平安陰陽騒龍記












34














日が落ちた闇の世界の中、弓弦は生まれたてのおろちの仔と対峙していた。

おろちの仔が生まれたのは、本当につい先ほどの事だ。弓弦がこの場所に辿り着いたと同時に、地面が揺れた。空気が震え、息苦しくなり。そして、おろちの仔は生まれた。出てきたのは、そこにあった巨大な池からだ。……恐らくこれが、十二年前、父である荒刀海彦が絶命の瞬間に横たわっていたという穴だ。十二年の時が流れるうちに、雨水が溜まり池と化したのだろう。

伝説によれば八岐大蛇は八つの谷、八つの峰にまたがるほど巨大な怪物だったと言うが、このおろちの仔はさほど大きくはない。……大きくないと言っても、本来の姿に戻った大人の龍ほどの大きさはあるのだが。

首と尾は八本ずつ。これは、伝説通りだ。

「まずは……先手必勝!」

鋭く叫ぶなり、弓弦はおろちの仔に向かって駆け出した。駆けるうちに、腕に、顔に、瑠璃色の鱗が現れる。目を閉じ、再び開けば金色のぎょろりとした物になっている。

弓弦は地を蹴り、宙へと跳びあがった。人間の脚力では有り得ない高度まで跳んだところで、弓弦の体が眩い光に包まれた。

やがて光が薄れていくと、そこに弓弦の姿は無く。代わりに、一匹の瑠璃色の龍が宙にとぐろを巻いていた。これが、弓弦の本来の姿なのだろう。

龍の姿となった弓弦は鋭い爪を振りかざし、あっという間におろちの首の一つに迫る。そして、あっという間に首を切り落とした。残された七つの首が、恐ろしい雄叫びをあげる。聞くだけで背筋が凍り、身体が縮んでしまうのではないかという声だ。

弓弦は雄叫びに耐えながら、第二の首へと迫った。これも、弓弦の爪で切り落とす。だが、先ほどよりも少し手間取った。

六つの首が、暴れだす。それを何とか避けながら、弓弦は第三の首に絡み付き、そののど元に噛みついた。首から紫色の血が流れ出し、肉がブチブチと音を立てる。吐き気を覚えながら、弓弦はその肉を食い千切った。そして、露わになった骨に齧り付くと、そのまま力任せにへし折る。ごきん、という嫌な音がした。

骨の支えと半分の肉を失った第三の首は、自重に耐え切れず地面へ落ちた。ごとりという音と共に首が転がり、弓弦は大きく息を吐く。

残る首は、あと五つ。これを全て落とせば、このおろちの仔は死ぬ。そうすれば、自分と、そして荒刀海彦に与えられた使命は終わる。葵に魂魄を宿らせている荒刀海彦は、終わったところで龍宮には戻れまいが。

「……」

ふと。これが終わったら、葵はどうするのだろうという考えが、弓弦の脳裏を過った。このおろちの仔を斃すためだけに荒刀海彦の憑代となり、術者として育てられてきた人間の少年は、今後何をなす為に生きていくのだろう?

今は、そんな事を考えている場合ではないと。弓弦は首を振った。そして、気を取り直して正面に目を遣った時。

眼前に、おろちの第四の首が迫ってきていた。弓弦は咄嗟に爪で攻撃を繰り出すが、首はそれを躱す。そして、弓弦の胴体に噛みついた。

「あっ……!」

声が漏れ、弓弦の胴体がピンとまっすぐに伸びる。何とか脱出しようともがいてみるが、おろちの牙は体に深く突き刺さり、逃れる事ができない。

おろちは、弓弦を加えた首をぶんぶんと振り回す。そして、勢いがついたところで、弓弦を地面へと叩きつけた。

衝撃による痛みから、弓弦はしばらく体を縮こまらせた。痛みのせいで、呼吸も満足にできない。それでも何とか立ち上がろうと地面に手を突き、そこで弓弦はハッと息を呑んだ。

手が、人間の物になっている。……手だけではない。足も、身体も、顔も。全てがか弱い人間になり、鱗も消えてしまっている。傷は多少癒えている為、動く事は何とかできそうだ。かすり傷程度なら、今もじわじわとだが、治っている。しかし、大きな傷は完全には治っていない。

神気が切れたのだ。京にあるあの井戸か、どこか。龍宮と繋がりのある水脈から神気を得なくては、戦う事もできない。だが、ここには雨水によりできた池があるばかり。それどころか、おろちの仔が誕生するために邪気が集められ、全体的に気が穢れてしまっている。

おろちの仔が、とどめを刺そうと弓弦を睨みつけた。鬼灯のような真っ赤な十の目が、弓弦をその場に縫い付けて動けなくしている。

「あ……あ……」

言葉にならぬ声を発しながら、弓弦は何とか立ち上がろうと試みる。しかし、傷のせいか、おろちの仔に睨まれているせいか。身体に全く力が入らない。

五つの首が大きな口を開き、弓弦へと襲い掛かる。弓弦は目を閉じ、そして思わず叫んだ。

「葵様! 父上様!!」

「臨める兵、闘う者、皆、陣列ねて前に在り!」

弓弦の助けを求める叫び声に呼応するように、声が響き渡った。そして、弓弦の前に見えない壁のような物が出現し、突進してきたおろちの首を弾き返す。

「……今のは……」

己を地面に縫い付けていた糸が切れたかのように、弓弦は勢いよく声のした方へと振り向いた。サクサクと、草を踏む音が聞こえてくる。

「良かった……間に合った! ……まったく、父よりも葵の名が先か? ……まぁ、仕方があるまい。地上に出てからは、葵の名を呼ぶ事の方が多かったのだからな」

葵の声が、荒刀海彦に切り替わる。

「葵様……いえ、父上様!」

少しだけ、泣きそうな顔になって。弓弦はホッとした声で父と葵……待ち望んでいた二人を呼んだ。

荒刀海彦は、す、と弓弦の傍らに片膝をつき、弓弦の頬に付着した泥を優しく拭ってやる。

「手酷くやられたものだな。だが、お前が命を落とさずに済み、何よりだ。……我らが来るまで、よくぞ持ち堪えた。流石は、我が娘だ」

「父上様……」

弓弦の頭を優しく撫で。そして荒刀海彦は、葵の顔をうるさそうに顰めた。

「……わかった、わかった。そんなに急くな」

「父上様?」

不思議そうな顔をする弓弦に、荒刀海彦は「やれやれ」と肩をすくめて見せた。

「お前がそのような泣き顔を作っているのを見て、葵が怒り狂っておるわ。少なくとも、泣いている女を前に何も出来ぬほどの腰抜けではないらしい」

荒刀海彦は立ち上がり、おろちの仔を見据えた。おろちは、何故攻撃が弾かれたのか理解できないらしく、葵の姿をした荒刀海彦の事を警戒して見詰めている。

「……それでは、参る。そこな化け猫。娘の事を、よろしく頼むぞ」

「だーかーら! 化け猫言うにゃ! おみゃー、葵の皮を被って荒刀海彦の演技をしている、あの馬鹿にゃんじゃにゃいだろうにゃ!?」

「あの馬鹿と同列に扱うでないわ!」

抗議の声を発しながら、荒刀海彦は走り出す。爪が鋭く尖る。腕に、手に、顔に。瑠璃色の――しかし弓弦よりは少しだけ深く暗い色の――鱗が全身に現れた。

戦闘態勢に入った荒刀海彦は地を蹴り、おろちの第四の首へとその爪を突き立てた。








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