 関わった者の気力を根こそぎ奪い取っていくのだぞ!?』
酷い言いようだが、虎目と荒刀海彦は本気だ。苦笑したまま、葵は末広比売の魂が指し示す方角に視線を遣る。そこで、「うぇっ!?」と目を見開いた。
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
聞き慣れた叫び声が聞こえてくる。そして、激しく立ち上る砂埃が見え始める。もの凄い勢いで走ってくる、人影が一つ。狩衣を纏い、烏帽子を被り、小太り気味の男。ある意味での恐怖の対象、お騒がせはた迷惑陰陽師もどき、天津栗麿。今日も今日とて騒がしく、そして、見た目によらず案外速い。
栗麿は、もの凄い勢いで近付いて来る。葵は、急いでその身を近くの築地塀に寄せた。寄せながら、声を張り上げて呼び掛ける。
「ちょ……ちょっと、栗麿!? どうしたの!?」
「葵の馬鹿! 何で声をかけるにゃ!?」
『あの馬鹿に関わるな!』
『くりしゃん、はやいはやい!』
虎目と荒刀海彦が目くじら立てて抗議の言葉を発し、末広比売は一人はしゃいでいる。葵は「あー……」と頭を抱えるように唸った。
「ちょっと、三人とも! 今は少し黙ってて!」
「おぉ、そこを行くは、葵に化け猫ではおじゃらぬか! 丁度良かった! 麿を助けるでおじゃる!」
栗麿はしっかりと葵の声を聞き取り、即座に助けを求めてきた。それに対して、葵と虎目は顔を顰める。葵の中の荒刀海彦も、似たような気配を発した。
「助ける? 何から?」
「おみゃー……今度は何をやらかし……」
虎目が栗麿を怒鳴り付けようとした、その時だ。栗麿の走ってきた方角から、ざわめきが聞こえてきた。ざわめきは次第に悲鳴を帯び、遂に人々が顔色を変えて走り出す。
「なっ……何? 何!?」
「来たでおじゃる! 奴が来たでおじゃるよーっ!」
目を白黒とさせる葵の横で、栗麿が足踏みをし出す。どうやら、何かが迫っているらしく、それは栗麿を追ってきたらしい。
「虎目!」
「にゃあ!」
葵の声に、虎目は即座に築地塀の上へと跳び上がる。少なくとも、大路にそのまま留まるよりは安全な場所であるはずだ。栗麿を背に庇いながら、葵は一歩前に出る。左腕に数珠を巻き付け、右の袖を捲りながら、険しい顔で前方を睨み付けた。
「できるだけ俺一人で頑張ってみるけど……もしもの時は頼むよ、荒刀海彦!」
『わかっている。葵、心してかかれ!』
「うん!」
葵の頷きが合図であったかのように、遠くに栗麿の時とは比べ物にならないほどの砂埃が見え始めた。あまりに激しい砂埃に、何がそれを巻き起こしているのか、目を凝らしても見る事ができない。わからない、が……。
「見るからに、ぶつかったらまずそう……」
砂埃は八条大路を斜めに突き進み、時折築地塀に激突する。激突された築地塀は、大きな音を立てて崩れ落ちた。
「あっ!」
「にゃるほど……あれが、築地塀損壊事件の犯人というわけだにゃ? ひょっとしたら、築島を壊したっていうのも……」
あの、砂埃を纏って疾走している者。そういう事なのかもしれない。
砂埃は崩れた築地塀からまた斜めに突き進み、別の築地塀にぶつかる。そうして少しずつ進むうちに、遂に葵達目掛けて真っ直ぐに走り出した。
「き、ききき……来たでおじゃるよーっ!」
『葵、まずは奴の力量を知るべきだ! 済まんが、後で少し気だるい思いをしてもらうぞ!』
葵の中で荒刀海彦が叫び、瞬時に葵の瞳が金色に輝く。右の袖から覗く腕には美しい青の鱗が生え揃い、鋭い爪が姿を現す。荒刀海彦の力を本格的に発揮する、龍の腕だ。
『俺一人で頑張るって言ったのに……』
「力量を量る、一瞬だけだ! 文句を言うな!」
叫び、葵の体の主導権を完全に握った荒刀海彦は右腕を振り上げる。左腕で栗麿を掴んで築地塀の上へ放り投げた。「邪魔だ」と短く言う。そして、その青く美しい鱗に覆われた龍の腕を、迫りくる砂埃に立ち向かい、すれ違いざまに叩き込んだ。すると、その一瞬顔を顰める。
『熱っ!』
体の内で葵が叫び、荒刀海彦は右腕を見た。青い鱗の一部が赤くなり、焼けただれたようになっている。龍の腕でなければ、一瞬で炭化してしまったかもしれない。
「我が腕を焼くとは……何者だ……?」
『呑気な事言ってないで、替わって! 直接触れないなら、術で防ぎながら対処法を考えないと!』
葵が叫び、体の主導権が葵に戻る。青の鱗が霧散し、腕は人の物へと戻る。鱗に守られていたからか、少し赤くなっただけで済んでいる。主導権を葵に戻している間に、砂埃は遠くへ行ってしまったかと思いきや、何とこちらへと戻ってくる。葵は、目を見開いた。
「え、えぇぇっ!? 何で!?」
ここで、築地塀の上の虎目は、横で丸くなっている栗麿を睨み付けた。
「おい、そこの馬鹿! やっぱり、おみゃーが何かやらかしたんじゃにゃーか!?」
「何もやっていないでおじゃるよーっ!」
「同じ事をオイラの目を見てから言うにゃ、この馬鹿!」
どうやら、栗麿が何かをやったのは間違いが無いようだ。しかし、今はそれを追及している場合ではない。
砂埃が、どんどん迫ってくる。
「……っ! 臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!」
咄嗟に九字を切り、防御の体勢を取る。だが、防御の気配に、砂埃の主が怯む様子は無い。そのまま突っ込んでくる。
「ちょっ……えぇっ!?」
目を見開いた次の瞬間に、葵は砂埃に激突された。築地塀を壊すほどの衝撃に襲われ、小さくはないが決して大きくもない体が宙を舞う。
「葵!」
「ひぃぃぃっ! 葵! 無事でおじゃるかっ!?」
「あんにゃに吹っ飛んで、無事にゃわけがあるか、この馬鹿!」
虎目が厳しい目で栗麿を睨み付け、すぐに視線を葵へと戻す。地に仰向けに倒れていた葵は、「大丈夫」と言いながらよろよろと起き上がった。瞳が、金色になっている。金色は、次第に元の色へと戻っていった。
「荒刀海彦が咄嗟に替わってくれて、助かったよ……」
『防御の九字で、勢いが殺されていたからな。あれが無ければ、替わっても助からなかったかもしれん』
『おとうしゃん、刀海のおじしゃん……いたいの? いたいの?』
末広比売の不安そうな声に、葵はふるふると首を振る。
「ちょっと驚いただけだから、大丈夫だよ。心配しないで、すえ」
『うん……』
まだ不安をぬぐい切れない様子の末広比売の声を聞きつつ、葵は前方を見据えた。砂埃は相変わらず晴れず、中に何がいるのかわからない。
無意識のうちに、腹をさする。先ほどぶつかられた場所が、少しだけ焦げている。九字で防いでいなければ、今頃もっと黒焦げだったかもしれない。少しひりひりするという事は、軽い火傷を負ったか。
「術で防ぐのも難しい。直接触るのはもっての外……となると……」
『攻撃を全て躱しつつ、術で攻撃するしかあるまい』
言うだけなら簡単だが、それは非常に難しい。何しろ、相手はもの凄い勢いで突っ込んでくる。これを相手に、落ち着いて全て躱しつつ術を仕掛けるなどできるのだろうか?
「とにかく、やってみるしかないよね。ここで俺達が逃げたら、どんな被害が出るかわからないんだし」
数珠を構えながら、相手の動きを警戒する。すると、向こうも葵の動きを警戒してか、突進する事無くその場に留まる様子を見せた。
動きが弱まったからか、砂埃が少しだけ薄れる。薄茶色の煙の向こうに、薄らと赤い影、そして光る眼が見えた。
「あれが、築地塀を壊してた……」
『まだ、はっきりと見えないな。もう少し砂埃が晴れればよく見えるのだろうが……』
「うん……」
頷きながら、葵は前方に目を凝らす。その時、視界を何か白い物がかすめた。
「……ん?」
思わず、意識がそちらに向いた。白い、大きな鞠のような物。よく見ると足らしき物が生えており、砂埃の前方で跳ねている。
「あれは……?」
『どうやら、何かの霊魂のようだが……』
荒刀海彦にもはっきりとはわからないらしく、内に潜む気配は困惑している。
白い鞠のような霊魂は、段々葵に近付いてきた。その動きは、何やら砂埃から逃げているようにも見える。
霊魂が、大きく跳ねた。勢いよく跳び、みるみるうちに葵に迫ってくる。
「えっ。待っ……」
言い終わる前に、霊魂は葵の胸の中に飛び込んだ。憑代の才を持つ葵の体は霊魂の侵入をあっさりと受け入れ、それはあっという間に体の内へと入り込んでいく。
「……っ!」
迎え入れる心積もりも無いまま霊魂に入り込まれ、背筋がぞくりと冷える。
『葵!』
内側で荒刀海彦の声が響き、次いで葵の瞳の色が金色に変わる。体の主導権が、荒刀海彦に移った。
「お前は、その霊魂の相手をする事に集中しろ! こちらは私が引き受ける!」
『けど、あいつは術じゃないと……』
葵が弱った様子を見せたからだろうか。それとも、白い霊魂がいなくなったからか。砂埃の中から、地に響くような唸り声が聞こえてくる。
「一瞬見えた! 来るにゃ! 葵、荒刀海彦、避けるにゃ!」
虎目の言葉が終わらないうちに、砂埃の中にいる何かは、再び走り出した。もうもうと砂埃が立ち上がる。
それを避けようと、荒刀海彦は横に跳ぼうとした。だが、新たな霊魂を取り込んだせいか……体が思うように動かない。一足飛びに跳んだつもりが、その半分も動けていない。荒刀海彦は、葵の体で舌打ちをした。
「済まん、葵! 二日か三日は、畳の上だ!」
全力を振り絞ったのか、両の腕が龍の物へと転ず。何とか両腕の力だけで止めるつもりなのだ。しかし、この砂埃の主には触れただけで火傷をしてしまう程の熱量がある。果たして、三日寝込むだけで済むのだろうか。
荒刀海彦が両腕を突き出す。体の内側で、葵は末広比売の魂に寄り添い、怖くないようにと抱き締める。
虎目と栗麿の叫び声が聞こえた。砂埃が眼前に迫る。
目の前に、人影が見えた。
そこで、葵の意識はぶつりと途切れた。