平安陰陽騒龍記
39
「や……やーっ! おとうしゃん! たしゅけて! おかあしゃーん!」
「ふむ……歳の割に、言葉は堪能なようだな」
場違いな事を、荒刀海彦が言い出した。どうやら、大泣きする子ども――しかも原因は自分である――にどう接すれば良いかわからずに現実逃避をしている模様である。
「そう言えば……弓弦が生まれてすぐに、地上へ来る事になっちゃったんだっけ?」
「うむ……」
困ったように、荒刀海彦はおろちの仔を見詰めた。そもそも、彼はこのおろちの仔を倒す為に地上へ遣わされたのだ。それなのに倒すべき相手がこの様子では拍子抜けを通り越して扱いに困るというものだろう。
二人が困った顔を見合わせている間にも、おろちの仔は派手に泣き続けている。泣き声がまるで雷鳴のようだ。
「……葵! 何かするなら、早くしろ! このままでは、気が狂いそうだ!」
「そう言われても……」
やはり困った顔をしながら、葵はおろちの仔をまじまじと見た。おろちの仔は、ただひたすら泣き叫び、助けを呼んでいる。いくら呼んでも、この子の親はもうこの世にはいないというのに。
「……この子……弓弦や、俺に似てる……」
困った顔がどこかへと消え。ぽつりと、葵は呟いた。その様子に、荒刀海彦も困った顔を収める。何故、弓弦や葵がこのおろちの仔に似てるなどと思うのか。
「似てるんだよ。記憶が無くて、不安になってた時の弓弦の気配に。……隆善師匠に引き取られて、毎日毎日不安で仕方が無くて、夜になる度に顔もわからない父親を呼んで泣き叫んで、師匠や紫苑姉さんを困らせてた頃の俺に」
言いながら、葵はおろちの頭を優しく撫でた。おろちはびくりとして一瞬だけ泣き止んだが、すぐにまた泣き出してしまう。
葵は、ゆっくりと、何度も何度も頭を撫でた。頭を撫で、屈んで顔を覗き込み、おろちの頬に黒い汚れがあるのを見つけると、指で優しく撫でこする。
「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ……オン、バイタレーヤ、ソワカ……オン、アロリキャ、ソワカ……」
いくつもの、慈悲深い菩薩の真言を優しく唱えながら、頬の汚れをこすり落としていく。
この汚れは、このおろちの魂魄にまとわりついていた邪気だ。恐らく、蛇達が京で暴れ回り、人々の悲鳴や血から絞り出された力の残り滓。こんな物がこびりついていて、心落ち着くわけがない。
こするにつれて、汚れは次第に消えていく。汚れが消えるにつれて、おろちの泣き声は次第に収まっていった。
ついには泣き止み、ただヒックヒックとしゃくり上げているおろちを、葵はぎゅっと抱き締めた。突然の事に涙をためたまま目を丸くするおろちに、葵は「大丈夫だよ」と囁いた。
「大丈夫……大丈夫だよ。寂しければ俺達が傍にいるし、泣きたい時に泣いても誰も怒らない。ここには、君をいじめる奴はいないから……」
葵の言葉に、おろちは不安そうに葵の顔を見、次いでその後に立つ荒刀海彦の顔を恐る恐る見た。目が合い、「ヒッ」と再び悲鳴をあげる。
その様子に、葵は「あー……」と困ったように唸ると、少しだけ考えた。考えて、立ち上がる。そして、荒刀海彦の正面に立った。少しだけ、背伸びをして目線を合わせようとしている。
「……どうした、葵?」
おろちの反応に困った顔をしていた荒刀海彦に、葵は申し訳なさそうに囁いた。
「荒刀海彦……ごめん!」
謝るや否や、葵は荒刀海彦の頭を思い切り引っ叩いた。
「!?」
何が起きたのか咄嗟にわからず、荒刀海彦は目を白黒させる。そんな荒刀海彦が怒鳴り出す前に、葵は再びおろちに視線を向け、「ほら!」と荒刀海彦を指差した。
「君に怖い思いをさせたおじさんは、俺がやっつけたよ! このおじさんも、もう君をいじめたりはしない。もう、怖くないよ!」
「……理由はわかったが、せめておじさんはやめろ……」
渋面を作る荒刀海彦に、葵は「ごめんごめん」と苦笑する。そのやりとりの様子を、おろちは目をぱちくりとさせながら見詰めている。瞬く目と、葵の目がぱちりと合った。
「……あ……」
おろちは困ったように声を発し、葵の着物の裾をきゅ、と握った。
「あ……おとう、しゃん……?」
「え……?」
予想だにしなかった言葉に、葵は目を丸くする。今度は、荒刀海彦が苦笑した。
「そもそも、このおろちの末は生まれたばかりで真の親の顔も、自らの種族もよくわかっていないだろうからな。自分を守ろうとする行動を取った葵を、親と認識したらしい」
葵の目が、更に丸くなった。そして、今度は優しげに細められる。
「……良いよ。君の心がそれで安らぐなら、俺は君の父親になる。君は俺の、娘だよ」
言われて、おろちは少しだけはにかんだ。そして、何かを期待するように葵の顔を見上げる。
「おとうしゃん……」
「なぁに?」
その返事に、おろちの顔が曇った。不安そうな表情で、葵の顔を見詰めてくる。
「え……俺、何か間違った? 君を傷付けるような事、言っちゃったかな!?」
どうすれば良いかわからず、葵は狼狽えた。その様を傍らで見ながら、荒刀海彦が考える仕草をする。そして、葵の肩をポンと叩いた。
「名を呼んでやれ」
「え?」
思わず振り向く葵に、荒刀海彦は「名だ」と言う。
「名前を呼ばれぬ事で、このおろちは本当にお前が自分の父親なのか不安になっているのだろう。名を呼んで、このおろちが真にお前の娘だと、呪(しゅ)をかけてやれ」
「けど、俺……この子の名前を知らないよ?」
「生まれたばかりで、名があるわけがなかろう。お前が名付けてやるんだ。名付けて、その存在を世に縛り付ける呪をかけてやる。それが子を授かった親の、最初の務めというものだ」
荒刀海彦の言葉に、葵は「そっか……」と呟いた。表情を引き締め、真剣に考える。やがてフッと表情を和らげると、葵は優しい顔でおろちの顔を見た。
「……末広比売(スエヒロヒメ)」
葵は、おろち――末広比売の頭を優しく撫でながら言った。
「前に、虎目に聞いたんだ。八という字は末が広がっていて、将来が開けていくようで縁起が良い数なんだって。八岐大蛇は、首が八つに、尾が八つ。縁起の良い数を、二つも持っているんだよ。……生まれたばかりで命を落とす事になってしまった君が、せめて俺の娘として……この先、幸せになる事ができたら……」
「それで、末広比売か」
葵は、頷いた。すると、末広比売は待ちきれないという様子で、葵にしがみ付く。
「おとうしゃん!」
「なぁに? ……末広比売」
末広比売の顔が、パッと明るくなった。今までで一番の、可愛らしい笑顔だ。
笑顔を作った末広比売は、やがてとろんとまぶたを落とし、葵にしがみ付いたまますやすやと眠り出す。
「……ホッとしたのかな?」
自身も安心したように言うと、葵もまた、大きく欠伸をした。
「……あれ? そう言えば、今の俺って魂魄なんだよね? 何でこんなに眠く……?」
「いかんな……」
荒刀海彦もまた、意識を保つのが限界と言わんばかりに片膝をつく。
「体内に宿る魂魄全てが動けなくなるという事は、憑代であるお前の身体が限界に近いという事だ。これ以上無理をすれば、お前の身体が壊れるぞ」
一瞬だけ、葵の眠気が吹っ飛んだ。
「そんな……どうすれば……」
「眠れ」
短く、しかし非常にわかり易く荒刀海彦は言った。
「今すぐに私達三人全てが眠れば、身体にかかる負担は消える。これ以上衰弱するのを防げるはずだ。身体を我が娘と、あの猫に運ばせる事となってしまうが……致し方あるまい」
思いの外わかり易い方法に、葵はホッと息を吐いた。安堵と共に、強烈な眠気が襲ってくる。
葵はその場でごろりと横になり、既に眠っている末広比売の頭をもう一度だけ撫でた。
「おやすみ、末広比売……」
呟き、目を閉じる。そのまま葵は、深い眠りへと誘われた。