平安陰陽騒龍記














40
















「おう、もう動き回っても大丈夫みたいだな」

八岐大蛇騒動から数日後。簀子に坐した隆善に、葵はぺこりと頭を下げた。

「すみません、隆善師匠。ご迷惑をおかけした上に、心配までさせちゃって……」

「まったくだにゃ」

「絶対に無茶はしないと申しておりましたのに、結局三日も意識が戻らぬほど無茶をなさって……父上様も、何故こうまでなってしまう前に止めてくださらなかったのですか!」

葵の横で、弓弦と虎目は頭から湯気が出かねないほどに憤慨している。虎目の横に座る紫苑も同様だ。

「……俺達、あと何回土下座したら許してもらえるのかな、荒刀海彦……」

情けなさそうにこぼしながら、葵も簀子に座る。葵の中にいるはずの荒刀海彦は、沈黙を貫いている。今表に出るのは分が悪いと察したのか、それとも……。

「……それで? おろちの仔の件は片が付いた。弓弦は龍宮へ帰るとして、荒刀海彦はどうするんだ? 葵から離れて、黄泉路へつくのか?」

隆善の言葉に、一同はハッとした。そう……荒刀海彦も、弓弦も。おろちの仔を倒す為に龍宮から遣わされてきたのだ。ならば、おろちの仔が地上に影響を及ぼさなくなった今、地上にいる理由は失われている。

「……弓弦……」

何と言えば良いのか。困惑気味に、葵は弓弦の顔を見る。弓弦もまた、葵の顔を見た。二人の目が合う。そして。

「やーっ! すえ、もっと刀海(トミ)のおじしゃんと遊ぶーっ!」

唐突に末広比売が表に飛び出し、葵の身体で叫んだ事で雰囲気はぶっ壊れた。皆が唖然とする中、末広比売と弓弦の目が合った。末広比売は心なしか弓弦を睨むと、少しだけ身体を弓弦から離して言う。

「……おとうしゃんは、すえのだもん!」

雷が落ちたかのような空気の振動を、その場にいた者達は覚えた。発信源は明らかである。弓弦だ。

場を取り繕うように、葵が慌てて表に飛び出してきた。

「すえ! しばらくは荒刀海彦と遊んでいて、表に出ないようにって言っただろ! ……済みません、師匠。末広比売、俺が動けるようになってから、妙に元気が良くて……!」

「子どもなんだから、元気が良いのは当たり前だよ。紫苑も子どもの時、毎日のように木登りしたり駆け回ったり。見てる方は冷や冷やしっ放しだったなぁ」

隅の方に坐していた惟幸が、にこにこと笑いながら言う。

「こいつの場合は、今でもガキ同然に元気だけどな。普通、柿取ろうとして木に登るか? いつ男が通ってきてもおかしくねぇ年頃の娘が」

惟幸と隆善の言に、当の紫苑は悪びれる事無く「たはは……」と笑う。恐らくこの姉弟子は、今後も木に登る事はやめないのだろうと、葵は思わずにはいられない。

「しっかし、こうして喋っているのを見聞きしていると、本当にただの幼子でおじゃるなぁ。これがあの伝説の八岐大蛇とは思えないでおじゃる」

「……にゃんでお前がここにいるんにゃ」

「今日あたり来れば、事の顛末を全て見届ける事ができると、麿の勘が告げたんでおじゃるよ、化け猫。麿はこの大事件に巻き込まれた被害者であるからして、事件を最後まで見届ける権利があるんでおじゃる!」

胸を張って言う栗麿に、虎目は「あー、はいはい」と呆れたように返した。

「とりあえず、化け猫言うにゃ、この馬鹿!」

「馬鹿って言うなでおじゃるよ、この化け猫!」

「はいはい、そこまでにしてよね、二人とも!」

いつものやり取りになる前に、紫苑が止めた。消化不良を起こしているような顔をしながら、虎目が咳払いをする。

「まぁ……にゃんだ。今回のこの騒ぎ、八岐大蛇が幼かったから、ここまで事が大きくにゃっちまったんだにゃー……」

「そうだね……」

惟幸が頷き、葵に視線を遣る。葵の中にいる末広比売を見詰めているような目だ。

「おろちの仔……末広比売は、ただ自然の理に従って生まれ出て、自らに向けられた殺気を感じたから、身を守ろうと弓弦達を攻撃した。葵を餌と思って飲み込んだのも、人間の子どもが興味を持った物を手当たり次第に口に入れてしまうのと同じようなものだったんだろうね」

「蛇が大量に発生して人間を襲ったのも、蛇達からすりゃあ末広比売のための行動だろうからな。伝説の八岐大蛇ともなれば、蛇にとっちゃあ王みてぇなもんだ。無事に生まれさせるため、何とか力を集めなければと思ったんだろう。そして、奴らにとって集めやすい力と言うのが、人間の悲鳴や血で地を穢す事で生まれる邪気だった……というわけだ」

「そもそも、龍宮が八岐大蛇の気配にあそこまで神経質に反応しなければ、もう少し穏やかに事は運んだのかもしれんな。それを考えると、非常に心苦しいが……」

どこか疲れた様子で表に現れた荒刀海彦を、隆善がじろりと睨んだ。

「反省してくれんのは結構だがな。荒刀海彦……お前、いつまで葵の中に入っているつもりなんだ? いつまでも出たり入ったりを繰り返されると、場が混乱してこっちも迷惑なんだがな」

「……済まぬ。出て行ってやりたいのは山々なのだが……すえ、まだおじしゃんと遊ぶの! 出てっちゃやー!」

葵から末広比売への交代も中々の違和感だったが、荒刀海彦から末広比売は更に凄まじい。一同が思わず遠巻きにした中、申し訳無さそうに葵が表へと出てきた。

「……済みません。俺が動けないでいる間、荒刀海彦が結構積極的に末広比売の遊び相手になってくれていて……そうしたら末広比売、痛い目に遭わされた事を水に流して、すっかり荒刀海彦の事を気に入っちゃったみたいでして……」

「娘を幼いころに構えなかったおっさんが、反動で末広比売を猫かわいがりしているんでおじゃるか?」

「お、馬鹿にしては鋭いんじゃにゃーか? オイラも、そう思うにゃ」

「……虎目、栗麿。荒刀海彦、結構怒ってるよ? 後で痛い目に遭わされないようにね……」

虎目と栗麿が一斉に両手を挙げた。葵がそれに苦笑し、紫苑は大笑いしている。その様子をにこにこと眺めてから、惟幸が立ち上がった。

「さて……僕はそろそろ、山に戻ろうかな」

「えっ!? 父様、もう帰っちゃうの!?」

残念そうに言う紫苑に、惟幸は「ごめんね」と言う。

「僕も、もっと一緒にいたいんだけどね。僕がいる事で、最近この邸に近付く鬼が増えているみたいだし。……人の多い場所は、やっぱり鬼も多いよねぇ……」

惟幸の顔も、残念そうだ。噂を鵜呑みにして襲いに来る鬼達を恨んでいるようにも見える。

「一緒にいたけりゃ、紫苑が一緒に帰りゃ良いだろうが。一緒に調伏したからわかるだろうが、こいつはもう自分の身を守れるぐらいには強くなってる。お前が嫁と紫苑の両方を守らなければ……とか気負う必要は無くなってるぞ。……と言うか、寧ろそろそろ引き取れ。いつまでも人に娘押し付けてんじゃねぇ! いい加減、本当に呪い殺すぞ」

いつもの呪詛を吐く隆善に、惟幸はいつになく真剣な顔をした。そして、問う。

「……ちなみに、たかよし。紫苑を預ける際に、陰陽の術の他に礼儀作法も教えてくれるように頼んだと思うんだけど。山の中じゃどうしても限界があるし、女性の作法は僕じゃ教えられない。りつは元々下女だったから、貴族の作法は知らないしね。……どうなってる?」

「血筋を辿れば、曲りにゃりにも賀茂家の姫だからにゃー。まかり間違って高貴にゃ身分の人間に会うって事が無い事もにゃいだろうし、礼儀作法を身につけておく必要はあるだろうにゃー」

「下手な事をしたら、瓢谷の恥にもなるでおじゃるな。弟子の恥は、師匠の恥でおじゃる」

「……」

隆善が、ぐうの音も出ないという顔で黙り込んだ。どうやら、紫苑と惟幸が共に暮らせる日はまだまだ遠そうである。

決着がついたところで、惟幸はさっさと帰り支度を始めた。多くはない荷物をまとめながら、弓弦に言う。

「龍宮に帰るのなら、途中まで送っていくよ。龍脈と繋がっている水辺に行ければ、あとは一人で帰れるよね?」

「いえ……」

小さな声で呟いたかと思うと、弓弦はまっすぐに葵の方を見た。

「私、龍宮には帰りませぬ。この邸に厄介になり、葵様のお傍にいとうございます」

「え?」

「はぁっ!?」

葵の驚く声と、隆善の素っ頓狂な声がほぼ同時に発せられた。それに構わず、弓弦は言う。

「この様子ですと、父はまだ当分葵様の身体に厄介になるのでしょう。その分、葵様のお身体に負担がかかります。何かあった時、いつでも対処ができるよう……お傍にいようと思うのです」

「え……」

「それに、おろち……末広比売の件はひと段落致しましたが、葵様の記憶はまだ戻っておりません。葵様が記憶を失ったのは、父の魂魄が葵様の中へと入ったため。ならば、娘である私が責任を取り、葵様の記憶が戻るまでお支えするというのが道理というものでございましょう」

「ちょ……」

「それから……これは他愛も無い事でございますが。葵様は末広比売の魂魄を取り込む前に、みなで遊びに行こうと仰いました。その約束を、まだ果たしておりません。ですから、私はまだ帰るわけには参りませぬ」

滔々と語る弓弦に、一同は唖然とするばかりだ。

「……父を口実に使うか、我が娘よ……」

こっそりと荒刀海彦が表に出て呟いたが、その言葉は何の効も発しない。誰もが何と言えばわからず静まり返った中、まっさきに我を取り戻したのは紫苑だった。

「良いんじゃない? 弓弦ちゃん強いから、退治の依頼が来た時なんかに手伝ってもらえれば被害が少なくて済みそうだし。何より、人が多いと楽しいし!」

「弓弦の何気無い言動で一々ドギマギする葵を見るのも、一興だにゃー」

元々この邸に住んでいた紫苑と虎目はお気楽だ。だが、邸の主はそうは思わないらしい。

「ふざけんな。唯でさえガキ二人住まわせて、祝言もあげてねぇのに男やもめだとか噂されてんのに、これ以上増やしてたまるか。うちは託児所じゃねぇんだぞ!」

「良いじゃない。たかよし、お金で困ってるわけじゃないでしょ? なら、二人も三人もそんなに変わらないじゃないか」

「黙れ、諸悪の根源」

隆善は笑いながら言う惟幸を睨み付け、惟幸はその視線をさらりと流す。その二人の様子を、葵と弓弦がジッと見詰めている。今、葵の表に出てきているのは誰なのか……この視線では中々見当がつかない。気配から察するに、今は葵か。

その視線に負けたのか、単に面倒臭くなったのか。隆善は深いため息をつくと、「わかった」と呟いた。

「好きにしろ。ただし、さっき紫苑が言ったような依頼や、家事を手伝ってもらうぞ。良いな!?」

弓弦の顔が、パッと明るくなった。華やかで、とても綺麗な笑顔だ。「お安いご用です」と言って喜ぶその横顔に、思わず見惚れる者も少なくない。

「あ、あのさ。弓弦」

早速ドギマギしながら名を呼ぶ葵に、弓弦が「何でしょう?」と首を傾げた。葵は、虎目達のニヤニヤ笑いを何とか無視しながら、「えっと……」と言葉を探す。

「一緒に住むならさ。その……本当の名前を訊いても良いかな? ……ほら、弓弦って、俺がつけた仮の名前だし。これから、今まで以上に名前を呼ぶ事になるんだから、本当の名前を知っておかないとと思って……」

「その必要はございません」

あまりにもあっさりと、弓弦は言い切った。

「確かに、父に頂いた真の名はございます。ですが、地上での私の名は、葵様に頂き、皆様に呼んで頂いた、この弓弦という名のみ。わざわざ別の名を教える必要はございません。だからこそ、父も地上で、私の名を呼ぶ事を控えているのでございましょう」

ふと気になり、葵は自らの中にいる荒刀海彦の気配を探った。ほんの少しだけ、寂しそうに思える。だが、すぐにそれを慰める末広比売の気配に気付き、葵は安堵の息を吐いた。

「それでは、葵様。それに皆様も……今後とも、よろしくお願い致します」

弓弦が深々と頭を下げ、周りの人間達は思い思いに頷いて。場は和やかな雰囲気に包まれた。

時は寛仁元年、ところは京。龍と蛇が巻き起こした騒動は、穏やかに終息へと向かっていった。

未来千里眼が示す未来を目指し、今日も時代は刻まれる。

ゆるゆる、ゆるゆる。ゆるゆる、ゆるゆると……。











(了)










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