平安陰陽騒龍記
35
爪を突き立てた肉から、紫色の液体が流れ出る。第四の首が、びくんびくんと痙攣し、やがてがくりと項垂れた。首は再び動く事無く、地面に落ちる。
『……何をやったの?』
鋭くなっているとはいえ、おろちからみれば針のように小さい爪。それを突き刺しただけで動かなくなった理由が、葵にはわからない。
「なに、気の流れを読み、その流れを止める孔を突いただけの事。身体が人間(あおい)である以上、完全に龍の姿となる事もできぬのでな。身体能力に大きく差がある以上、戦い方を工夫するしかあるまい」
ニヤリと不敵に笑い、荒刀海彦は視線を上へと遣った。無事な首達が、一様に睨み付けている。どうやら、真っ先に倒すべき相手だと認識されたようだ。
「残る首は四つか。……すぐに全て這いつくばらせてやる。生きたまま首を切り落としてやるから、覚悟するんだな」
言うなり、荒刀海彦は跳び上がり、第五の首へとしがみ付く。気の流れを読み、孔を探して、そこへ至ろうと首をよじ登った。当然、何をされるかわかっていて、首が大人しくしていてくれるはずがない。ぐおんぐおんと首を振り回し、荒刀海彦を振り落とそうとする。
「くっ……化け物風情が、生意気な!」
苛立ちながらも荒刀海彦は目的の場所に辿り着き、荒刀海彦にしかわからぬ気の孔に爪を突き立てた。第五の首が先と同じように痙攣し、地面に落ちる。落ちる寸前に荒刀海彦は首を踏み台に跳躍し、飛び降りた。着地した瞬間に体勢を崩し、片膝を突く。
「……あと、三つか……」
呟く荒刀海彦……いや、葵の顔は土気色になっている。呼吸も浅く、速い。額に、脂汗が浮いていた。激しく動き回っているからだろうか。体力の消耗が、先よりも早い。
『荒刀海彦、表を俺に替わって! このままじゃ、おろちの首を全部何とかする前に動けなくなっちゃうよ!』
葵の声に荒刀海彦が答える前に、第六の首が襲い掛かってきた。辛うじて躱し、荒刀海彦は何とか身体を支えながら顔をしかめる。
「表を替わって、何とする? 残る力を振り絞り、全速力で安全地帯まで逃げるか? それとも人間の姿に戻り、物陰に隠れながら回復を待つか? ……どちらも否だ! 我らが戦線を離れれば、おろちの仔は標的を変えて暴れ出す。そうなってしまったら、私は何のために十二年前地上に赴き、命を落としたのだ!? 何のためにお前は、憑代となったのだ! 一度でも逃げれば、我らはこの十二年を失うのだぞ! この十二年で培ってきた物を、全て失ってしまうのだぞ! お前は、それでも良いと言うのか!」
『良くないよ! だから、全力で工夫しないと!』
「……何?」
葵の言葉に、荒刀海彦は眉をひそめた。少しだけ頭の血が引いたらしい荒刀海彦に、今だとばかりに葵はまくしたてる。
『荒刀海彦、さっき言ってたじゃないか。身体能力に差があるのなら、工夫をしないと……って。俺、思い付いたんだ。この体格差と、残りの体力でも何とかなるかもしれない方法。一か八かの賭けになるかもしれないけど……俺にやらせて欲しいんだ!』
「お前に? 先の蛇騒動を忘れたか? お前では、まだ龍の力は使いこなせまい。作戦があるのであれば、私に話せ。私が実行する」
だが、葵は譲らず。気配が首を横に振った。
『ううん、まずは俺が表に出なきゃ駄目なんだ。なるべく弱そうに見せて、エサだと思ってもらわないと……!』
「何だと?」
『良いから、早く替わって!』
今までに無い、有無を言わさぬ葵の勢いに、荒刀海彦は思わず表を葵に譲り渡した。表の意識が葵に替わった途端、目が黒くなり、瑠璃色の鱗は消え。人の姿に戻った葵はよろけながらも何とか立つ。
「危な……これ以上消耗してたら、作戦実行の前に立てなかったかも……」
『愚痴は良い。それよりも、作戦とやらを早く話せ。これから一体、何をするつもりだ?』
「何って……」
肩で息をしながら、葵はちらとおろちの残る首を見た。相手の気配が急に弱々しくなった事に動揺しているようだが、同時に葵を見る目が今までと変わっている。
敵性生物を見る目から、餌を見る目に。
「……食べられる?」
『はっ……!?』
荒刀海彦の思考が、一瞬途切れた。まるでその瞬間を狙ったかのように、三つ残っている首のうちの一つが、真っ赤な口を開いて葵に迫った。
おろちの口腔が己を飲み込む寸前、葵は視線を、横へと滑らせた。青ざめた弓弦がこちらへ駆け寄ろうとし、それを虎目が必死に止めようとしている様子が見えた。止めている虎目も、駆け寄りたいのを必死に堪えるような顔をしている。
(……あぁ、やっぱりこの作戦。ちょっとまずかったかなぁ……?)
罪悪感に苛まる葵に、おろちの口が覆い被さる。葵の視界は、そこで完全に闇に染められた。