平安陰陽騒龍記











36












「父上様! 葵様ーっ!」

葵がおろちに飲み込まれる様を目の当たりにし、弓弦は悲痛な叫び声をあげた。そして、葵を助けようと、おろちの元へ走ろうとする。

「行っちゃ駄目にゃ! 今行っても、弓弦まで飲み込まれて終了が関の山にゃ!」

止めようと弓弦の前に立ちはだかる虎目を、弓弦はキッと睨み付けた。

「では、どうしろと言うのです! 父上様と葵様がいなければ、地上はおろちに滅ぼされてしまうかもしれないというのに! それに……今なら、まだ間に合うやもしれません」

「どうやって助けるつもりにゃ! 神気が切れて、今の弓弦は龍ににゃる事もできにゃい。非力にゃ人間の腕で、どうやってあのでっかい口をこじ開けて、葵を助け出すんにゃ!」

「それは……」

言葉に詰まり、弓弦は力無く座り込んだ。そして、何かを思い出したような顔をすると、縋るように虎目を見る。

「……虎目様、教えてくださいませ。葵様の……葵様の未来は、今でも見えるのでございますか? 葵様がご無事であれば、父上様も……」

「……わからにゃいにゃ」

感情を押し殺したような声で。虎目は淡々と言葉を紡ぐ。

「さっきから、葵の未来も、人間の未来も……にゃにもかもが、霞がかかったようにぼんやりとしか見えにゃくにゃってしまったにゃ。これは……今、全ての未来が、どちらへ転ぶかの岐路に立たされているという事だにゃ」

「岐路……でございますか?」

虎目は頷く。

「葵と荒刀海彦が上手くやれば、葵を含む全ての人間の未来が、くっきりとオイラに見えるはずにゃ。逆に二人がしくじれば、未来は滅びの道へと転ぶ。そうにゃれば、オイラに未来が見えるはずがにゃー。しかし、見えるようにゃ見えみゃいような……そんにゃ状態ににゃっているという事は……」

「今、葵様と父上様は……成否の狭間にいる……という事でございますか?」

弓弦は息を呑み、そしておろちを見上げた。葵を飲み込んだ首は舌なめずりをし、辺りを見渡している。物を食べる、という行為に、この上ない快感を覚えたのかもしれない。

その首が、突如ビクンと痙攣した。……否、その首だけではない。残っていた三つの首全てが痙攣し、そしてもがき。やがて全身を使ってのた打ち回り始めた。首と繋がっている三本の尾はもとより、首を失っているはずの残る五本の尾までもが暴れ回っている。

「これは……!」

「おろちが苦しんでる……? 何が起こってるんにゃ!?」

距離を取り、手に汗を握りながらも目を丸くする弓弦と虎目の眼前で。おろちは暴れ続ける。木をなぎ倒し、地面を穿って。暴れるだけ暴れて、やがて、動かなくなった。

三つの首と八つの尾が、力無く地面に落ちていく。その衝撃で、数え切れぬ木が倒れ、池は割れて水が辺りに流れ出した。

次いで、メリメリと。肉が裂けるような音が聞こえてくる。耳を澄ませば、どうやらその音はおろちの腹部から聞こえてくるようだ。

「にゃ……まさか……!」

虎目が最後まで言う前に、おろちの腹がぱっくりと割れ、紫色の血が滝のように流れ出た。それに流されるように、人影がごろりと転がり出る。水干をまとった黒い髪の少年で、手や顔には瑠璃色の鱗が生えている。

「葵様!」

「葵!」

葵だ。龍の力を現した葵……いや、荒刀海彦が、よろけながらも紫色の血だまりから立ち上がった。その手に肉片がこびりついているところを見ると、蛇達を引きちぎった時のように、力任せに肉を裂いたらしい。

「まったく……まさか、自らおろちの腹へ収まりにいくとは。無謀にもほどがあるぞ……」

ぶつぶつと文句を言いながら、荒刀海彦は血だまりから抜け出し、弓弦達の元へと歩いてくる。歩いてくる間に、次第に、鱗が消えていく。

そして、弓弦達の元へ辿り着いた時。そこには、完全に人の姿へと戻った葵がいた。ばつが悪そうな顔をして、最初に発する言葉を探している。

「葵様……」

「えっと……なんて言うか。……心配、させちゃったよね。ごめん……」

困ったような顔をしてから、頭を下げる。その頭を、弓弦と虎目が同時にスパンと叩いた。

「痛っ!?」

「にゃーにが、痛っ、にゃ! それで済んで、良しと思うにゃ!」

「左様でございます! あのように、おろちの口に何もせぬまま飲み込まれるなど……正気の沙汰とは思えません! 葵様が飲み込まれる様を目の当たりにした私達が、一体……どのような思いをした、と……」

最後の方は、言葉になる事が無かった。弓弦の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ出る。やっぱりまずかったか……と反省しつつ、葵はその場に座り込んだ。荒刀海彦がおろちの首を二つ動けなくしただけでもかなりの体力を消耗していたというのに、今また、龍の力を使って暴れたのだ。気力も体力も、空に近い。

「……心配させて、本当にごめん。あの時は、ああするしか無いって思って……」

そこで葵は言葉を止め、頭を掻いた。そして、しゅんと、項垂れる。

「何言っても、言い訳にしかならないよね。……ごめん。本当に、ごめん」

何度も何度も、ごめんと呟き続ける葵に、虎目がはぁ、とため息をついた。

「反省してるのは、わかったにゃ。……それで? にゃんで、あんにゃ無謀にゃ事をやったんにゃ?」

弓弦も頷き、厳しい目で葵を見る。

「心配をかけた以上、葵様には私達に、あの行動の理由を説明する義務があるかと存じます。何となくやったと仰るのであれば、葵様と父上様の事をあの馬鹿栗以下の大馬鹿者と認識する他ございませんが」

「うっ……」

まずい物でも食べたような顔をして。それから少しだけ、煩そうに顔をしかめた。

「どうしたにゃ?」

「荒刀海彦が、それは耐えられないから、さっさと正直に全てを話せ、だってさ。……まず最初に思ったのが、このままだと勝てないな、って事だったんだよね。俺の体力が残り少なくて、おろちの首に登るのもやっとの状態だったし。それに、体格や攻撃力の差があり過ぎて、一撃必殺なんて夢のまた夢って感じだったしね……」

少しだけ、情けなさそうな顔をして葵は俯いた。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかないと思ったのか、すぐに顔を上げる。

「けど、内側からなら? 臓腑って、皮や筋肉よりも弱いんじゃないかって思うんだ。それに、体内に入っちゃえば、おろちに攻撃される事も無い。……おろちも、自分の体内を攻撃するわけにはいかないもんね」

「しかし、無事に入れたから良いようなものでございますが……。もし、一度でもおろちに噛まれたりしたら……」

もしもを想像し、弓弦がぶるりと震える。その様子に、葵は再び申し訳なさそうに項垂れた。

「一か八かの賭けだったんだけど……大丈夫なような気がしてたんだ。ほら、蛇って獲物を噛まずに、丸呑みにするし。だから、口の中に入る事さえできれば、って……」

「結果的に無事だったから良かったようにゃものの……。こういうのは、ホント、勘弁してほしいにゃ。オイラと弓弦の寿命が一気に縮んだって事。努々忘れるにゃよ、葵」

深い深いため息をつく虎目に、葵は「本当にごめんってば!」とただひたすら頭を下げる。必死な様子に、虎目と弓弦はプッと噴き出した。

「葵様、必死過ぎでございます」

「そんにゃに謝られたら、こっちが気まずいにゃ。反省さえしてくれれば、それ以上の文句はにゃー。終わり良ければ全て良しってにゃ」

「……いや、まだ終わってはいないようだ」

突如切り替わった口調に、弓弦と虎目はハッと息を呑んだ。葵の目が、金色に光っている。荒刀海彦だ。

「……どういう事でございますか、父上様? まだ終わっていないとは……」

「おろちの仔が、まだ生きているとでも言うのか? あいつの腹を切り裂いたのは、他でもにゃい、おみゃーじゃにゃーか。大体、あんにゃ風に腹を破られたら、いくら伝説の化け物と言っても……」

疑わしげに言う虎目を、荒刀海彦はぎろりと睨んだ。そして、口惜しげに歯噛みする。

「確かに、おろちの末は私と葵で屠った。だが、魂魄までは屠れなんだわ……!」

「魂魄……?」

呟き、少しだけ考え。そして弓弦の顔が青ざめた。荒刀海彦は、頷いて見せる。

「そうだ。死して私が魂魄体のまま葵の身体へ移る事ができたように、おろちの末とて魂魄で動く事はできよう。その証拠に……」

荒刀海彦は、宙を指差した。

黒い、靄が見える。暗く、数歩先が見えぬ夜だと言うのに。その靄は、全員の目にはっきりと見えた。

靄は次第に大きくなり。大きくなるに従って次第に邪気を増していく。

「……あれが、おろちの末の魂魄。放っておけば力を持ち、地上に災いをもたらすようになろう」

「にゃら、早くにゃんとかしにゃいといけにゃーじゃにゃーか! にゃんでそんにゃに、悠長に構えているんにゃ!?」

焦る虎目に、荒刀海彦と……そして弓弦も静かに首を振った。その顔は、少しだけ不甲斐無さそうで。

「……無理なのだ」

「私達龍とて、生きている以上は人間と同じ。魂魄に触れる事は適わず、よって、攻撃する事もできないのです……」

無念そうに言う父娘だが、逆に虎目はきょとんとしている。そして、「にゃんだ」と苦笑した。

「魂魄に攻撃するすべにゃら、あるじゃにゃーか。そんにゃ、この世の終わりみたいにゃ顔をする必要にゃんて、全くにゃーわ。……にゃあ? 葵?」

「うん。……今度こそ、俺の出番だね」

前触れも無く葵が表に出現し、弓弦は目を見張った。これまでは、どんな事態であろうとも、葵が表に復帰する際には荒刀海彦が何らかの態度を示していた。それが今回は、何も無かった。

少しずつではあるが。龍の力を宿した身体に、葵自身が慣れてきているようだ。

葵は懐から数珠を取り出し、大きく息を吸い、そして吐いた。数珠を構え、おろちの魂魄に向かって朗々と唱える。

「ナウマク、サンマンダ、ボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ! オン、アボキャビジャヤ、ウンハッタ!」

唱えると、見えない力がおろちの魂魄を包み込み、邪気を削っていくのがわかる。葵は、間髪入れずに真言を唱え続けた。

「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソハタヤ、ウン、タラタ、カンマン! ……ナウマク、サンマンダ、ボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ……オン、サンザンザンサク、ソワカ!」

唱えるごとに、黒い靄は縮んでいく。魂魄の悲鳴だろうか。轟々と、風が唸るような音が辺りに響いた。音は葵の耳を掠め、何かを囁くようにして消えていく。

ほんの一瞬、そよ風のような音が耳元を過ぎり、葵は「えっ……」と呟いた。その呟きは響き渡る音に掻き消され、誰にも聞こえぬまま霧散していく。

やがて葵は思案気な顔になり。そして、いつしか真言を唱えるのをやめ。ついには、数珠を握っていた手をゆっくりと下へと下した。

「……葵様?」

「どうしたんにゃ? 葵……」

動きを止めた葵に、弓弦と虎目は怪訝な顔をする。そんな一人と一匹の表情が見えてか、見えずか。葵は、己の中で事態を見守る荒刀海彦に問い掛けた。

「……ねぇ、荒刀海彦。おろちの仔の魂を助けてあげる事って、できないかな……?」








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