平安陰陽騒龍記 第二章





















「師匠? ただ今戻りました!」

邸に戻り、門を潜って声をかける。そこそこ広い敷地ではあるが、声を張れば邸の隅々にまで届くらしく、大体どこからか隆善の「おう、こっちだ」という声が返ってくるのが常だ。

だが、今回は何の返答も無い。隆善不在時には駆け出してくる、姉弟子の紫苑や、喋って二足歩行する猫の虎目の返答も無い。

「皆様、お留守なのでございましょうか?」

弓弦が首を傾げると、葵も首を傾げる。

「留守の割には、戸締りがゆる過ぎるような……」

『おとうしゃん、ちりちりする壁も、ないないよ?』

『たしかに、結界もいつもほど強くないな。それに、奥の方から彼奴らの気配は感じるが……』

葵の中で、末広比売と荒刀海彦も首を傾げている。全員で首を傾げながらも、雑舎へ行き、厨に荷物を片付ける。そして、隆善達の姿を探して、西対屋まで足を延ばした。

東対屋は、葵を初め、弓弦、紫苑が寝起きの場所として使っている。邸の主である隆善は普段寝殿に住み、皆で集って食事をするのに使用している場所は西対屋にある。先ほど覗いてみたところ、寝殿に隆善がいる様子は無かった。……となれば、いるなら東西の対屋のどちらかだ。

まずは、師匠であり、邸の主である隆善に帰邸の挨拶をしたい。ならば、いる可能性が高いのは西対屋だ。葵の中で、末広比売も

『隆おじしゃん、あっち!』

 と西を示している。どうやら、末広比売達にはわかるほど気配を垂れ流しているようだ。相当気が緩んでいる。

「師匠、どうしたんだろう? たしか今日は、紫苑姉さんをお供に、個人的な依頼を片付けに行くって言ってたよね?」

「はい、たしかにそのように仰っていましたが……」

瓢谷隆善は、近頃巷で評判の陰陽師。官位は従七位上。内裏に許可無く昇殿する事のできない身分ではあるが、その実力は折り紙つきで、この京で知らない者はほとんどいない。

姉弟子の紫苑も、修行中の身なれど調伏の腕前は一人前。鬼の一体や二体なら一人で軽く調伏できる実力を持っている。

この二人が揃って出向いたとなれば、依頼された内容が何であれ、それほど苦労する事無く解決できるはずだ。しかし、末広比売や荒刀海彦の様子を察するに、どうやら隆善の気配は事件をあっさりと解決して油断しきっているような気配ではない。

『どちらかと言えば、疲労困憊、という感じだな』

「師匠が? 疲労困憊?」

冗談でしょ……と呟きながら、葵と弓弦は西対屋の奥へと進む。いつも皆が集う場所へ行ってみれば予想は大当たりで、隆善だけでなく紫苑と虎目も揃っていた。全員、ぐったり、という言葉が相応しい様子で座り込んでいる。

「あの、ただ今戻りました……」

「おう、帰ったか。全部買えたか?」

脇息にもたれたまま、隆善が顔を向けてきて問うた。紫苑と虎目は、だらしなく伸びていて顔を向けてくる事すらしない。

いつになく疲れている様子の三人の様子に、葵と弓弦は困惑して顔を見合わせた。そして、隆善の問いに対しておずおずと頷く。

「は、はい。……あの……何かあったんですか?」

問うてみれば、「ん? あぁ……」「あー……」「にゃー……」という気の無い声が返ってくる。隆善は、大儀そうに上体を持ち上げた。紫苑達も、ため息を吐きながら起き上っている。

「今日の依頼は、邸に妙な物が現れるから調伏してくれって奴だったんだがな……」

「お邸で張ってたら本当に現れたから、追い掛けてみたんだけどね……」

「行った先に、あの馬鹿が……」

「あ、もう良いです。わかりました」

あの馬鹿、つまりいつもいつもいつもいつも迷惑な騒ぎを巻き起こしてくれる陰陽師もどき、天津栗麿がやらかした事件だったという事だ。……と言うか、栗麿はそもそも陰陽師ではない。興味本位から陰陽の術を中途半端に学んでしまった、はた迷惑な掃部(かもん)寮の大允(たいじょう)である。隆善と位階が同等であるらしく、それ故に遠慮が無い。官位が同等である事に関して、隆善はしばしば「納得いかねぇ……」と溢している。

それはさておき、栗麿は本当に頻繁に、懲りる事無く小まめに騒ぎを起こしてくれる。その理由が、意中の姫君を式神や鬼に襲わせて、危ない所を颯爽と格好良く助け出し、晴れて相思相愛になろうというものだ。呆れて言葉も出ない。

そして、今回もまた、いつもと同様の理由による騒ぎであったようだ。だから、隆善達は酷く疲れているのだろう。主に、精神的に。

「あの……菓子も買ってきましたけど……食べます?」

恐る恐る問うてみれば、二人と一匹は無言のまま手を差し出した。いつか見たような光景だな、と苦笑しながら、葵は懐から菓子の包みを取り出し、少しずつ分けていく。弓弦にも二つほど手渡し、皆でぽりぽりと齧り始めた。

「んで? 買い物に行って、何か変わった事はあったか?」

ただ菓子を齧っているだけでは間が持たないのか、隆善が問う。葵は、菓子を口に含んだまま「あ、ふぁい」と頷いた。しばらくぼりぼりと口の中に残っている菓子を咀嚼し、飲み込むと改めて口を開く。

「何か、京のあちこちで築地塀や築島が壊される事件が起きているみたいですよ。下手人はまだ見付かっていないとか」

「噂ではたしか、八条大路の東側、西の木辻大路沿い……築島が壊されたのは、場所までは覚えていない様子でございましたね」

弓弦の言葉に、隆善は「八条の東か……」と呟く。

「ここから、そんなに遠くねぇな」

京の南東部分四分の一に収まる場所は全て遠くないと言うのであれば、たしかに遠くはない。しかし。

「東っつーか、左京の八条大路だけでどれだけの距離があると思ってるんにゃ? 約二十町……千年後の単位で言うにゃら、約二キロと二百メートルにゃ」

「そうだな。……というわけで葵、ちょっと八条大路まで行って、どんな様子か探って来い。ちら見で終わらせずに、しっかり見てこいよ」

当たり前のようにあっさりと隆善が言い放ち、葵は「え……」と顔を引き攣らせた。

「今からですか?」

「善は急げ、って言うだろ」

不満げな葵に、隆善は事もなげに言う。葵は、それでも負けじと言葉を継ぐ。

「俺、今日夕餉を作る当番なんですけど……」

「弓弦に任せとけ。紫苑、お前も弓弦を手伝え」

指名された事で紫苑が「えー……」と口を尖らせたが、隆善に睨まれてすぐに立ち上がる。弓弦は、まだ納得のいかない顔だ。

「葵様お一人で、でございますか? 慣れてきたとはいえ、先ほどまで父上様の力を多少使用しております。ここで八条大路を半分と言えど隈なく歩いたりしたら、負担が大きいのでは……」

「いや、それは大丈夫だから! 病弱扱いしないでってば!」

「そうか、大丈夫か。よし、行ってこい」

間髪入れずに隆善が言い、葵はがくりと肩を落とした。そして、「わかりました」と力無く言う。その姿に、多少の憐みでも覚えたものか。隆善が「いや、ちょっと待て」と言う。

「たしかに、お前一人にやらせるのも酷だな。虎目、お前もついていってやれ」

「にゃんでオイラが……」

まだ疲れている様子の虎目に、隆善は「ふん」と鼻息を吐く。

「お前じゃ、料理当番は替われねぇだろうが。んで、俺はこの邸の主。お前は居候。どっちが動くべきかは、わかるな?」

「はいはい」

適当な返事をしながら、虎目は気だるそうに立ち上がる。猫だが、虎目はこの通り喋る事もできるし、二本の後足で立ち上がる事もできる。毛皮の上に狩衣まで着ていて、姿以外は人間と変わらない。しかし、毛皮の上に狩衣を着ていて暑くないのだろうか?

「……ん? おい、ちょっと待つにゃ!」

立ち上がって葵の顔を見た虎目が、目付きを険しくした。そして、ぐるんと勢いよく隆善に顔を向ける。

「今見えた、未来……。このまま葵と二人で出掛けたら、まぁたあの馬鹿と会う羽目ににゃるじゃにゃーか!」

虎目は、未来千里眼と呼ばれる目を持っている。その目で、未来を視る事ができるのだ。ただし、未来という物は刻一刻と変わる物。少し行動を変えるだけで、まったく違う未来が訪れる場合もある。虎目が視る未来の様子は、あくまで行動の指針にできるに過ぎない。

「……まぁ、あの馬鹿と犬猿の仲なお前と、トラブル巻き込まれ体質の葵が一緒に歩いてりゃ、出現するだろうな。あの馬鹿は」

尚、虎目はよくわからない言葉を時折口にする。曰く千年後の言葉らしいそれを聞いているうちに葵達も覚えてしまい、稀に口をついて出てくる事がある。虎目の事を知らない者と一緒にいる時は気を付けているのだが、身内ばかりのこの場ではどうしても気が緩みやすく、ついつい口にしてしまう。

「この道をこうして歩くと……こっちでもあの馬鹿が出る! じゃあ、こっちの道にゃら……こっちでも出る! どんにゃ行動をしてもあの馬鹿が出るじゃにゃーか! どうにゃってるんにゃ、これは!」

「……栗麿、八条大路で何かやらかすつもりなのかもね……」

紫苑が同情を含んだ顔で言う。虎目が、「嫌にゃー!」と叫んだ。

「絶対嫌にゃ! 行きたくにゃいにゃ! にゃんで一日に二回も、あの馬鹿に振り回されにゃきゃにゃらにゃいんにゃー!」

「振り回されるのは確定なんだ……」

「紫苑様や隆善様でも振り回されたのでございますよ? 人の良い葵様では、尚更かと」

弓弦の言葉は、手厳しい。そして虎目は「嫌にゃ嫌にゃ」を繰り返している。隆善が、顔を顰めた。

「うるせぇなぁ。じゃあ、あの馬鹿が現れるってわかってる場所に、葵を一人で行かせるつもりか?」

「にゃ……」

虎目が口ごもる。紫苑が、申し訳無さそうに頭を掻いた。

「ごめん……さっきまではついていってあげれないかとも思ってたんだけど、流石にボクも、一日に二回も栗麿に振り回されたくはないや……」

「やはり、私もご一緒した方が……」

弓弦が顔を顰めて言うと、隆善が険しい目で首を振った。

「葵を甘やかすんじゃねぇぞ、弓弦。あの馬鹿が現れるぐらいで一々躊躇してたら、とてもじゃねぇが一人前の陰陽師になんざなれやしねぇ。……なぁに、あいつはたしかに振り回すが、あいつの巻き起こす騒ぎで本当に危ねぇ目に遭った事ぁ無ぇからな。これも良い修行だ。あの馬鹿も、普段あんまり怒らねぇ葵にぶっ飛ばされりゃあ、小指の爪の先くらいは反省するだろ。……ってなわけで、グダグダくだ巻いてねぇで、とっとと行け」

隆善が右手をシッシッと振り、葵は苦笑しながら、虎目は既に疲れ切った様子で部屋を出る。葵は階で草履を履き、虎目は簀子縁からそのまま地面に飛び降りて。

そして二人は、邸を出た。

あとに残された弓弦と紫苑は顔を見合わせ、そして立ち上がると厨へ向かう。

「じゃあ、ボク達は料理を頑張ろうか。さっきのボク達みたいにへとへとになって帰ってくるだろうから、美味しい物を用意しておいてあげないとね!」

「そうでございますね」

そして、「うん」と頷き合う。その後ろ姿を見送った隆善が、「さてと……」と言いながら紙と筆を取り出した。










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